漆黒の旋律。
行き交う人々。
その喧騒すら素晴らしき音楽会。
況してや、決して音にならないシグナルすらト音記号と化してした。
自然と紡がれる指先は軽やかにつま弾かれる。
双眸を閉じた矢先、脳内に鮮明な光景と壮大な物語が描かれていった。
誰ひとりいない音響施設の中で独り激しく鍵盤の隅々に至るまで叩き付ける。
深爪は生々しく、だが旋律の奥行きを引き出すには当然のこと。
徐々に赤みを増す各々の指先が桃色に染まり、それは鬱血していたのであろうか。
真摯にピアノに向かい合うも、どこか他人行儀であったのは己の性格 ── 我が儘な自分の妄想だろう。
「ピッポッ。ピッポッ」
あまりにもその世界観に相応しくない旋律が唐突に現実へと自分を引き戻した。
再び襲い掛かる日常は目にするにあまりにも滑稽で愚かしい。
冷たいコンクリートを見詰めるでもなく、晴々とした大空を眺めるでもない。
人生の分岐点ともいえる大切なコンクールで不様な失態を晒してしまった青年。
彼はガッチリと整えられキープされた頭髪をこれでもかと掻き乱してしまう。
「う……うああああああ……っ!!」
血が滲むほどに頭部を掻き毟っていた彼を見て、周囲の者達は一瞬ではあるが思わずギョッとしてしまった。
しかし、この広い世の中。
珍しいことではない。
寧ろ、犯罪行為でないだけマシだ。
麗らかな春の陽気であれば、尚更当然。
仕事に向かう通行人や世間一般的な家族などはやがて見て見ぬふりをしていた。
手元に携えられた電子記号に没頭せざるを得ない。
たかが音楽家の成りそこねになどは最早、毛ほども関心を示さない。
ドッと膝から崩れ落ち、頭を抱えて蹲る青年は頻りにわめき声をあげ、嗚咽にまみれていた。
才能とは、何だ。
努力は実るモノなのか。
いつになったら評価されるのか。
どれだけ費やせば世間は認めてくれるのか。
まだ二十歳にも達していない。
なのに、それまでの苦労が頭髪に顕著となり、ハラハラと大地に投げ放たれる白毛が痛々しい。
ピアノ一筋に人生のすべてを懸けてきた。
家族を投げ棄て、食べることすら。
一ミリたりとも遊びにかまけず。
それでも歯を食い縛り、全精力を一心に注いできたのだ。
相変わらず、苛立たしいシグナルは規則正しく点滅を繰り返し、それが世の常だと突きつけていたようであった。
「こんなモノが……」
ありふれた常識に対して、不満は止めどなく溢れる。
微かに耳を占領した線路の踏み切り音。
定期的に、いや、たまに乱れた時間だけが更に自分の研ぎ澄まされた感覚を犯し続ける。
度重なる頭痛、耳鳴り。
フラフラと両足は自然と近寄ってゆく。
カンカンカンカン。
赤と白の点滅信号。
妙にそれが心を打ち付けた。
長く延びた黄色と白色を疎らに、交互に塗り付けられたバーを潜ろうとした。
しかし、たったひとりの想いが見かねて、彼を現実へと引き摺りあげる。
「ダメぇ!! 死んじゃあ……何も残らないです!!」
全く予期していなかった人物。
しかし僅かながらに、朧気に覚えていた。
それはコンクールの式場で、たったひとり涙を流していた女性だった。
はたと意識を取り戻し、私はくれぐれも冷静に彼女に問うことにした。
「何で……止めたんだよ……」
「あなたが……そこにいるからです……!!」
それは今まで耳にしたことのない素晴らしい旋律だった。
泣いたことの無かった私は、はじめて心の奥底から涙を流したかもしれない。
満たしてゆく温もりに、私を想う愛情に。
それは勘違いであるかもしれない。
しかし確かに心は締め付けられ、自然と身体は温もりを求め抱き付いていた。
そして気づく真実。
脈打つ鼓動には勝るものはないということ。
伝う心音に母なる旋律を感じた。
まさしくこれが追い求めていたモノなのだろうか。
数日後 ── とある河川敷にて身元不明の遺体が発見されることとなる。
取り扱われた報道番組では猟奇的なコメントが陳列され、遺族の詳細を求めるテロップが続々と流されていた。
片手にした独特の旋律に耳を傾けながら、空いた片手だけで鍵盤に曲を奏でた。
私は様々な心音に興じつつ、ピアノを弾く。
「ああ……世界は音楽に満ちている……!!」
深紅に染まるピアノ。
そう。
私は死の音楽家。
真剣に読まないように……っ!