3℃ボックス 1
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「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
「くっ、なぜわかった?」
いつもそうだ。隠密行動中の俺はすぐに正体を見破られる。
そう、俺の名前は尾比鳥修三。
隠密の名家、尾比鳥家の三男にして
将来を有望とされるエリート隠密マンなわけだが
最近はどうも調子が悪い。変装してさりげなく敵地に
進入しようとしても、なぜかすでに相手に私の名前が知れ渡っている。
普段なら、このような失態を犯した際は、念を入れて一度
撤退するのが鉄則である。隠密が敵に捕縛されることは
すなわち幾度もの拷問の後の死を意味するからである。
しかし、今日の任務は非常に重要であることを俺は知っている。
相手の罠だと知りつつも、今日だけは撤退するわけにはいかないのだ。
俺はウェイトレスの娘に誘われるがままにテーブル席に着く。
さて、正体がばれてしまった以上、この女は始末しなければならない。
このような年端も行かぬかわいい娘を手にかけるのは気が引けるが
俺も隠密だ。情けは俺自身の死に直結することをよく知っている。
そんな俺の苦悩を知ってか知らずか、娘は平然とした顔で
「ご注文はいかがなさいますか?」
と尋ねてきた。そのささやかな笑顔の裏にある隠れた意図を
探りながら、俺はさりげなくハンバーグプレートを注文する。
娘の手の上の丸い盆には長方形の折り紙、水の入ったグラス、
そして銀色に光る様々な形状をした刃物が並んでいる。
油断はできない。娘のあどけない仕草に俺が心を許した隙に、
これらの刃物ですばやく首筋を掻っ切られるかも知れない。
俺は震えているのを悟られないように平静を装いながら、
じっと様子を見る。娘は丸い盆の上の道具一式を机の上に置き
「少々お待ちください」と厨房のほうへ消えていった。
俺はほっと胸をなでおろす。しかし、そこにこそ死線はある。
俺は娘が置いた道具一式を丹念に調べる。毒は匂いでわかるので
敵もおそらくそんな低俗な手は使ってこないだろう。
俺はグラスの水を飲みながら周りを見渡す。室内には何台かの
カメラが設置されている。俺の行動はおそらく筒抜けであろう。
俺はきょろきょろとあたりを見渡すのをやめ、自然と窓の
外に目を向ける。高層ビルや鉄塔のいくつかが目に付いたが、
狙撃の心配はないだろう。俺は隠密の中でも視力のいいほうだ。
やがて娘がハンバーグプレートを持ってくる。
「ごゆっくりおくつろぎっください」と言い残し
また厨房のほうへ消えていった。
いくら神経を研ぎ澄ませても、娘から殺意は感じられない。
どうもこの娘は本当に何も知らないようである。もしくは
誰かに脅されて俺のことを監視しているのかもしれない。
俺は注意を保ちつつハンバーグプレートを食する。
鉄板が殺人的な熱さだ。不用意に俺が鉄板を触り、
ひるんだところをいっせいに畳み掛けるつもりなのかもしれないが
そんな手は通用しない。俺はハンバーグプレートを
一気に食い、水で流し込んで腹の中に収めた。
会計を済ませると、俺は任務が終わったことを理解し安堵したが、
どうも釈然としない思いがある。俺は考えた。
なぜ俺の名前を知りながら奴らは何もせずに俺を無事に帰したのか?
ただの純朴な娘がなぜ奴らの所業に加担しているのか?
ハンバーグを頼んだのになぜポテトや人参がついてきたのか?
そう、まだこの任務は終わっていない。これらの謎を解き明かすために、
俺は明日もここでハンバーグプレートを注文するだろう。
一人で。