フォークダンスの神が降臨する 「コハノチカ―最愛の人」
あたしはフォークダンス部というちょっと変わったサークルに入っている。フォークダンスだなんていうと、中学のキャンプファイヤーでやったマイムマイムだとか、オクラホマミキサーで好きな人と踊れる順番が回って来るのをわくわくして待っていたのにお目当ての前の人で曲が終わってしまう青春の切ない思い出だとか、そういうのばっかり世間の人は連想するらしい。でも実際あたしたちが大学生にもなってやっているのはそういう若い男女がお手手つないでランラランラいうだけの意味合いの軟弱なもんじゃなくて、そうだなあ、フォークダンスときたらベルトホールドです。両隣の人のベルトをガッと掴んで列がちぎれないよう一生懸命連動して跳ねまわる、それがあたしたちのやってるフォークダンスです。Folkdance、つまり「民族舞踊」ね。東ヨーロッパの民族の踊りが多いかな、他の地域のも踊るけれど。華やかな色彩の民族衣装を着て、ジプシーダンスとかブルガリアのホロとか、台湾の踊りも踊るしアルゼンチンタンゴもちょこっとやってる。スペインのセビリャーナス、チロルのレントラー、スコットランドのリール、ハンガリーのチャルダッシュ。いろいろあるわよ。こういう難しそうな例を出しといてあれだけど、もちろんイスラエルの民族舞踊マイムマイムや、アメリカの民族舞踊のオクラホマミキサーを馬鹿にしてるわけじゃありません。知ってる? マイムマイムって、砂漠の民が水を掘り当てて喜ぶ踊り。民族にはそれぞれ歴史や文化伝統があるの。その背景を知って、その国ならではのステップをマスターすれば、踊り方は自ずと違ってくるんです。不毛の地に水が出て来た! って想像したら嬉しそうに上を向いたり楽しそうに振り向いたりして踊るようになるでしょ? それだけで踊りが本物に近づく気がする。こんなあたしでも実はそういうのを大事に思ってる。ま、民舞人、民族舞踊人、つまりフォークダンサーのことね、民舞人のほとんどはそんな面倒なこと考えずにフォークダンスそのものをダンスの一分野として単純に楽しんでいるんだけどね。
あたしは今2年生で、3年生のようにサークルの役職についているわけでもなく、入ったばかりで右も左もわからない1年生ほど周囲の皆ときゃぴきゃぴやってるわけじゃないから、中だるみというか? ちょっと最近飽きて来てはいるところ。いや踊りもサークルの皆も好きなんだけどね。でも本格的に踊りにはまりだした他の2年の子みたいに熱心になれないところがあるわけよ。ブルガリアの複雑なステップに挑戦する意欲はあまり無くて、イスラエルのちょっと古い牧歌的なのやセルビアの渋い短調なのを踊ってる方が楽しいっちゃ楽しいんです。まあそういう感じで踊りもするけど、実はあたしがサークルをやってる一番大きな理由はやっぱり例会の後の「飲み会」が好きだからかもね。なんてあたしが言うと大野女子大の学生らしくない、むしろ提携校の福徳大の男子みたいだなんて同期の皆に言われる。いや自分では充分女らしいと思うんだけどな。
飲み会の話はいいや。踊りって、基本上級生から下級生に伝えていくものなんだけど、2年生になったら部員全員が「コール」というのを担当するようになるのね。紙の資料をもらって、皆の前でその通りに踊り方の説明をするのがコール。その前にお手本でデモするの。勉強になるけど結構大変。コール前には皆結構必死に練習する。3年生の指導部がいろいろ指導してくれて、OKが出るまで解放してもらえない。指導部って厳しいのよ。華の指導部長は3年の世羅吉乃さん。吉乃さんは優しいけど踊りには妥協しない。あたしが結構適当だから何度も何度も同じ個所を指摘されるんだけど、それでも見捨てずにあたしたちの練習に付き合ってくれる。そう、実は今度あたしと同期の福徳大2年矢部光典の二人でロシアの踊り「コハノチカ」(Коханочка)をコールすることになってる。コハノチカなんて1年の時も習ったけどろくすっぽコールなんて聞いてなくて、ただ可愛らしい踊りだなあ、あたしには似合わない感じがするなあと思ってたけど、指導部が突然これをやれって資料を渡してくるものだから、逆らうことは許されなくて、はあ、わかりましたと矢部と二人で頷くしかなかったわけです。上級生の言うことは絶対のお堅いサークルなわけよ。しかもコハノチカっていうのは男女で組んで踊るカップルダンスで、コーラーは毎年福徳大から一人、大野女子大から一人選ばれて、しばらくの間一緒に自主練習しなきゃならない。そのパートナーが矢部っていうのが目下あたしにとっての悩みの種、ってことなの。
あたしはこの春くらいまで福徳大の先輩とお付き合いしていたわけだけど、その前は高校1年の時からずっと一個上の先輩と付き合ってた。すごくかっこいいサッカー部の主将で、女生徒からは大人気だった。先輩が卒業して、大学に進学して、あたしも当然同じ大学に行きたいなと思ってたんだけど、いろいろ事情が有って一年浪人して、次の年あたしはこの大野女子大に入学した。そこまでは先輩とも上手くいってたんだけど……。
ね、彼女が、或いは彼氏がもし趣味でフォークダンスなんて始めたら、皆どう思う? 先輩が一番に言ったのが、「え、なに? 男もいるの?」だった。
「そりゃあどんなサークルでも男くらいいるでしょ」
あたしが言うと、
「でも手を繋いだり二人で密着したりするんだろ」
「何言ってんの。そんなんじゃないってば」
まあ言われてみれば手は繋ぐしクローズドポジションの踊りだと男と二人でぴたっとくっつく形にはなる。でもそれは踊りだからで、そこには何の下心も無い。サークル内ではそれが普通だから、恥ずかしがる方がおかしい。そういう空気だからサークルに入ったばっかりのあたしだって何の抵抗も無かったのよ。でも週末ごとに今日はサークル、明日もサークル、ということになると、普段別の大学で全然会えないだけあって彼の方がだんだん不機嫌になってきちゃって。サークルやめてよ、って言い出した。そんな、せっかく入った楽しいサークル、気の合う仲間を、彼氏の為に捨てなきゃいけないなんて、思ってもみなかった。あたしは彼の気持ちがあんまりよくわからなくて、意地になって絶対やめない、って言って通い続けた。飲み会にも行った。その結果が……。お察しの通り、あたしのせいで別れちゃったわけ。彼に気遣いができなかったあたしも子供だったかもしれないけど、それでもやっぱりあたしはサークルをやめなくてよかったと思ってる。思っている一方で……落ち込んでる。なんでこんなことで別れなきゃいけなかったんだろうって、今でも思ってるんだ。彼が好きだったし、彼もあたしが好きだった。なのにこんなことで。駄目になっちゃうものなんだね、恋愛って。
その後同じサークルの先輩なら踊りが原因で別れることもないだろうと思って声かけてくれた人と付き合い始めたけど、あまりうまくいかなくて。いい人だったんだけどね。で、長々過去の話をしちゃったけど、そうそう、何が言いたかったかというと、くだんのコハノチカのパートナー矢部が、そっくりなわけよ。高校の先輩と。矢部は1年生の途中で入部してきたからこんな人がいるのにも最初気付かなくて、ある日突然あれ? って思ったわ。眼鏡を外したら彼にそっくり。でも、顔だけね。体つきはひょろひょろだし、性格はさえない気の弱い生真面目な秀才タイプ。はっきり言って趣味じゃない。顔は彼に似てるのにね。実はあたしはメンクイじゃないんだわ。だけどさ、気になっちゃって気になっちゃって。誰にも言ったことはないんだけど、ずーっと矢部のこと心のどこかで苦手に思ってた。それなのに突然一緒にコールをしなきゃいけないなんて。
とはいえあたしも真面目にやってますよ。何度も二人で踊って、こうしようああしようって話しあって。でも先輩のこと思い出しちゃって、そのせいなのか何なのか弱気な矢部にいらついてしまって、他の同期だったら絶対ここまで言わないだろうに、タイミング遅いよ、とか、リズム感無いんじゃない?! とか、言ってしまうのよね。言いたくないのに。矢部は本当不器用で、あたしだって踊りの技術なんて無いに等しいけど、そんなあたしがイライラしてくるくらいあいつはへたくそで、とんでもないふたりでカップルを組まされてしまったわけだけどね、あたしが文句言うと、あいつは、すいませんじゅんさん、ごめんなさいじゅんさんって、先輩によく似た顔で申し訳なさそうに謝ってくるもんだからますますあたしは腹が立って、どんどんヒートアップしてしまう。で自己嫌悪に陥っちゃまた違う違うってあたしが彼の手を掴んでロシアンポルカを1ト2、3ト4って教えてあげたりするわけよ。そしたらあいつ素直な目ではいはいって頷いて、また変なリズムで全然違うことし始める。あああ~イライラする。
いよいよコール本番の日が来て、あたしも2年になったばかりでコールには慣れてないものだからちょっと緊張しちゃって、ロシアの民族衣装「サラファン」を、あ、ロシア民謡の赤いサラファンっていうあれね、あのワンピースを着て本番前にうろうろ廊下を歩いていたら、矢部がルパシカっていう、チロリアンテープみたいなのが首の周りについたロシアのブラウスを着て二階から降りて来て、あ、じゅんさん綺麗ですねなんて奴の柄にもなくへらへらお世辞なんか言っちゃってさ。またあたしいらっとした。
「デモ、頑張りましょうね」
「うん」
「じゅんさんのお陰で僕、ロシアが好きになりました。いろいろ教えてくれてありがとうございます」
「あっそう……」
「じゅんさんて何かいい人ですよね。コール練すごく楽しかったです」
はあっ? あたしがいい人? 何言ってんだこいつ。ひょっとしてあたしが懇切丁寧に練習に付き合い過ぎて、何か勘違いしちゃってるんじゃないのかしら。たとえばあたしがこいつに気が有るとか。こういう人時々いるんだよね。あたし面倒見が良過ぎるのかしら。そう考えるとあたしのイライラはMAXに達して、とうとう怒鳴りつけてしまった。
「あんたさあ、大概にしてよ? 別にあたしあんたに好意で付き合ってるわけじゃないからね? コールしなきゃいけないから一生懸命やってるだけで、あんたのことなんて何とも思ってないんだからね!」
考えてみたらこんな自意識過剰な見得切って、赤面ものだわ。だけどなんであたしがそんな馬鹿なこと言っちゃったのか、むしろ矢部の方がわかってたのかってくらい、あいつは落ち着いていて、本当に何事も無かったかのように、じゅんさんじゅんさんって言うんだわ。
「コハノチカって、踊り方資料に書いてあったけど、ロシア語で、最愛の人、って意味なんだってね」
最愛の人? そうだっけ。矢部とあたしは同じ資料のコピーを指導部から貰ったはずだけど、そんなこと書いてあったかしら。まああたしも適当な性格だからそこまでちゃんと見てないけどさ。
「じゅんさんはさ、もしこれを最愛の人と踊るとしたら、こんな風に嬉しそうに、軽やかに、森の中の小川をぴょんととび越えるように、踊るんだろうなって僕想像しました。いいなじゅんさんは。この曲じゅんさんに似合ってる」
あたしははっとして、一瞬頭の中が真っ白になった。最愛の人。そっか、あたしは、先輩と一緒に、踊りたかったんだ。自分の好きになったフォークダンスを、一番好きな人と一緒に踊りたかったんだ。あたしは彼が好きだった。それはわかりきったことだと思ってたけど……。
それは随分と乙女チックな馬鹿馬鹿しい空想でさ。スーズダリの白夜の草原なんかでさ、空気が澄んできらきらしててさ。女の子っぽい赤いワンピース着たあたしが、頭巾に花なんて付けちゃって、手先でチーフ振り回して踊ってるわけよ。そしたら村の男たちが、コサックみたいなダンスで技を競って、あたしにアピールしてくるわけ。自分が一番男らしいんだぞって。あたしはふうんって目で皆をちらっと見はするけど、選ぶ人はもう決まってるの。先輩なの。彼は一番かっこよくて、誰よりもかっこよくて、あたしの誇り。皆が憧れるヒーローだった。ああ、彼が好きだったんだ。そう思ったら、涙が出て来た。
だけどいつまでもそうしてるわけにいかなくって、あたしと矢部は体育館の真ん中に出て行った。スポットライトを浴びたように気分が高揚した。練習通り、あたしたちはコールデモを踊りました。ま、あたしたちのことだから出来はそれなりだけど、いつもよりずっと楽しかった気がする。矢部がさ、あれでなかなか頑張ってくれて、にこにこしてるの。悪い気はしないね。一緒に踊ってる人が楽しそうにしてるのって。そんな彼は堂々として随分頼もしくなったように見えた。デモが終わって今矢部が皆に踊り方を、言葉を使って説明してるところなんだけど、後でコールが終わったらさ、言おうと思うんだ。照れて言えないかもしれないけど。うん。そうだな。こう言おうかな。
「あんたの踊り正直ちょっとかっこよかったかも。あんたがあたしの最愛の人じゃあないけどね」
ってね。
〈終〉