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八月のさいごの日に

作者: 音宮 音音



雲はのんびりと流れる。

まるで動いてないかの様にみえるけど、じーっと見てるとどうやらゆっくりと動いているようだ。


例えば積乱雲をでっかい綿飴と思ったりする。

そうすると、あのさらさら流れる様な雲は、きっと素麺だ。


「腹減った。」


人間、空腹には耐えられない。

食欲というものは、睡眠に対する欲求より、異性に対する欲求より抑えられない、一番原始的な欲求な気がする。


「そーめん…。」

こんなジリジリ焼けるような暑さでも、僕は食欲を失ったりしない。

素麺のその食感とか、めんつゆの味とか思い浮かべて、どうにも食べたくて仕方がなくなる。


「裕子さんに作って貰おう。」


裕子さんは人妻だ。料理が上手い。

苗字は知らない。


料理が上手い。



「さすが裕子さん。今まで食べた素麺の中でダントツで一番だ。」


「素麺なんて茹でるだけだし、誰が作っても変わらないと思うけど…。」


「いんや、茹で具合とか、茹でた後スピーディーに水に通さなきゃくっついて駄目になっちゃうし…だからこそ裕子さんに頼むのさ」


「あら、そう?じゃあ褒め言葉、素直に受け取っとくわ。ありがと。」


裕子さんはニコッと笑顔を見せた。


一月2万3千の安アパート。その中で茹であがるご家庭の味で最高峰の素麺。

情緒がないけど。

まぁ、食えればいいし。

セミはミンミン煩いし。


「ところで、先生は今日どこまで行ってたの?」


「自動車教習所の辺り。」


「結構遠くまで行ってたのね。」


…裕子さんは僕の事を『先生』と呼ぶ。


「あの辺りが凄くいい風景だったんだ。描きたくなるような。」


「さすが画家先生ね。インスピレーション感じたんだ。」


画家。そういう職業。

と言うか、『画家』と書いて『ニート』と読む職業だ。

これはけして、画家の先生はみんなニートと言いたいのではなくて、僕自身が画家と言われる程、絵で稼げていないというだけで。

そりゃあ僕だって、ゴッホだの偉人さん方をニート呼ばわりはしないさ。


「インスピレーションなんて大層なもんじゃないけど、凄く雲が綺麗だったんだ。見た事ない位形のいい積乱雲。」


「へぇ…。描いたら見せてね。」


「うん。」


僕が外で何が綺麗だったとかそんな話をする度、裕子さんは優しそうに微笑む。


そうしてしばらく一緒に素麺食べていたが、まだなくならない内に裕子さんは手を合わせる。


「もう満腹?」


「ええ。」


「じゃ、僕全部食べちゃうよ。」


「うん。…こんなに美味しそうに食べてくれて、嬉しいわ。」


裕子さんが微笑む。

僕は食べ終わるまで、ずっと裕子さんに見られていた。


裕子さんは洗い物を済まし。緩く結わえていた長い黒髪を下ろし、ポニーテールに縛り直した。

それから、買い物に行くらしくて、僕は一人になった。


「あ〜。」


やる事もないので、扇風機に向かい声を出す。

小さな子供の頃からやっているので、今さら楽しくもないが。


「う〜。……ワレワレハ、ウチュウジンダ。」


…べっ、別に…楽しくなんてないんだからっ!


「ワレワレハ、チキュウジンダ。」


宇宙に向かって訴えてみた。


ん。あれ?

…そもそも宇宙人ってなんだ?地球も宇宙のなかにあるんだから、地球人も宇宙人だと思うんだが。

日本人のいう外人みたいなものか?


ここにいるものたちと、ことなるもの。


「宇宙人…つまり異端という事、」


じゃあ。


「僕は宇宙人だ。」


だからなんだ。


「…暇だ。」


暇なら画家だ、絵を描けとでも誰かに言われそうなものだが…。

描きたいって時に描くのが画家だと思う。

描きたくない時も描かなくちゃいけないのは、漫画家やイラストレーターだ。


だから僕はただひたすらに寝転がり、色んな事を考えて裕子さんの帰りを待った。




セミ達はちょっと静かになっていた。

窓から外を見ると、空は赤く染まり、雲の流れは少し速くなっていた。


「…おはよう、裕子さん。」


「おはよう、先生。」


頭の下には、とても滑らかで柔らかい感触があった。


裕子さんは優しく僕の頭を撫でて、その手が心地よくて、僕は目を細めた。


「ねこみたい。」


にゃあ、とでも鳴いたらいいのだろうか。

何度か撫でられると、本当に喉がなった。


「ふふ。」


興が乗ったのだろう。

髪をとかす様にサラサラと柔らかく触れてくる。


心地いい…けど、少しだけ恥ずかしくなってきた。


「裕子さん。」


裕子さんは撫でる手を止めない。

少しうるんで熱っぽい目で髪のひとふさ、ふたふさを眺めている。


「ひろこ…さん。」


髪を滑る手をつかまえる。

…手は、滑らかだけどほんの少し荒れていた。


「お腹空いた。」


「…そうね、そろそろ夕食にしましょうか。」


裕子さんは優しい笑顔をして、僕の体をそっと起こした。

離す手が少しだけ…名残惜しそうだった。



トントントントン…。


包丁で野菜を切っていく音は好きだ。あと、鍋のグツグツする音とか、ジュージュー炒める音とか。


…とにかく僕は、食べる事が好きみたいだ。

メタボになってない奇跡。というか体質?


むしろ痩せ型なんだけど…。


って中学位で気付いて女子に言ったら、殺意に近い目で見られた。

いや、あの唇は確かに「コロス」の形に動いていた…と思う。


「そんなじゃモテねーぞ。」


って親友が言ってたけど。確かにそいつモテてたけど。

そいつは元の造りが違うし。モデルになったらしいし。


まぁ。別にどうでもいいけど。


今の僕は、十数分後には出来るであろう晩飯をワクワクしながら待つ事しかできないのだ!


あぁもう。


ゴロゴロ。


待ち遠しいなぁ。


ゴロゴロゴロゴロ。


まだかなぁ。


ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ…。


がばっ!


「手伝おうか?」


「あら珍しい。よっぽどお腹空いたのね、先生。」


フフッと笑う裕子さん。

そんなにいつも裕子さん一人に家事…させてたな。


「じゃあ、お芋つぶして貰おうかしら。」


「うん、任せて。」


とは言ったものの。

僕は自分の不器用さを失念していた。

上手く潰せない。


「先生、貸して。」


見かねた裕子さんは、僕からボールを受け取りササッと潰してしまう。

…全然駄目だなぁ、僕は。

まぁ、人間には得手不得手があるし。


「ごめんね、裕子さん。」


「いいのよ。私、料理するの好きだし、先生が美味しそうに食べてくれるのも嬉しいし。ね。」


何だかちょっと、子供扱いされているような気もしたが、裕子さんの優しさに甘える事にした。


今度は大人しく座って待つ。


クイズ番組を見てじっと座っていると、程なく料理が出てくる。

主菜は焼魚。鮭だ。ポテトサラダにキンピラゴボウも出てきた。

空腹で耐えられなくなっていた僕は、裕子さんが座ったらすぐに手を合わせた。


「んまいっ。」


どうしてだろう、今日はすごく空腹だった。

裕子さんの絶品料理は、より美味しさを増しているような気がした。


「先生、ほっぺにご飯つぶが。」


裕子さんは腕を伸ばし、僕の頬についたご飯つぶをとって、パクッと食べる。


「ん、ありがと。」


僕は食事を再開する。


「あ、向かいの奥さんにスイカ貰ったから、あとで食べましょ。」


「うん。食べよう」


「…スーパーの右の道、通行止めになっていたわ。これから遠回りしなきゃならないわね。」


「うん。面倒だよね。それにこんな時期に工事なんてね。」


少し間があいたあと。

裕子さんはおずおずと口を開いた。


「…先生。」


「ん、何?」


「あの…ね。」


そこで言葉を区切り、黙りこむ。

僕は、黙って待つ事にした。


「……。」


「……。」


「……旦那に帰ってこいって言われたの。」


裕子さんは目を伏せ、堪えるように口を開いた。


「そう。」


僕は一言だけ答えた。

裕子さんは、一瞬すがるような目で何か言おうとしたが、すぐ口を閉じた。


それから部屋は、僕が一人でいる時より静かになった。


食事が終わって、裕子さんが片付けしている時。


「風呂屋行ってくる。」


僕は銭湯に行く事を裕子さんに伝えて、外に出ようとした。


「待って、私も――」


裕子さんが小走りに寄ってきたが、僕の顔を見て、止まる。


「…いや、なんでもないわ…行ってらっしゃい。」


「うん、行ってきます。」



頭と体を洗い、湯船に浸かり、十数えてあがる。

僕は元来カラスの行水だ。

こんな熱いお湯に長時間浸かってたくない。


僕が帰ってくると、入れ替わりに裕子さんが銭湯に行った。


僕はちゃぶ台をよけ、布団を敷いた。

ゴロンと横になる。


眠い。昼間あんだけ寝たっていうのに、眠気は幾らでも湧き出てくる。

というか目を瞑りたい。蛍光灯の電気が目に痛い。


電気を消す。


静かな部屋。あったかくてつめたくて、すべての違和感を包み込んでくれた、この部屋。


「ありがとう、さようなら。」


目を瞑る。




…ガチャッという音がして人の気配。


「…先生、もう寝てる…?」


畳の上を静かに歩く音。


「……。」


「寝てる…か。」


僕の頭の横あたりに座る気配がして、首筋に水滴が落ちてきた。


「…せんせ…。」


少し掠れた感じの色っぽい声。石鹸とシャンプーの香り。

薄く濡れた髪の房も落ちてくる。


「……。」


「…起きてるよ。」


目を開けた時、裕子さんの顔が目の前にあった。


「裕子さん。」


裕子さんは、少し驚いて顔をよけた。


「先生、起きてたんだ。」


「うん。」


外の月を見ながら答えた。


「…ねぇ先生。」


「ん?」


「先生のストーカーだったって言ったら、どうする?」


「知ってる。」


裕子さんは一瞬目を見開いたけど、すぐに困った様に微笑んだ。


「そっか…。」


あれは小学生の頃か。

僕の登下校を後ろから眺めてる、高校生ぐらいのお姉さんがいた。

校舎の外から授業を眺めてるお姉さんがいた。

家の外から眺めてるお姉さんがいた。

遊びに行くと、物陰に隠れながらついてくるお姉さんがいた。


「今でも、私は……。」


裕子さんはそこで言葉を止めた。


「……。」


「……。」


「知ってる。」


「…っ!」


裕子さんは何か変な顔をした。

嬉しいのか哀しいのか、苦しいのか。

僕は裕子さんの頬に手をあてる。


「知ってる。君が僕を追いかけていた事。君は僕が欲しかった事。…今でも欲しい事。」


全部知ってて、君と暮らした。

夫とケンカして居場所を無くした君。お金が足りなくて、家賃が払いきれない僕。


「じゃあ、ルームシェアしてくれない?」


君はきっと、僕が気付いてないと思ったんだろうけど。

僕は君の事を覚えてた。ずっと。


「裕子さん、帰らないと駄目だ。」


「でも先生、家賃払えな」


「帰らないと駄目だ。」


裕子さんの言葉を遮る。


「…旦那さんの事、愛してるんだろ?」


僕に対する感情は一瞬の熱情だ。たとえ、十年越しの想いでも。野良猫にちょっかいだしてる様なものだ。

永遠の愛に勝てるものか。


「…あ、うぅ、あぁぁぁっ!!」


裕子さんは叫びとも嗚咽ともつかない声をあげ、涙を流した。

それから一時間位はずっと泣いていた。


「…先生。」


のどの痛そうな声。


「何?」


「最後にお願いがあるの。」




裕子さんは窓にもたれかかる様に座る。…裸で。


「先生…。」


裕子さんの唇が小さく動く。


「…じゃあ、始めようか。」




朝。チチチチと鳥が鳴き、僕は目を覚ます。

とはいえ、日が昇りそうな位まで起きていたのだが。


寝る前に裕子さんには布団をかけておいた。


そして。


目の前には、キャンバス。そこに描かれた裸の女性。


「…ううん。」


裕子さんが起き上がる。


「おはよう、裕子さん。」


「…おはよう、先生。」


いつもの様に朝の挨拶を交わす。いつもは裕子さんが先に起きてるけど。


「私、途中で寝ちゃったみたい。」


「寝てても動かないで居てくれたから、よかったよ。」


裕子さんを手招きする。


「完成したのね…綺麗。」


長い黒髪の女性はその艶やかな髪を全部下ろし、白い肌にまとわりつかせていた。

窓に体をもたれかからせて。

その窓の先にあるのは……綺麗な積乱雲。


「雲、描いてくれたんだ。」


「約束だからね。」


二人は笑い合う。

昨日の事もこれからの事も、全部なかった事の様に。


「ねぇ、先生。これからどうするの?」


「これから…か。」


僕は悩む様な仕草をしたけど、実はもう決めていた。


「旅に出よう…かな。」


「旅?」


「そう。絵を描いてプレゼントしながら、旅する。」


「ドラマみたい。」


裕子さんは笑う。今までみたいな控え目な微笑みじゃなくて、まるで女子学生の様に。


それから、僕らは部屋の片付けをした。ヘンテコなおままごとの道具の片付けだ。


「布団とか、どうしよう。」


「私、貰ってもいい?」


「いいけど。ボロいよ?」


「ちゃんと干して、カバー洗えば使えるわ。」


さすが主婦。


荷物は少なかったけど、全部まとめるころには日が暮れかかっていた。


「これで…終わり!」


「じゃあ、出ようか。」


二人で部屋を出る。

裕子さんは部屋を出た後、ドアに向き直り、

一礼した。


このボロアパートとの別れ。


「じゃあ、ここで。」


「うん。」


アパートの前で二人、向かい合う。


「さようなら。先生。」


「さようなら。裕子さん。」


別々の方向に歩き出す。…僕が裕子さんの家と別方向に歩いていくだけだけど。


僕らは振り返らない。


二百メートルくらい歩いて…僕は走り出した。


「う…あぁぁぁあっ!」


目と鼻から水が流れた。

叫びながら走り続ける。


僕を見て、買い物帰りのおばちゃんが振り返る。


だって、だって。




裕子さんは僕の名前を呼ばなかったじゃないか。




ああ。こんな事なら。



小学生の時、あのお姉さんに話しかけておけばよかった。


きっと現実は変わらなかったけど。


でもほら、僕は異性に対する欲求より食欲の方が強いからさ!


せめて、また逢えた事に。


「ありがとうっ!!」


青空をバックに笑う裸の君に叫んだ。











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