内に潜むもの
静かな森の中。木々のさざめきと小鳥のさえずりだけが辺りに響く。木々の間からは日光が差し込んでおり、幻想的な様子を醸し出していた。
そんな森の中で、俺は一人立ち尽くしていた。すでに食料も水もない。体もボロボロで服もところどころ破けている。こんな極限状態の中でもう何日が立っただろうか?
ただわかるのは、俺がすでに限界であるということと、かつて俺が住んでいた村はもうないということだ。そもそも俺がここに来たのは村が壊滅したからだ。
ある日、俺たちの住んでいる村に盗賊たちがやってきたのだ。彼らも元は軍人か何かだったのだろう。あっという間に村には火の手が放たれ、村は荒らされて結局皆散り散りになってしまった。
俺はただただ無我夢中で走ったが……気付けば、ここには俺しかいなくなっていた。両親と妹は、どこかではぐれてしまったらしい。だが、おそらくもう生きてはいないだろう。何となくだが、それは察することができた。死体を見れなかったのは幸いというべきか否か。
いや、どうせ俺もそちらに向かうのだからいいだろう。
俺はそっと息を吐き、目を閉じた。体の節々がいたむ。だが、木に背中を預けていると少しだけ楽になった。
――と、その時だった。俺の後方で何かが動く気配がしたのは。
「ッ!?」
俺はとっさに身を翻してそちらを見やった。するとそこにいたのは――一人の少女だった。
銀細工で作られているのではないかと思うほど綺麗な髪。肌の色は驚くほどに白い。だが、病的という感じではなくむしろ芸術的ですらあった。
だが、それよりも俺の目を引いたのは彼女の目だ。左目はオニキスを埋め込んだような漆黒をしているのに、右目は淡い水色をしている。それは異様で、だが同時にある種荘厳な感じを漂わせていた。
そんな彼女は俺の姿を見るなりハッと目を見開く。
「だ、大丈夫ですか!?」
彼女はすぐさま俺の近くに寄ってきて俺の体を確認する。それと同時、彼女の髪から少女特有の甘い香りが漂ってきた。
少女は心配そうな顔つきで俺の方を見やる。
「大丈夫ですか? 動けそうですか?」
俺は瞑目し、静かに首を振った。
「いや、無理そうだ。俺はもうすぐ死ぬだろう」
「心配しないでください。私が助けますから」
少女は真剣なまなざしでそう告げたが――俺は少しだけ眉をひそめた。
俺はすでに成人しており、体も出来上がっている。だが、まだ彼女は幼い。せいぜい十六くらいだろう。そんな子が大人を担いで近くの村に行けるかと言われれば、答えはノーだ。
このままこうしていても、何も変わらないだろう。どころか、彼女に目の前で人が死ぬというトラウマを植え付けてしまうことになる。
そう思い、彼女に去るように告げようとしたその時だった。
「ろぉ」
彼女の口からそんな声が漏れ、続いて――ピンク色のイソギンチャクのような触手がいくつも出てきたのは。
あまりに現実離れした光景に俺はただただ目を剥いた。声すら発することすらできず、見入っているだけ。触手は唖然とする俺に構わず身体に絡みついた。かと思うと、その細い触手のどこに隠されていたのかと言ってしまいたくなるほどの怪力で俺の体をやすやすと持ち上げた。
無論、その触手が出ている場所は少女の口であり、彼女はまだ大口を開けている状態だった。端から見れば異様としか言いようがない。だというのに、彼女は平然と足を進めていった。
それから数分もすると、前方に小さな小屋が見えてきた。木で作られた古い木造建築だ。おそらく彼女はあそこに住んでいるのだろう。それらしき名残が見てとれた。
やがてドアのところに着いたところで触手は俺の体を解放した。少女は触手をあらかた締まった後で俺の体を抱きとめ、中に入る。外観にそぐわず中もボロボロだったが、どこか懐かしい。かつて俺が住んでいた家とよく似ていた。
彼女は客間と思わしき場所まで俺を運ぶと、再び触手を出して俺の体をベッドに寝かせた。俺は荒い息をつきながら彼女に問いかける。
「き、君は?」
「私はリリア。ここに住んでいるものです」
「そうじゃない。さっきのは……」
と、そこで彼女は少しだけ表情を陰らせた。が、やがてゆっくりと語りだす。
「あれは、私の体に巣食っている触手です。生まれた時からずっと一緒でした」
「……君の両親は何も言わなかったのか?」
「ええ、何も。その両親も私が幼いころに死んでしまいましたが」
リリアはそれだけ言って再び視線を下に移した。あまり触れられたくない事情というものは誰にでもある。これは深く詮索しない方がいいだろう。俺は黙って深く頷いた。
「わかった、ありがとう。俺の名前はアルバっていうんだ」
「アルバさん、ですね。じゃあ、私からも質問いいですか?」
「ああ」
「何で、あんな場所にいたんですか?」
俺は一瞬だけ躊躇った。だが、先ほど俺は彼女の触れられたくない領分に土足で踏み込んだのだ。ならば、言わねばなるまい。
「俺の住んでいた村が盗賊に襲われた壊滅させられたんだ。それで、ずっとこの森の中を彷徨っていた」
「……そうだったんですね。すみません、嫌なことを聞いてしまって」
リリアは目を伏せたまま辛そうに口を開く。そもそもが心優しい子なのだろう。
俺はそっと口を開いた。
「気にしないでくれ。それより、ここで誰か見ていないか? 俺以外に」
「いえ、誰も……そもそもこの森にはあまり人が入らないので」
なるほど。それなら、家族たちの安否を確かめるすべはないということか。
いや、それより彼女のことがまだ気になる。あの触手のこともそうだが、彼女はまともじゃない。少なくとも普通の人間でないことは確かだ。
――が、すでに俺の体は限界だった。それからすぐに睡魔が押し寄せてきたのは言うまでもない。
――それからしばらくして。俺はだいぶ回復し、リリアともよく話すようになっていた。
曰く、彼女は生まれた時からここで両親と過ごしていたらしい。というのも、リリアは体があまり強い方ではないそうだ。それならば、人通りが多い街なんかよりも自然豊かこの森の方が体にもいいだろう。
さらに、彼女は長らく話し相手を欲していたらしく俺に色んなことを話してくれた。趣味の裁縫のこと、この森で出会った動物たちのこと、家族のことや、触手のこと。
俺はあの触手を不気味なものとして認識していたが、彼女が言うにはそうではないらしい。害はないし、むしろ彼女の手助けをしてくれるそうだ。事実、俺も彼女との共同生活の中で触手が家事などの手伝いをやっているのはよく見かける光景だった。
リリア曰く、触手もすでに家族の一員だそうだ。自我もあり、かつ生まれた時から一緒とあってはそうなるだろう。それに、家族を失った彼女にとってはかけがえのない存在だ。当然、俺はその意思を尊重することに決めた。
そんなある日のことだった。俺が夜寝ていると、不意にドアの方で何かを引きずるような不気味な音が聞こえてきたのだ。ずるずる、と。重苦しく、それで不快な音だ。それによって、俺は無理やり起こされてしまった。
「……何かあったのか?」
盗賊、ということはないだろう。ここは厳重に戸締りをしている。だとすれば、別の何かだ。
俺は近くにあった燭台を取り、そっとベッドから立ち上がった。そうして、ドアの方へと向かっていく。明らかに、外からは何かの気配がしていた。
俺はそっとドアノブに手をかけ、一気に引く。するとそこにいたのは……巨大なピンク色の物体。いや、正確に言うならば団子状になった触手の塊だった。
「うわ――むぐっ!?」
本能的な恐怖に寄り叫ぼうとした刹那、俺の口を触手が塞いだ。あまりの勢いにそのまま押し倒されてしまう。さらに、団子状になった触手は俺に馬乗りになってきた。四肢はすでにがんじがらめにされている。これじゃ、逃げられるはずもない。足掻けば足掻くほど絡みつかれていく感じだった。
このままでは待っているのは死――。
「落ち着け。話を聞け」
ふと、低い声が耳朶を打った。視線を彷徨わせてみるものの、そこに人の姿はない。だとすれば、この声を発したのは……触手?
俺がそっと視線を移すと、触手はそうだとでも言わんばかりに身を震わせ俺を解放した。
おそらく騒ぐのは危険だろう。俺は少しだけ奴から距離を取り、向きなおった。
触手は一度身を震わせたかと思うと次の瞬間には人の姿を取っていた。だが、それはリリアのものではない。俺のものだ。奴は俺に擬態した状態でこちらの眼前に座り込む。
「悪いな。手荒な真似をして」
「……俺を食うのか?」
「馬鹿言うな。それより、お前に頼みがあるんだよ」
「頼み?」
俺の問いに、触手はわずかに頷いた。触手で形作られた体なのでよくわからないが、苦悶の表情を浮かべているようにも見える。だとすれば、何か言いづらいことでもあるのだろう。俺はただ奴の言葉を待った。
息も詰まるような沈黙が流れた後で、奴は口を開く。
「話というのはリリアのことだ」
「リリア? あいつがどうかしたのか?」
「ああ、そうだ。俺しか知らないあいつの秘密を教えてやる」
一拍置いて、奴は続けた。
「リリアは病気だ。全身の自由が利かなくなる病気でな。石化病とも呼ばれている」
「でも、あの子は元気にしているだろ」
「そこで、俺が出てくるわけだ。俺の正体は、あいつの両親が呼びだした寄生生物だ。宿主の体を借りる代わりに身体機能を補助する。あいつの目、片目の色が違うだろ? あれは俺のせいだ。俺が寄生した時に変色した。まぁ、それはいい。要するに、俺がいなければリリアはほとんど何もできないのさ。身体機能はほぼ停止している。植物人間みたいなもんだ」
「……そんなにやばいのに出てきてよかったのか?」
「短時間ならできる。それに、あいつが寝ている時を見計らったからな。体には問題ない」
「その言い草だと、お前の正体は教えてないみたいだな」
「ああ、教えてねえよ。普段はあいつの体から出ねえからな」
にわかには信じられない話だが……こいつが嘘をつく理由も見当たらない。俺は静かに頷きを返した。
「それはわかった。だが、ここに来たのはどういうわけだ?」
「そう。お前に頼みたいのは奴の世話だ」
「は?」
触手はそのまま告げた。
「触手生物の寿命はそれなりに短い。俺はもう長くないのでな。お前に世話を頼みたいんだよ。つまりは、俺が死んだ後であの子の生活の補助をしてやってほしい」
「……」
「無理な願いだってのはわかってる。だが、頼む。リリアを助けてやってくれ。お前は行くところがないのだろう? なら、いいだろう? あいつのことを面倒見るくらい」
こいつの言っていることもわかる。それに、俺の行く場所がないのも確かだ。村はなくなっているし、一度街に出たリリア曰く、生き残りは俺以外に確認されていないそうだ。
リリアに借りがあるのも確かだ。が、俺はそっと首を振った。
「待て。お前はどうなる?」
「……俺はどこかに行くさ。あいつに死ぬのを見られたくないんでね」
「そうか。だが、俺はその望みを聞き取れない」
刹那、触手が俺の喉元に巻きつく。奴に目があったならば、今頃俺を射殺さんばかりに視線を送っているだろう。だが、その怒りはその全身からにじみ出ていた。
「ふざけるな。俺はあいつに生きてほしいんだ。俺が死んだら、あいつもおそらく死ぬ。だが、お前がいてくれれば、助けてくれればあの子は幸せでいられるんだよ!」
俺の脳裏をリリアの顔がよぎる。彼女はいつも楽しげに俺に話しかけてくれていた。俺も彼女に好意を持っている。だが、だとしてもだ。
「それは聞き入れられない……お前が、いなくなるならな」
「あ?」
少しだけ喉元へ加えられていた力が弱まった。その隙を見計らって俺は一気にたたみかける。
「言葉通りだよ。あの子はお前を家族だと思っているんだ。なのに、急にいなくなられたらどう思う? お前に残された奴の気持ちがわかるのか? 俺にはよくわかる。実際そうだからな」
奴は暫し黙り込んだ後で――再び団子状になった。その後で、ドアの方へと向かっていく。
「わかった。わかったよ。あいつと一緒にいればいいんだろう?」
「ああ、そうだ。それと、できるなら全て話せ。お前が知っていること全部だ。正体も、病気のことも、何もかもだ」
「だが、リリアはまだ幼い。これを受け入れられるかは……」
「おい。お前は一番あの子と一緒にいたんだろ? だったら、信じてやれよ。リリアはそんなにやわじゃないさ」
一拍置いて、奴は面白そうに体をプルプルと震わせた。かと思うと、すぐに人型に戻って俺の方にグッと親指を突き立ててくる。
「……それもそうだな。だが、言っておくぞ? 俺の目が黒いうちはあいつに変なことするなよ?」
俺は苦笑交じりに、言ってやる。
「いや、お前に目はないだろう?」
無論、殴られたのは言うまでもないだろう。