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短編

白い羽根、ふる

作者: 三千


月曜日。


ピンポン。


売れない物書き時代から住んでいる、古めかしいアパートの玄関のチャイムが鳴って、僕の心臓はどくんと跳ね上がった。


夕暮れ近くのこんな時間に、何の取り柄もない僕の部屋へとやってくる友人もいないし、ネットで何も注文していないのだから、宅配便でもない。


僕は、僕の右手の中で、ゆらゆらと揺れていた2Bの鉛筆をそっと、書きかけの紙の上へと置いた。


その鉛筆と同じように、ゆらゆらと揺れていただけだった僕の脳みそは、そのチャイムによって、ぶるりと震えて覚醒し、けれどすぐにも混乱する。


玄関の方へと恐る恐る目を遣ると、ドアの中央にある擦りガラスに薄っすらと影が浮かんでいる。


たまきさん、」


僕の、恋人。


そう思うと、全身にぶわっと寒気が走る。


思ってから、いつも苦虫を噛み潰したような思いがして、後悔するのだ。


キモい、キモい、僕はキモい。


顔を歪めれば、そんな自責の念も、少しはマシになるだろうか。


眉根をぐっと寄せてから、脈打つ心臓を右手で押さえつけながら、ドアの方へと近づいていく。


近づけば近づいただけ、さらに心臓は言うことをきかなくなる。


途端に、息苦しさに襲われて、それは伸ばした右腕にも伝わって、心臓と同じように、この身体のどこもかしこもが、僕の言うことをきかなくなるのだ。


震える手でカギを開け、取っ手を押す。


すると、そこにはいつも、美しい人が。


「こんにちは、お忙しいところをすみません」


環さんはいつもそうやって、丁寧に挨拶をしてくれる。


僕はもうそれだけで。


身体が着火したように、激しく燃え上がりそうだった。


首が、頬が、こめかみが、額が。


熱に浮かされて、頭までも焦がしつくす。


環さんは、その頬のラインで揃えて内巻きにしてある黒髪を、弓なりの眉の上で切り揃えた前髪を、身体の動きと同じように揺らしながら、持っていたレジ袋を僕の前にかかげた。


「煮物をふたつ、作ったので。これ、良かったら」


二段に重ねられたタッパーの形を形成しているビニール素材が、かさりかさりと音をさせる。


僕は、何も言えずに、手を伸ばして受け取った。


そうだ、僕は何も喋ってはいない。


口が貝のように引っついてしまって、声も出せない。


環さんの前だと、僕は本当に混乱してしまって、何を言っていいのか、まるで分からなくなってしまう。


「……それじゃあ、また来ます」


環さんが、言った。


けれど、あ、と何かに思い至ったような素振りを見せると、


「明後日の、水曜日とか、大丈夫ですか?」


その遠慮するような言い方で、僕の頭は爆発してしまった。


「ええっと、た、た、タッパーを返さない、と、いけないし」


……だから。い、いつでも、来てください。


いつでも、なんて、本当に僕はバカだ。


いつでも、だなんて。


環さんが、そうそう、こんなところに来るわけがない。


呆れて、自分自身を笑うしかない。


そんな自分に辟易する。


彼女はにこっと笑うと、


「じゃあ、水曜日に。それ、お口に合うといいんですけど」


そう言って、軽く頭を下げると、僕から、いや、僕のアパートから、離れていった。


初夏という季節に合う、清々しい水色のチュニック。


白いリボンが両手を広げ、彼女の細い腰を抱きしめるように、後ろで結ってある。


本当に、本当に、彼女は僕の恋人なのだろうか。


夢でも見ているのではないだろうか。


僕は一度も、彼女に触れたことがないというのに。

彼女の前で、環さん、と名前を呼んだこともないのに。


恋人。


いや、多分違う。


恋人なんかじゃない。


きっと僕の、思い違い。


勘違いだ、勘違いにも程がある。


自分自身による頑なな否定は、僕をいたく傷つける。


「良かったら、上がってください。お茶でも、一緒にどうですか」


貝のように閉ざした口の中で、そんな言葉をも呑み込むと、彼女が曲がっていって、もうその姿も見えなくなった曲がり角を、いつまでもぼんやりと見ていた。


心臓は、いつの間にか、平穏を取り戻していた。


✳︎✳︎✳︎


環さんとの出逢い、それは春らしい、やわらかい日だった。


「ありがとうございましたあ」


久しぶりに依頼が来たエッセイで書くネタを探しに何となく散歩に出て、僕が生まれ育った町、この末吉町すえよしちょうの大通りをぶらぶらと歩いていると。


ガーっという音とともに自動ドアから出てきた客らしき男とぶつかりそうになった。


「すみません、」


僕が謝ると、男はむっすりとしながらも、無言ではあるが頭を下げて、足早に去っていく。


僕は、その止めた足で、男が出てきた店の看板を見上げた。


『カフェ たま』とある。


『たま』の部分が、草書体で書かれている。


和風なのか洋風なのか、一見しては分からない。


店の中を覗くと、まばらに客がいて、ちょうど喉が渇いて一休みしようと思っていた僕を、ほどよく誘った。


店内に入るとすぐに窓際の席に目が留まる。


その席へ向かおうとした瞬間、僕は足を止めた。


「いらっしゃいませ」


隣のテーブルをふきんで拭き終わった女性が、こちらを振り返って言う。


美人、だ。


人が恋に落ちる瞬間を表現しようとすると、それはバトミントンに似ていると思う。


いつ落ちてくるかも分からないような、ふわふわと舞うシャトルを、ラケットで叩き上げる瞬間。


パンっ。


何かが弾けるような。


それは突然やってきて、身体中を突き抜けていく。


そして、心臓をも、貫くのだ。


「どうぞ」


笑顔。


手で促す仕草。


高くも低くもない、声も。


全て。


そう、これは恋だ。


自覚するのに時間はかからず、僕は直感という確かなものを感じて、そう思った。


そして僕は週に二度、この店で本を読みながら、コーヒーを飲むようになった。


彼女は、いつでも誰にでも、笑い掛けている。


料理を運ぶ時、客と話す時、レジの前に立つ時、いつも楽しそうな笑顔を振りまいている。


そんな他の客とのやり取りを目の端で見ていると、途端に僕は。


今読んでいるはずの文庫の内容が頭に入ってこなくなる。


いつしか僕は、彼女に背を向けて座るようになった。


✳︎✳︎✳︎


「環ちゃん、アイスとシフォンケーキね」


「なあなあ、環さんってさあ。彼氏いるの?」


「え、環さんって、マスターの奥さんじゃないんだ」


一喜一憂、僕の耳はいつも聞き耳を立てていて、誰彼構わずに答える、その心地よい声を拾っている。


そんな時はいつも僕の目は、開けただけの文庫を、ただぼんやりと見つめているだけのものに成り果てていた。


彼女は、モテる。


美人だし、気立ても良いし、気がきくし、優しいし、明るいし。


それに対して、僕などは。


僕は、はぁと溜め息をつくと、文庫を閉じて立ち上がる。


レジでマスターにお金を払い、カランとベルを鳴らして、店を出る。


「ありがとうございましたあ」


背中にかかる、彼女の明るい声。


それを聞くたびに、涙が出そうになって、それにさあ、お前ってばもう、アラフォーだろう、おこがましいんだよ、と自分に言い聞かせる。


とぼとぼと歩きながら、いや、僕はまだ三十五だ、とも思ってみる。


そう自分でフォローしながらだけれど、僕はそのカフェに通い続ける。


✳︎✳︎✳︎


それがなぜ、こうなっているのかという、最大なる疑問。


僕はまた、アパートの玄関で突っ立って、こうしてレジ袋を貰い受けている。


水曜日。


「初めて、マドレーヌを作ったんです。あんまり、美味しくないかも」


「……いえ、そんなことは」


「甘いものは大丈夫でしたよね。お店でも、時々シフォン、召し上がってますもんね」


「はあ、」


僕の返事が気に障ったのか、彼女が目を伏せた。


「……お口に合わなかったら、処分してください」


慌てて、そんなことは絶対にしません、そう言いたいのに、このあちこちに跳ね上がっている心臓が、それを邪魔して、許さない。


口を開こうとすると、何かを吐き戻しそうな気持ちになって、僕はぐっと口を引き結んだ。


「それじゃあ、また」


その時。


伏せられた目が細く開けられて、僕の目を一瞬、見た。


どかんと頭を叩かれたようになった僕は、すぐに目をそらす。


そして、ふらふらと彷徨った挙句、下駄箱の上に置いてある家のカギへと、落ち着かせる。


じゃりと音をさせて、彼女が踵を返す。


僕は、いつものように彼女の後ろ姿を見ようと、玄関から一歩、踏み出してみる。


ぬるい風が吹いて、彼女の髪を少し、乱していく。


不器用な手つきで、僕が綺麗に綺麗に洗ったタッパーが入っているレジ袋をぶら下げて、彼女は帰っていった。


✳︎✳︎✳︎


「本を、」


いつものように『カフェ たま』を出ると、両手をジャケットのポケットに突っ込んで、僕はチカチカと光る赤信号の手前で立ち止まっていた。


「本を、お忘れですよ」


聞き覚えのある声に僕が振り返ると、彼女がはあはあと息を切らせながら、僕の前に回り込んできた。


差し出された本を見ると、ようやくそれが自分のものだと認識する。


「これ、違いますか」


僕が何も言わないので、微笑みをたたえていた顔は、すぐにも怪訝な顔に変化する。


それで、僕は焦って、本を取った。


「すみません、ぼ、僕のです」


人間というものは、想像し得ない事象に遭遇すると、思考も動作も固まってしまって、無となるのだな。


たぶん、そんなようなことを考えていただろう。


「良かった、間に合って。読みかけだと、続きが気になりますもんね」


「…………」


「これ、この本。私も読みました。面白いですよね、推理小説って」


「あ、はい」


返事をちゃんと返せているのかが、もう分からない。


「あ、あの。突然ですけど、変なことをお訊きしてもいいですか?」


言いにくそうにして、視線を泳がせている。


それはもう、縁日で行われる金魚すくいの金魚の動きだ。


そんな動きも可愛らしいと、思った記憶なら、ある。


「えっと、その……付き合っている人とかって、いらっしゃいますか?」


最初は、何のことだか理解不能だった。


そんな僕の様子を見て、彼女は再度、問うた。


「恋人とか、」


人生でほとんど、恋人なんて存在がいた試しがなかった僕。


この質問に、実直に答えるとするならば、返事はNOだ。


無と成り果てていた僕は、見上げてくる黒い瞳に恐れおののきながらも、首を横に振った。


何回、振ったかは定かではない。


後からではあるけれど、首に痛みが残るくらい、大げさに振ったようだった。


「良かった」


小さな小さな、まるで妖精が発するような声が聞こえて、彼女が笑った気がした。


✳︎✳︎✳︎


声を掛けられて、初めての日曜日。


「ど、どうぞ」


僕が、油断をするとすぐに震えそうになる声を、なるべく平静を装って発すると、彼女はお邪魔します、と言って、オフホワイトのハイヒールを脱いだ。


『たま』では、いつも動きやすいようにスニーカーを履いて、ジーンズやTシャツの上からエプロンをしているので、いつもはカジュアルな服装だ。


けれど今日は、白いワンピースに小花が散らしてある、可愛らしい装い。


美人は、何でも似合うんだな。


すごく、すごく、可愛い。


けれどそうは思っても、口には絶対に出せない。


それにもう、自分のアパートの部屋に、環さんが存在するというだけで、震えで痙攣けいれんなぞして、今にもぶっ倒れそうな気持ちになっていた。


勧めたイスに、すっと音もなく腰掛け、持っていた小ぶりのカバンを足元に置くと、きょろきょろと見回す。


「本がたくさんあるんじゃないかと思っていましたが」


僕が慌てて彼女に背を向けて、水道の蛇口をひねってケトルに水を入れ、スイッチをONにするところで、彼女は言った。


「書斎、みたいなお部屋を想像していました」


「え、あ、はい。隣の部屋に」


門倉かどくらさんは、作家さんなんですよね。お仕事も、そちらのお部屋でされているんですか?」


「……はい」


何という奇跡が起きているのだろう。


こんなオンボロアパートに、環さんがいるだけでなく、それが仕事とはいえ、いつもは環さんに淹れてもらっているコーヒーを、今日は僕が環さんに作っている、なんて。


「すごいですね。どんな本を書いているんですか?」


「エッセイとか、小説は、時代もの、です」


コーヒーの香ばしい香りが広がっていく。


「今度、読ませてもらっても?」


「す、すみません。それは、恥ずかしいので」


僕が、何ともし難い手際の悪さでコーヒーカップを運ぼうとすると、手伝いましょうかと、腰を浮かす。


舞い上がってしまって身体が言うことをきいてくれないのを情けなく思いながら、僕はだいじょうぶです、とだけ言って、何とかテーブルまで運んだ。


そして、彼女の向かいに座る。


何度も言うようだけれど、この奇跡は一体、何だ。


この人は、こんなボロいアパートで、文章を書く以外何の取り柄もないダサい中年の男の前に座って、コーヒーなど一緒に飲んではいけない存在なのに。


僕は、カップを口につけながら、彼女を盗み見た。


細っそりとした白い手が、その細く長い指が、カップの取っ手に絡まっていて、僕の心臓を跳ね上げる。


パンっ。


バトミントンの、白い羽根を打ち上げる、破裂音が胸に響き渡る。


「お店ではいつも、何を読んでるのかなって、気になっていたんですよ」


「はぇ」


変な声が出て、途端に羞恥心しゅうちしんが湧き上がる。


「本です。私もよく、本を読むので。図書館に行って借りてくるんですけど。だって、本って、高いじゃないですか。なかなか、お店で買うことができなくて。今度、お薦めの本があったら、教えてください」


にこっと笑って、僕を見る。


けれど、何かに気づいたようにして、ふと壁際に視線をずらした。


壁に掛けられた、カレンダー。


何の変哲もない、そのカレンダーには、ゴミの日やら仕事の締め切りやらを書き込んである。


眼を大きく見開いたまま、固まってしまったかのような、彼女の横顔。


少しだが、こわばっているようにも見えた。


「あ、あの、」


僕がたまらず声を掛けると、彼女は視線を戻し、はい、と返事をした。


その表情は、複雑な要素を含んでいるようにも見えた。


「どうして、僕なんかと、その……」


疑問を口にする。


「前から、いつ、お声を掛けようかって思っていました。だから、門倉さんが本を忘れていった時、チャンスだって思って」


そして、それから少しだけ自己紹介のような内容を話して、彼女はコーヒーを全て飲み干すと、それじゃあ、お邪魔しました、と言って、帰っていった。


そう、彼女はそうやって一度だけ、僕の部屋へと上がったことがあった。


けれど、それはその奇跡の一日だけで、その後は煮物やスイーツを作っては、こうして持ってきてくれているに留まっている。


それらを僕に渡すと、すぐにも帰ってしまう。


あれから二度と、僕の部屋へは上がってはこなかった。


✳︎✳︎✳︎


金曜日。


「よ、よかったら、」


勇気を出して声を掛ける。


けれど。


「いえ、今日は遠慮します。また、次の機会に」


そう言って、すぐに帰ってしまう。


やっぱり。


僕はぼんやりと玄関に突っ立ったまま、その理由を考える。


きっと、何か嫌な思いをさせてしまったに違いない。


話が弾まなくて、楽しくなかった。


部屋がオンボロ過ぎて、嫌だった。


コーヒーが不味かった。


僕が。


想像していた僕と、現実の僕とが、かけ離れていて、


……僕が、つまらない男だと、知った。


理由はどれだけでも思いついて、炭酸の泡のようにどれだけでも湧き上がってきては、消えていく。


もう、来ないかも知れない。


僕はその場で立ち尽くす。


数え切れないほどの、白いシャトルを抱きかかえて。


ゆるく曲げている両腕の間から、ほろり、ほろりと白い羽根が落ちていく。


哀しい顔で、彼女の後ろ姿を見送ると、僕はオンボロな部屋へと戻った。


もう、来てはくれないかも知れない。


僕は、彼女が見つめていたカレンダーの前で、はあっと溜め息を吐いた。


✳︎✳︎✳︎


日曜日。


「じゃあ、少しだけ。お邪魔しても大丈夫ですか?」


僕は驚いて、伏せていた顔を上げた。


僕の両手には、ここから近い、美味しいと評判の行列のできるケーキショップの箱。


「すみません、わざわざ買ってきてくださったんですね。何だか気を使わせちゃったみたいで」


「い、いえ、いつも貰ってばかりは……」


「ずいぶんと並んでくださったんじゃないですか?」


「そ、そんなことは、ありません」


慌てて、後ろへとさがる。


それに合わせて、環さんが玄関へと入ってくる。


同時に、空気が澄んでいくようで、僕はそんな綺麗な空気にまみれたいと思った。


ケーキ箱を、テーブルの上に置く。


すると、彼女はすぐに僕の隣にやってきて、


「中、見てもいいですか?」


そっと差し出された長い指が、パズルのように組み合わさっている箱を解いていく。


「うわあ、美味しそう」


笑顔が見れて、僕は心底、幸せな気持ちになった。


ケーキで釣るような真似、環さんはどう思っただろう。


けれど、それしか思いつかなかったのだから、僕は本当に恋愛には不向きなのだろう。


僕がそんなようなことをうだうだと考えながら、コーヒーを淹れていると環さんが遠慮がちにカレンダーの方へと眼を向けた。


そういえば、初めて環さんがうちに上がってくれた奇跡の日も、カレンダーを気にしていたような、気がする。


何の変哲もないこのカレンダーの、何がそんなに気になるのだろうか。


カップにコーヒーを注ぐ。


僕が、ケーキを取り出して皿へと乗せると、環さんはやっとこちらを向いて笑ってくれた。


「お仕事の進み具合はどうですか?」


これが社交辞令なのかどうかの判別ができず、僕はフォークの上に乗せていたショートケーキのイチゴを落っことしそうになった。


何とか声を絞り出して、僕は一通りは終わっていますと言って、結局は皿の上に転がってしまったイチゴにフォークを刺す。


「良かった。〆切が来週、っていうか今週の月曜日、となっているので、今は一番お忙しい時期なのかなって、思っていました」


「し、〆切の前に、終わらせたので、」


慌てて僕が言うと、ほっと胸をなでおろすようにして、環さんは息をついた。


「そうですか。お仕事の邪魔をしないようにと、気をつけていたのですけど。カレンダーを勝手に見てしまって、すみません」


俯いて、伏せられた睫毛。


パンっと、跳ね上がる白い羽根。


「も、もしかして、それで……」


「はい?」


いつも玄関先だけで帰ってしまったのは、そのせいだったのだろうか。


そうなのだろうか。


僕の中で、疑問とともに、跳ね上がったシャトルはまだ落ちてはこない。


「門倉さん。今度、お仕事がひと段落したら、一緒にお出かけしませんか?」


環さんが言う。


僕の耳がその声を聞いて、脳へと信号を送る。


どんどんと打ち上げられるシャトルが、バラバラと自分の頭の上へと落ちてくる。


それを呆然と、まるで雨に打たれるようにしながら、僕はそこに立ち尽くす。


つと手を伸ばすと、青い空から降ってきた白い羽根が、ひとつ、手のひらに乗っかった。


それを僕は大切に、大切に両手で包み込むのだ。


僕は、目の前にあるショートケーキのクリームとスポンジとをすくって口へぐわっと入れると、もぐもぐと口を動かしながら、俯いて眼をつぶった。


環さんが、僕のバカな様子を見ながら、返事を待っている。


ふわふわのはずのスポンジを何とかごくっと飲み込むと、僕は環さんを見ることもなく、小さく言った。


「……はい」


環さんは、「お顔が、真っ赤ですよ」と言って、笑った、気がした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] こんなにも内気な人の書く小説は、どんな内容なのだろう。 彼の不器用さをもどかしく思いながら読み終わった後で、考えてみると、案外、良い小説を書くかもしれない、と思えました。 万人向けではなく…
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