Page.20 詩人と酒
神。ひとびとのこころの支柱であり、悪行へのブレーキ。
未解明の自然科学や心理、形而上の答えのひとつ。そして、争いの種。……だったもの。
地上が灼熱と化し地下に逃れたとき、人類は己の高慢さと愚かさ、自然と化学の偉大さに圧倒された。
そして、多くの者は神に祈るほかに手立てを持たなかった。
当然、神は人類を救わなかった。ただ神は在っただけ。
砂だらけだろうと灼熱だろうと、世界も光も在ることには変わりがない。
その試練のようないかんともしがたい現実もまた、神が在ったからこそで、ひとびとのこころには神への疑心が生まれつつあった。
予測不能な天候に対して祈りの有用性を説く者も現れたが、もはや誰も耳を貸さなかった。
けっきょく、彼らを生き延びさせたのは自然科学であり、建築学であり、農業であり、労働だった。
苦心惨憺、試行錯誤の連続。変わらず折り重なり続けた失敗と成功の歴史。
砂山のように吹き飛ばされないためには、風が来ないことを祈るよりも、こつこつを重い石を積み上げるのがいちばんということだ。
核シェルター技術や耐震建築の応用によるドーム建築。
かつての太陽の代替たる光源設備の整備。
ドーム環境でも強く育つ植物の研究。生き残った家畜の品種改良。水と空気のクリーニング。
これらは目覚ましい発展を遂げる。
もちろん、電子技術も地下に潜ってからも順調に発展を続けた。
技術の発展は加速をするが、減った人口が戻るのには長い年月がかかる。
だが、危険な環境下での作業で貴重な人材が失われることもしばしばあった。
人間たちはそれを防ぐためにの新たな人類のパートナーを生み出した。
機械仕掛け、プログラム仕掛けの論理的なひとたち。ロボット。
それには人工知能が搭載されており、孤立した人間たちの寂しさを紛らわすのにも役立った。
人間は超人的な力を持つ彼らを同類のように大切に扱ったし、ロボットはロボットで人間たちにこころから仕えた。
ロボットの誕生はある種、人類が神になったと錯覚させるのに足る出来事だった。
そして彼らと暮らすうちに、多くの宗教や信仰はいよいよ形骸化し、消えていった。
ドーム建設時、ごく一部の小規模ドームにはドーム同士が隔絶された社会になることを想定して、特定宗教の信者だけが集まって建設されたものがいくつもあった。
だが、人間の活動域が限定され自律ロボットの役割が大きくならざるを得ない環境は、偶像崇拝の禁止をした宗教にはあまりにも醜く過ぎたし、“宗教屋”の傀儡だった教えは経済システムの崩壊により終焉を迎えるほかなかったし、ちいさな宗派はドームを持つことはできず、それぞれ自然消滅していった。
なんとか残った宗教ドームの多くもそのうちに外界との隔絶を望み始め、情報と物資連絡網たる“サブウェイコンステレーション”への参加も拒んで孤立。
いつしか信号を発さなくなっていった。
この数百年のうちに反応の消滅した小規模ドームは中央が把握できた分だけでも十二基。
どれも宗教や民族に固執したひとびとの集まりだった。
信奉の心のままに死ねた彼らは幸せだったのだろうか?
ひょっとしたら電波類の発信を把握できていないだけで、私たちよりもこころ豊かに暮らしているものもあるのかもしれないけど……。
星座に結ばれなかった星々。誰も見上げなければ、それは無いも同じだ。
……そして、祈りを捧げられなくなった神も。
オリオン座第二層中心近く、商業トゥループと居住トゥループのあいだを流れる川。
人工的に整備され、空気と水の清浄システムの一環として造られ、川底も土手も硬く固められたものではあるが、かつての自然の一端を感じられるそれはひとびとのこころの憩いの場でもあった。
光を反射する水面だけを切り取ってみれば、本物の川とそう変わりはないのかもしれない。
川沿いには飲食店や商店が並んでいる。『神の河』はそのうちの一軒。
昼間はテラスカフェ、夜間はバーとして。
昼間も酒類の提供はしているが、夜間従業者は彼らに向けられた店に集まるからか、この店では昼間から大きな喧騒が聞こえてくることはないようだ。
アフタヌーンティータイム。
みなが楽しげに話に花を咲かせる。休暇のひとや主婦や主夫。
デートで来ている若者もいる。ここにも異種カップルみっけ。
人間の子供にはちょっと退屈らしく、追いかけあったり、テーブルに隠れたりして騒ぎ立てている。
それをつい最近に大人用の身体に代わったばかりだというおねえさんマイドが窘めていた。
ささやかな水の曲とひとびとの歌唱。
「いいところね」
私は虹色のテーブル群を見渡す。一か所だけ音の昏いところを見つける。音は灰色。
その中に、まるで自分だけが違う流れに居るかのように川を眺める、ベレー帽を被った男マイドを見つけた。
イスに腰かけ、背を大きく前傾させて、右肘を左膝に突き手の甲に顎を乗せている。どこかで見た姿勢。
「失礼します、ドランテ・アリギさんでしょうか?」
声を掛けると、彼は首だけをこちらに向けてきた。
平衡システムの乱れ、首を動かしただけで胴まで揺れているのが見てとれる。
「ここを教えないでくれって、メグには釘を刺していたのに。……ここに青色は似合わないよ、お嬢さん。かつて空と海が青を湛えていたとしても、流れる川の色は常に虚空の色を讃えていたのだから」
彼が何を言っているのか、ちょっとよく分からない。
だけれど、歓迎されていない事はなんとか理解できる。
「ごめんなさい……?」
さて、なんと切り出したものだろうか。
いきなり「お知り合いになりましょう」と言うわけにもいかない。
ストレートにミスター・パネルの話をしても拒否されてしまうだろうし。
「ウルシュラさんの差し金じゃあ、ないみたいだ」
彼は川に視線を戻すと、そう言った。
「……」差し金なんだけど。
「北極星からの使者」
彼は自分の二の腕を指さして見せた。そうか、私の腕につけている腕章。
「アストロラーベは尺度が不正確だ。だけど、北天を中心としている。はじまりが歪むことはない。だが、裏を見ることは絶対にできない」
アストロラーベ? “個人不介入”の話をしているのだろうか。中央出身でも関わるなとか……?
「でも、メグ……マーガレットが君にここを教えたのには、きっと意味があるんだろう。話くらいは聞くよ」
彼はようやく身体の向きを変え、私にも向かいの席を指して膝を勧めた。
「中央技術部隕砂研究室室長アイリス・リデルです」
「ニコニコサンドサービス二層部勤務のドランテ・アリギ……悪いね。少し酔ってるんだ。酩酊解除時間までには、もう少し間がある」
「いえ、休暇中に急に訊ねたりして、申し訳ありません」
私はマイド然として答える。
「建前上は個人的な用向きで来たんだろう? 僕も今は個人だ。きみは、妻の紹介で個人的に僕に会いにきた」
お見通しの彼は煙たそうに顔を振った。
「ありがとう、ドランテさん」
「どういたしまして、アイリス」
少し頬の温度上昇を感じながら礼を言う。男性マイドからの個人的な呼び捨ては慣れない。
やはり私は公私の切り替えがいまいち苦手だ。台本があれば明確な境目を示してもらえるのに。
「……それで?」
彼は私が話し出すのを待ってるらしい。二層ボディの機械仕掛けのまぶたを半目に、私を見つめている。
「えっと……」
「あはは!」
私が言葉を詰まらせると、彼は急に声を立てて笑った。彼の妻がそうしたように。
「いやあ、ごめんごめん。人間の女性といっても、やっぱりマーガレットとは違うか。……彼女に会ったんだろう?」
「え、ええ」
「彼女と居るとね、言葉が溢れてくるんだ。酒の力に頼らずとも、ね。会話が弾んで、言葉が紡がれると、それはひとつのプログラムコードのようになる。詩的な言葉も部分的に切り取れば無意味だ。すべて合わせてひとつの作品なのさ」
……とにかく、彼がマーガレットを賛美しているのは分かる。
「優しい雰囲気のかたでした」
「そうだろうね。僕の愛する女性。メグはこんな僕を受け入れてくれた」
彼は満足そうに笑うと、テーブルの下に垂らしていた腕を持ち上げ、私の前に手のひらを広げて見せる。
一、ニ、三、四……四本の指。欠けた薬指。無事なほうの手の薬指には指輪が光る。
「事故か何かで?」
「そう。一層から二層にあがって、砂相手から機械相手の仕事が増えたんだけどね。プレス機でついうっかり。せっかくの二層ボディを傷物にしてしまった。運の悪いことに、何年か前までは指の欠損くらいならラボでちゃちゃっと治してもらえたんだけどね」
掲げたまま手のひらを見つめ、裏返し、また見つめた。子供が宝物を見つめるような。
二層マイドの表情パーツとはいえ、そこまで細かい表現はできないはずだけど、私はそういう風に感じた。
「メグとの出逢いは一層だった。掃除機の修理のクライアントだった。でもヘンだろう? 二層にも修理屋はあるのに」
ドランテ氏は「メグは二層生まれなのさ」と付け加える。
「そうですね」
「一層がどんな所か見てみたかったんだって。修理を口実に、二層からわざわざ面倒な手続きを踏んで、個人的にだよ? どうしてだろうね?」
クエスチョンが投げかけられる。
「未知というものは、人間のこころをずっと虜にしてきましたから。見聞きするだけよりも、実際に行ってみたいと考えるのも分かります」
「模範解答。でも、僕はそうじゃなかった。少し頑張れば二層に上がれたけど、興味がなかった。……彼女に逢うまではね。砂を掃除して、掃除機を直して、仕事あがりには申し訳程度に酔っぱらって、休暇に機械を弄って遊ぶ、それで満足だった」
「ひと目惚れですか?」自分で口に出しておきながら、また頬の温度を気にする。
「うん。フォーリンラブ。僕はそれまで、人間の女性はおろか、同族の女性にすら興味を持たなかったんだよ。でも彼女は二層生まれのひとだったから、一層暮らしの僕じゃ会いには行けない」
彼は表情パーツを恍惚を表現する配置にして言った。
「……だから、その日から生きかたを変えたんだ」
灰色だった空間の彩度が少し上がる。
「生きかたを変えた?」
「演じかたを変えたといったほうがいいかな。僕の配役は“詩的でロマンティック”だったんだ。
それまではそんなもの、バカバカしいと思ってた。
表現なんて簡潔で分かりやすいほうがいいに決まってるって。
ロマンは人間の領分で、マイドは掃除機を弄るのが正しいんだって。
台本と配役は世界を回すための手段で、目的じゃないって。
人間の領分を侵すのは人間のためにならないって考えだった。
だけど、まったく配役に従わないのも問題だから、申し訳程度にバーでお酒を飲んでた」
「どうしてお酒? ……もしかして!」
私は噴き出しそうになる。
「そう、大昔の詩人は、のんべえだったから!」
肩をすくめるドランテ。
「それは置いとくとしよう。
飲酒については場所はバーはパブリックだけど、プライベートの時間だから評価の機会はまれだ。
そこだけ演じてても二層に行くための評価には遠い。
となると、やっぱり普段からロマンティックでリリカルな言葉を紡ぎ出す他ないよね。
初めは、自分にそんなことができるか不安だった。
だけど、彼女のことを思うと……こう、簡潔な言葉なんかじゃ済まされない気持ちが湧き上がってきて。
それをなんとか捕まえて言葉にしてみたら、あとはもう簡単だったってワケ。
仕事のほうはすでに大きな評価を貰ってたからトントンとことは進んだ」
弾みながら説明を続ける機械仕掛けの口。
「それで、二層に来て彼女とご結婚をなさったのね」
「そうなんだけど、せっかくだから、もうちょっと“自慢”してもいいかい?」
「構いません。ハッピーエンドのお話は誰でも好きですから」
私はほほえんで答える。
彼の顔の動きがわずかに停止する……が、また表情パーツは幸せを表現し始めた。
「メグに再び会うのは楽じゃなかった。
だって、彼女は持ち込みで掃除機を修理しに来ただけだったからね。
修理に時間が掛かるならあとで届けなきゃならいし住所も控えるんだけど、
不幸なことに修理を担当したのが僕だったから、その場で腕前を披露してサヨナラバイバイさ。
でも、姿かたちはしっかりとメモリーに記録した。焼きついちゃったって言ったほうが正しいね。
人間ならきっと、ここまで鮮明に記憶することはできないと思うよ。
それで、僕は自身のメモリーを頼りに彼女を探した。ただ二層に居るってことだけしか分からない。
初めはひとの多そうなところに出張って、メモリーと照らし合わせる作業の繰り返しだった。
……実際言葉にしてみるとまるっきり不審者だね。ストーカーってやつだ」
ドランテはまた声を立てて笑った。
「でも、84.65k㎡だ」細かな数字にため息を吐く詩人。
「0024番ドーム二層の面積」
「決して狭くはない。昇層は三か月で済んだけど、彼女に再会するには三か月じゃ足りなかった。
探してるうちに、あんな素敵な人だったんだから、ひょっとしたら彼女だって昇層してるかもしれないぞ。
僕だってそうしたんだし、何より彼女は興味本位で一層の修理屋に来るくらいだし、って考えがよぎった」
彼が笑う。
「さもありなんですね」
私もお追従。
「“ひょっとしたら”ということも考えられたから、
僕は彼女を探すかたわら、もっと“詩的でロマンティック”になれるように心がけた。
古代の書物、クラシック音楽を漁った。それに絵画……詩人には絵描きも多いんだ。
でも、これは試したけど全然だったよ。だけど、観るほうならなんとかいけたから、
彼女を探すついでに出かけた先で見つけたどこかの絵画教室の、素人絵の展覧会にふらりと立ち寄ったんだ」
語る詩人の横を、幼い人間の兄弟がはしゃぎながら駆け抜けた。
香る虹色。詩人は目を細めて彼らの背を追う。
「そしたらね、彼女が居たんだよ。やっと見つけた。僕はその時、人生で一番処理回路を使ったと思う。
どうやって声を掛けるのがベストだろうか? とか、彼女に“いい人”がいる可能性は? とか、
仮に話しかけられても、マイドである僕に彼女が興味を示す確率は? とかね。
その頃にはすっかり詩人が板についていたつもりだったけど、
全部吹っ飛んでさ、カチカチと計算を始めちゃうんだ。
計算結果も何も、その身体の反応が、僕はやっぱり機械なんだって、思い出させてくれた……」
マイドの詩人はため息を吐いた。川の流れる音が聞こえる。
「けっきょく、声は掛けなかったの?」
私は思わず急かすように訊ねた。
「掛けなかった。僕は全身の回路という回路が冷たくなるのを感じて、何もする気が無くなった。
彼女を見つめることも、会場から去ることもしないで、
ただ、手近にあった作品をぼんやりと眺めた。作品には砂漠と花畑が一緒に描かれてた。
マイドと人間は相いれないって言われてる気がして。僕はその絵に鎖でつながれたようになった」
砂漠と花畑の絵。どこかで見たような……?
「ところがどっこい! 僕が見つめていた作品は、メグの作品だったんだ。
彼女のほうから僕に声を掛けてきた。
自分の作品を見つめてるひとに声を掛けるのは何らヘンな事じゃない。当たり前だ。
でも、その時、僕は、すごい偶然というか、奇跡を感じたんだ。
今や書物の中でしか信じられてない神の指先に触れたような気持ちだった!」
彼の高揚が静電気のように伝わってくる。
「よかった。それでどうなったの?」私まで愉しくなってきてしまった。
「驚かないでよ? 僕が触れたのは指先だけじゃなかった。腕を捕まえたくらいの奇跡だったんだ。彼女、なんて声を掛けてきたと思う?」
「作品はどうですかって?」
「ううん」
ドランテは首を振ると、少し腹立たしいくらいの笑顔を見せて溜めた。
「なんと、どこかでお会いしたことありませんでしたか? だったんだよ。
確率的にはゼロパーセントの出来事さ。
なんてったって、僕が彼女に出逢ったときは一層のボディだったんだから。
配役に従って振る舞いだって変えてる。いわば全くの別人だ。
僕は、最大の障害の、自分が機械の身体だってことを忘れてしまった!
そんな悩みは彼女が粉々にして掃除機で吸ってしまった!」
彼女流のあいさつとか、似た人が知り合いに居たとか……。
私は少し彼のテンションを追いきれなくなってきた。
「きみの考えてることは分かるよ。でも、ノーだ。あれはきっと“たましい”の繋がりだと思うな。
あるいは神の啓示か。とにかく僕はその時感じた霊性に従って、彼女を食事に誘った。
人間流だ。メグは目を丸くしてた。マイドの男性のかたに誘われたのは初めてだってね。
それから僕は、その食事の席で無茶をやった」
「無茶?」
「そう、今思えば、だけどね。でもあの時はそうするのが一番正しいと思ったし、実際そうだった。洗いざらい話したのさ。一目惚れしたことから、二層に来て探したことまで全部ね」
彼は満足げに言葉を切った。
古代の詩人や哲学者にはギャンブラーが多く居たらしい。彼もまたギャンブラーで、そして賭けに勝ったわけだ。
勢いと展開に呑まれて最後まで話を聞いたが、ハッピーエンドでは悩みは見えてこない。
私は本来の目的を忘れてはいない。彼のお話はまだ馴れ初め段階だ。
「それで、ご結婚なさったのね」
私は続きが語られる前に物語を綴じた。
内容は胸焼け必至に違いない。ラブストーリーと仕事上のサクセスストーリーだろう。
「うん。それで“終わり”になってしまった。今の僕は、出逢ったときほどいい言葉も、仕事のアイディアも湧かない」
マンネリ化というヤツだろうか? あいにく私には未体験の話だけれど。
それが悩みで仕事に支障が? 工場ラインの修理にアイディアは不要だろうし。
彼は別のテーブルに視線をやる。またさっきの子供たち。
「きみは、メグに……マーガレットに会って、何か気付かなかったかい?」
ドランテが私に訪ねる。
彼は両手をテーブルの下にやって、動かしていた。
何かを撫でるように。マーガレットがやっていたように。
……お腹の位置で。
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