Page.17 不機嫌
夢を見た。
空の輝きを映す鏡の湖と、手つかずの密林。
茂った緑の中を遺跡探検家のような服装で歩く、マネキンのボディの少女の夢。
彼女は地面から険しく伸び生える草や、垂れ下がる蔓をしりぞけ河を辿っていく。
景色が開けるとそこは空。
河は滝に変わり、危うく落ちかける娘の前を、鮮やかな青い鳥がけたたましく鳴きながら通り過ぎた。
「虹よ!」
少女が指をさす。
――アラーム音。
ベッドに備え付けられた時計が私を叩き起こす。午前六時。
昨晩は淡々と点検をこなし、研究に関するディスカッションもおこなわずに帰宅した。
仕事は義務の遂行だけの、感動の無い作業と化した。
それで得られた見返りは、たったニ時間の睡眠時間。
私はあくびをする気力もなく、とにかく身体を動かそうと努める。
熱めのシャワー。睡眠不足のせいか、身体の芯は冷えたまま。
いくら洗い流しても肌が脂っぽい気がする。
今日からは第二層の工業区画へ行かなければならない。
ドームの修復作業は現場だけで成り立っているわけではない。
当然、修復用のパネルを生産する者たちの存在も不可欠だ。
私の視察の仕事は第一層の修復現場、二層の生産現場、三層の研究所それぞれの視察だ。
今日もボーイが朝食を運んできてくれるまでに身支度を済ませておく。
化粧のノリも、髪の調子も、自宅とは違う洗剤で洗われた私の洋服も、何もかもが最悪。
出立の時間までに、手早く昨日の出来事を箇条書きでノートにまとめる。
掘り下げて考察するのは今の頭には荷が重い。
ルーシーと親方のことはともかく、なんとかという副主任とその部下たちの事は考えたくもない。
だけど彼らは、今回の任務にも大きく関わる舞台を披露してくれたから、安易に一行にまとめて済ますこともできない。
「最悪……」
私はゴキゲン斜めだ。
甘味料四本の紅茶とウインナー三本と脂ぎったオニオンスープで胃を入念に虐待して、私は迎えの黒い車に乗り込む。
「やあ、アイリスさん。本日からは二層の御視察の予定でしたな?」
ハゲヒゲ。ムカついた胸にイヤらしい香水にご加勢を頂いた。
「ええ」
返事は正直だったろうか。どうでもいい。
「それなのに、ずいぶんと野暮ったい格好をなさって。最初にお会いしたときとは大違いだ。しかしまあ、なんですかな。野草なんて見かけた日には幸運があると言いますし、これはこれで乙なものなんでしょうなあ」
舐めるような視線。
「ラント・キド座長はご存じでいらっしゃらないかもしれませんが、一層もこの服装で視察させていただきました。我々技術者にとって、この青い作業服というものは制服のようなものですから。オリオン座二層の生産業務に関わるかたがたにも、敬意をもって接しさせていただきますわ」
やや早口。
「いやはや。もったいないことです。一層では防砂服無しで歩くのは難儀しますから、せっかくあの野暮ったいスーツを脱いでのご活動を拝見できるのにと思ったもので、つい。早く天井が修復されるといいですなあ」
座長はまるで他人事のように言った。
第一層で目をこすりながら登校していた子供たち。
延々と掃除を繰り返すひとびと。そして、いくつもの因子の絡み合った結果、身体の一部を失いかけた少女。
私の胸が発熱する。胃がきりきり痛む。はじけるような赤がことばとなって喉元までせり上がってくる。
「……」
すべてを台無しにするそれは吐き出されることもなく、あくびで誤魔化されることもなく。
ひとすじ、化粧を崩した。
* * * * *
0024番ドーム、第二層。第二層がドーム中最大の面積を有するのは、何もオリオン座だけのことじゃない。
巨大な地下空洞を維持するための物理学的な問題、システムの運用と経済上の問題。
すべてのドームは第二層の面積が自然と広くなる。
エレベーターホール。洗浄施設。バスターミナル。壁際のエレベーター前から広がるのは工場の群れ。
それからしばらく行けば、立ち並ぶ家々が見られるだろう。さらに中心部へ向かって進めば、商業地帯と控えめなビジネス街。
中央以外のドームは、たいていはこのパターンで区画配置されている。
二層のドーム外周部に近い区画に工場が並ぶのは、ドーム外への排気口や、コメットサンド素材となる砂や土の採掘場が壁際に設けられている都合だ。
製品を他層へ運ぶエレベーターへのアクセスもいい。
朝九時。
本来ならば明るい天井灯が第二層をいっぱいに照らしているはずの時間だが、青く塗られた空の疑似太陽たちには歯抜けがいくつも見られた。
「天井灯が欠けてる……」
二層の天井を管理するのは一層の役目だ。
砂害で一部の天井灯がダウンしているようだ。
それでも落ちているのが明かりだけで済んでいるのは、まだ幸せなほうだろう。
ドームパネルの生産は公共事業だ。ドーム主導で総括している。
座長も少なくとも書類で関わっているはずだ。
パネル生産そのものは、民間企業の工場へ委託をしている。
まずは委託先の企業をリストアップしなくては。
私は第二層エレベーターホールからタクシーに乗り、オフィス街に向った。
タクシーの運転手は人間でよかった。乗り込んで目的地を告げる。返事。以上。
窓から見える街並みは、黄ばんだシャッター街と化していた一層と比べてはるかに涼しげだ。
材料の砂が逃げないよう建物の箱にしっかり仕舞いこまれた工場群、パネルの生産場だ。
中まで開け広げになった町工場、バスやタクシーの整備をする作業服姿のひとびとがいる。
何を話しているのかは分からないが、マイドの女性が人間の男性に対して大きな身振りで何か訴えているのが見えた。
工業区を抜け住宅街へ。楽屋の立ち並ぶトゥループ。
既製品のように同じ顔をした一軒家、通りによって色が違う。オレンジ、ベージュ、ホワイト。
高級な区画であればそれぞれ形も変わってくるだろう。
今も昔も憧れのマイホーム。デザイナブルで個性的ないれもの。
ときおり、潤沢に土地を有した偉そうなアパートメントも見当たる。
実際のところは、各々の部屋は広くないはずだから、キャスト達は一軒家と比べて小ぢんまりと暮らしているのだろうケド。
アパートメントには公園も併設されており、親たちが幼児を遊ばせている姿が観られる。
もう少し早い時間なら、子供たちの登校風景も見られただろう。
一層の彼らも砂ばんだ空気に負けていなかったからのだから、こっちなら少しうるさいくらいだろうか。
家々を通り抜けたのち、ビジネス街へ。
何世紀も続く伝統的な作り。縦長で、角ばっていて、ガラス張りで。スーツを着たひとびとが行き交う。
口で説明するとそれ以上のことはないのだが、立ち並ぶビル群には微妙なデザインに差がある。
会社の顔となるビルディングは、パブリックな通りへとささやかな個性を向けていた。
タクシーはとあるビルディングの前で停車する。
私はタクシーを待たせ、第二層でも特に背の高い建物へと足を踏み入れた。
『0024番ドーム監督第二層部隕砂事業総括局』
分かりやすいような分かりにくいような機関名。
コメットサンドを扱う事業のすべてを管理する公的機関。
ドーム社会でいう監督者というのは、責任者のことではない。
警備、警察、それから隕砂粒子の清掃業者など、ドーム内の安全に携わる業種全般を指す。
警察機関は場合によってはドーム外に出ることもあるが、ドーム全体を守る仕事をドーム外作業者と分割しているわけだ。
私は自動ドアを潜る。
わずかに「ジャリッ」と音がしたような……。ちゃんと掃除しているのかしら?
隕砂事業とはいうが、実働部隊である清掃課は警察署と一緒の建物にある。
ここでは砂粒そのものはひとつも扱わない。書類をやりくりするのが仕事だ。
リミットによる事故はドーム全体の問題につながる。
ドームに許可を下ろしてもらわずに精製に関わると違法だ。
だから、工業に携わる会社はすべてここに登録されていることになる。
私は受付の女性に身分証と許可証を見せ、パネルの生産を受けている企業のリストと、生産状況についてのデータの閲覧許可を貰った。
役所のたぐいはあまり好きじゃない。
受付でやり取りを済ますと、早足で閲覧室へと向かう。
「一番規模の大きい工場の生産がストップしてる……」
ガラス張りの閲覧室のコンピューターと睨めっこをする私。
……視線を感じる。
振り向くとひとびとが一斉に顔を背け、お茶を運んだり書類を運んだりし始めた。マイドも人間も。
そろって似たようなビジネススーツなのは仕方がないけど、中身の関心まで揃うものなのかしら?
「中央の人間がそんなに珍しいのね」
私は露骨に肩をすくめてモニターに視線を戻した。
問題の工場の住所をノートに記し、さっさと建物を出る。
タクシーに戻り、次の行き先を告げた。ふたたび工業区へ。巻き戻される景色。
『オリオン座きっての隕砂加工業務のスペシャリスト、ミスター・パネル! いつもみなさんのそばに』
工場の壁に書かれた口上。『ミスター・パネル』はオリオン座の建物の壁や天井を製造している大手企業のひとつらしい。
敷地内には工場、倉庫、事務処理をしているであろう社屋などが並んでおり、広々とした道路を社用車が走っている。
二層は広いとはいえ、私たちにとって土地とは貴重なものだ。
あちらこちらには緑があり、絵的にも見事。
芝生や植木。それは本物だろうか? 模造だろうか?
アポイントメントもなしに乗り込むには、かなりの勇気の要るレベルの企業だ。
私はタクシーの運転手に身分証とハゲヒゲ印の印籠を見せて黙って降車した。
「すみません」
入り口の門の横に警備員の詰め所。窓から退屈そうな機械の顔が覗いている。
「これはご婦人。いったいどのような御用で?」
老人声。やはり見た目では分からない。
「中央技術部隕砂研究室から視察に。事前の連絡はおこなっていませんが……」
恐る恐る差し出される身分証と印籠。
「なんと……」
マイドの男性警備員は私の身分証を見て凍結した。
「北極星から! こりゃ一大事だ。クローバさんに知らせなきゃ!」
慌てる彼は再び動き出し、電話機をひっつかんだ。
私は、大げさなリアクションは“人間然な振舞い”としては不合格だと思う。
長く続く呼び出し音と、私を交互に見やる警備員。ちらちらと見ないで欲しい。
ようやく電話が繋がった。早くして欲しいわ。
どんどんと私の神経が穏やかでなくなる。今日は本当にイラつきやすい。
ところが、電話から漏れ聞こえた音が、私の不機嫌の砂山を蹴り飛ばした。
『キエエエエエエエ!』
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