花びらエキス
桜の舞い散る季節。ある者は新しい出合いへの期待で高揚感に包まれ、またある者は学業という苦悶の日々に対する憂鬱に染まる。人によって様々な捉え方があるものの、春という季節に共通しているのは、何かが始まるのだという漠然とした気負いである。草花は息を合わせたかのように一斉に芽吹き、冬眠から目覚めた動物が意気揚々と野原を駆け回り食事にありつく。人間もまた例外ではなく、道行く人々の表情はどこか和やかで晴々しい。
春は生まれ変わるチャンス。そう捉える人は少なくないだろう。
現在財布とにらめっこしながら悩み苦しんでいる少女、園城寺桜もそんな人間の一人だった。彼女がいるのは家の近所にある園芸店で、目的は目の前の棚に置かれた小さな小瓶だ。このために、わざわざ友人の親が経営しているパン屋でバイトをさせてもらって、お金を貯めたのだ。その額、一万円。
読書好きの彼女にとって、この金額は容易に手放せないものだった。文庫本にすれば十五、六冊は買えるであろうその紙切れを一度に使ってしまうのは、歯がゆい思いがあるのだ。
「……あら、桜ちゃんまた来てるの?」
葛藤を続ける桜に、背後から話しかけてくる人物がいた。振り替えると、どこぞのモデルかと思うくらい整った容姿をした若い女性が、優しげな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
彼女は園芸店の店主で、名前を補伽玲奈という。髪型は黒のセミロングで、店の制服とおぼしきエプロン姿をしている。といっても、桜は彼女以外の店員を見たことがないので、ひょっとしたら私服かもしれない。とにかく桜が知っているのは、補伽がこの店の店主であることと、異常なまでのお節介であるということだけだ。
「買うなら早く買っちゃいなさいな。自分の気持ちには素直に、ね?」
可愛らしく小首を傾げる補伽だが、動作の一つ一つに胡散臭さが滲み出ている。一応桜が店に通い始めてから一年程は経つのだが、どうにも気を許せなかった。それはおそらく、桜が今購入しようかどうか迷っている品が、補伽の作り笑いと同じくらい不気味で信用のならない代物であることと無関係ではないだろう。
「あの……補伽さん。これ、本当に効果があるんですか?」
「もちろん! 効果は保証するよ。返品はできないけれど」
「……補伽さん、世の中にはクーリングオフ制度というものがあってですね」
「きゃあ、酷い! そうやって、知識を振りかざして大人を責め立てるのね! 人でなしっ!」
詐欺師よりはましだろうと思いつつ、桜は物憂げに溜息をついた。桜にとっては差し迫った問題を解決する唯一の希望なのだが、こうも怪しいとさすがに気が引けてくる。別に占いの類でも何でも、効果があればいいのだ。しかしこれでは、暗示にかかる気にすらなれない。
「あ、そういえば、まだ誰のために使うのか聞いてなかったね。新しくできたクラスメイト? それとも、噂の彼かな……?」
「……噂? 何の話です?」
「ふふ、とぼけちゃって。桔流和人君のことに決まってるでしょ!」
その名前を聞いた途端、桜の顔が真っ赤に染まった。完全なる不意打ち。というか、その事実を知るのはこの世に数人しかいないはずだ。
「な……なななんであなたがそれを!」
「あら、本当なんだ。実は桜ちゃんのおばあさんから、誰にも言わないって約束で聞き出したの。といっても、その桔流君ってのがどんな子なのかはよく知らないんだけど」
「あ、あのババア……!」
そもそも桜がこの園芸店に通うようになったのは、祖母に紹介されてのことだった。近所でもお節介ババアとして名を馳せているほどのお人好しである彼女なら、こういう展開になることを見越した上で紹介した可能性もある。
手のひらの上で転がされている。そう直感した桜は、ゆるゆると財布を鞄の中に戻した。
「……決めました」
「え、本当に? それで、どうするの?」
「買いません」
「買わないの! 嘘、今完全に買う雰囲気だったじゃん! 明らかに購入展開だったよね! 」
「うるさいなあ……。人の思い通りに動かされるのは嫌いなんですよ」
普段は奥手のくせに、妙なところでプライドが高い桜。その性格のせいで何度も損をしてきたわけだが、譲れないものは譲れない。
「わ、わかった! じゃあお試しで使ってみるってのはどう? 効果がなかったらお金はいらないからさ」
「……お試し?」
「そうそう、タダで使ってみて桜ちゃんが気に入ったらお金を払ってくれればいいよ。別に払わなくてもいいけど」
タダより高いものはないとよく言うが、それは場合によるものだ。例えば無料のサンプル品を頼んだとしても、追加注文しなければ本当に無料である。ようするに意識の問題なのだと、桜は考える。
「わかりました。タダならば一応貰っておきます」
悩んだのは一瞬だった。貰えるものは、貰っておいた方がいい。
「ふう、よかった。貰えなかったなんて言ったら、くみさんに殺されちゃうよ」
「……やっぱり、祖母の差し金ですか」
「あ、いっけね、バレちゃった」
まったく悪びれる様子もなく、舌を出して微笑む補伽。その日桜は、初めて同性に殺意を覚えた。
「さーて、じゃあ早速出しちゃおうかしらん。ちょっと待っててね」
桜の発する苛立ちオーラを完全に無視して、補伽は目の前のガラス張りの戸棚から小さな瓶を取り出し、桜の前に掲げて見せた。瓶の中には透明の液体が入っていて、側面に商品の名前が入ったラベルが貼ってある。
「はい、これがお客様がお求めの『恋の特効薬』でございまーす。摂取することで理想の自分になれる魔法の薬です。用法用量を守って正しくお使いください。短期間の効果をお望みの場合は、香水にして使用することをおすすめします」
「……香水?」
「そう! 鼻腔から摂取して使用するの。原液を飲んでも効果はあるけど、あんまり使いすぎると戻れなくなるからね。まあ、周りの人にも影響することもあるから気を付けなきゃいけないけど。詳しい使い方はラベルに書いてあるからしっかり読んでおいてね」
「はあ……なるほど。わかりました」
正直なところよくわからなかったが、使うときに考えればいいだろうと、桜は受け取った瓶を鞄に突っ込んでそそくさと店を後にした。
桜の家は、近所でもかなり有名な由緒正しき武家屋敷で、当然すべての部屋が畳みである。三千坪は下らない土地に祖父母、父母、使用人数人と暮らしている。一人っ子の桜には小さい頃から一人部屋が与えられていたが、広すぎてもて余しているというのが現状だった。その虚しさを紛らわすために、小さい頃から数少ない友人を頻繁に家に呼んで、広い庭で遊んだりしていた。その頃の友達とは、今でも親交がある。
そして今回桜が例のいかがわしい薬を購入することを考えたのも、元はといえばその『お庭遊び』が原因だった。当時遊び相手の一人だった三軒隣の家に住む少年、桔流和人に桜は恋をしてしまったのだ。
きっかけは覚えていない。おそらくちょっと優しくされたとかその程度だろう。しかし幼い少女にとっては、それで十分だった。
家に帰った桜は、さっそく自分の部屋にいって貰ってきた小瓶のラベルを確認した。そのままでは文字が小さくて見にくいので、ノートを取り出して使用方法を箇条書きにしてみる。
一、この薬は恋の特効薬である。摂取すれば自分のなりたい自分になれる。
二、効果を発揮させるには薬の中に任意の花びらを入れること。そうすれば花言葉に応じた効果が得られる。
三、花言葉は通説でも自分で考えたものでも何でも構わない。その花に相応しいと使用者自身が思ったものが採用される。
四、花びらを入れてから二十四時間で薬は原液に戻る。原液を摂取しても効果はない。
五、一瓶の摂取で数年間は効果が持続する。ただし時間には個人差がある。
「花言葉……か」
中々ユニークな発想だなと、桜は思った。胡散臭い割には、やけに具体的な記述がしてある。これならば暗示にかかりやすいかもしれないと、桜は少しほっとした。
問題は、どんな花を選ぶかだ。園芸好きの祖母の影響で多少の知識はあるものの、花言葉となるとお手上げである。しかも桜の家には、パソコンの類いが一台もなく、調べものをするにも父親の書斎くらいしか手段がない。
しかたなく、桜は本棚にあった花の図鑑を適当に選んで引っ張りだし、廊下を進んで居間にいる母に出かける旨を伝えてから外へ出た。家の前の坂を降り、交差点を左に曲がって少し歩くと、目的の家が見えてきた。
桜の家の周囲は住宅が密集していて、そのため彼女の友人たちはほとんどが近所に住んでいる。今訪ねようとしているのも、その中の一人だ。
東雲という珍しい苗字の表札がある家にたどり着くと、桜はすかさずインターホンを押した。辺りに漂う香ばしい香りは、隣にあるパン屋から発せられたものだ。
『はーい、どちらさまですかー』
「あ、私。ちょっと調べものしたいんだけど、パソコン貸してくれない?」
『なんだ桜か。開いてるから勝手に入っていいぞ』
相変わらず不用心な家だと思いつつ、桜は扉を開けて中に入り、すぐ右手にある階段を上って二階へ行った。三つある部屋の内、廊下の一番奥にある部屋にノックもせずに押し入る。
「……茜、きたよ」
「おう。そっちのパソコン使ってくれ。ちょっと今手が離せないんだ」
言われたとおり、桜は部屋の隅にある机の前に座って、パソコンの電源を入れた。まるで自分の家であるかのように振る舞う桜だが、当の家人である東雲茜は気にすることなく床に座って奇妙な金属片をいじくり回していた。ボーイッシュなくせに機械オタクという不思議な属性を持つ彼女は、桜にとって生涯の友といっても過言ではないほどの存在だ。最も、向こうがどう思っているかはいまいち判然としないのだが。
「それで、欲しいものは買えたのか?」
桜が持ってきた図鑑を広げて何を調べようか考えていると、背後から茜に話しかけられた。
「うん、まあね……」
「そうか。それで、何を買ったんだ? 本か?」
「べ、別に、つまらないもの」
まさか怪しげな薬を買ったなんてことは言えないので、桜は適当にはぐらかして作業を続けようとした。適当な花を選んでブラウザに検索内容を入力しようとした途端、胸部に何やら暖かいものを感じた。その正体を確かめる暇もなく、桜の控えめな胸は後ろに立つ誰かさんの手によって勢いよく揉みしだかれた。
「ちょっと、何してるのやめて!」
「言うまでやめなーい」
顔を真っ赤にしてじたばたともがく桜だったが、脇の下から完璧に身体を固定されてほとんど身動きができない。同じ女子とはいえ、茜とは一回り以上の身長差があり、力では敵うべくもない。早々に抵抗することを諦めた桜は、事のあらましを茜に話して聞かせた。
「……恋の特効薬? そりゃまたおかしなものに首を突っ込んでるなー。桜の周りは、いつもトラブルだらけで飽きが来ないな」
「そんなことは……」
ない、と言いきれる自信はなかったが、大抵のトラブルはむしろ茜が運んでくることが多い。一番近くにいるという理由で、桜が地雷に引っ掛かりやすいだけだ。
「まあとにかく、要約するとその恋の特効薬とやらで和人のハートを射止めるのが目的なわけね。しっかし成功する見込みは低いと思うぜ。桜の引っ込み思案は異常だし」
「うっ、はっきり言わないでよ……。今回は大丈夫だよ。説明を読む限り、例の薬には性格を変える効果があるらしいから。私でも、何とかなるはず」
「その薬が本物ならな。今どこにあるんだ?」
「私の部屋にあるけど……」
「とってこい」
にこやかに放たれたその言葉によって、桜は自分の家と茜の家とを往復する羽目になった。どのみちパソコンを使いたい桜にとってはその方が都合がいいのだが、たとえそうでなくとも茜が自分から動くことはないだろう。一番の友達がこのようなぐうたらに生まれたことを嘆きながら、桜は再び東雲家を訪れた。
「はい、これだよ」
「おー、これか。結構小さいな。……ん? なんだこれ、構成成分が書いてないぞ。説明書とかついてたか?」
「別にないよ。説明は、そのラベルだけ」
「ほほう……」
茜は瓶を回しながら様々な角度から観察し、やがてお手上げというように肩をすくめた。
「薬事法を完全に無視してやがる。中身がわからなければ調べようがないし、どうしようもないな」
「……そう。やっぱり、危ない薬なのかな。おばあちゃんが一枚噛んでるみたいだから、大丈夫だと思ったんだけど」
「え、あのばあさんが絡んでるのか? じゃあそれほど危ないものではないかもな。とりあえず、試してみるか」
そう言って、茜は桜の許可も取らずに瓶の蓋を捻って開けた。制止の声を上げる暇もなく、指を中に突っ込んで液体を舐めとる茜。
「甘い……な。砂糖水みたいな味だ」
「ちょっと……何してるの! 害のある薬だったらどうするのよ!」
「だからー、それを調べてるんだろ。いわゆる毒味ってやつさ」
「そんなの頼んでないし!」
「頼まれなくてもそれくらいはやるさ。私は桜のためなら、命を賭けても惜しくない」
「……意味わかんない。それより、茜も良さげな花言葉がないか調べてよ。明日試すんだし」
真っ赤になった顔を隠すように、桜は後ろを向いて床に放り出してあった図鑑を捲り始めた。
その後、茜に度々ちょっかいを出されつつも、インターネットを使ってめぼしい花言葉を集めていった。想像通り恋に関する言葉が多いようだったが、中には不死だの不滅だの怪しげなものもあった。
「なんか結構種類多いね。意外と奥が深いのかも」
「んー、そうだな。おっ、これなんて桜にピッタリじゃないか。『ヒナギク、あなたと同じ気持ちです』」
「……同じ気持ち? なんでそれがピッタリなの?」
「えっ……おまえ、本当にわからないのか?」
呆れたように眉をひそめる茜だが、それでも桜はなんのことだかわからなかった。強いて言うなら、茜との友情のことだろうか。
「なるほどね。こりゃ確かに自力で解決するのは難しそうだな。薬を使うのは構わないけど、何か困ったことがあったらすぐに相談しろよ」
「うん、ありがと」
弄られてばかりの桜だが、困ったときはこうしていつも助けてくれる。やはり茜との友情は本物なのだと、桜は密かに確信した。
翌日、薬を香水の瓶に移し変え、それを祖母の庭園でくすねてきた数々の花びらを入れた袋と共に鞄に入れた桜は、意気揚々と学校へ向かった。今度こそ、自分の意思で恋を成就させるために。しかし、道中に出会った思わぬ伏兵のために、桜はいきなり境地に立つこととなった。
朝のホームルーム前の教室は、よそよそしくもどこか期待に満ちた、不思議な空間が広がっていた。女子は早くも数人のグループを作り、友人を獲得するためのトークに熱中している。男子も女子ほど積極的ではないにしろ、近くの者同士で話したりして徐々に人間関係が構築されつつある。しかし、その中に桜の姿はなかった。
教室の隅の席でぽつんと座る桜は、はたから見れば華の高校生デビューに失敗した大人しい女子生徒だ。桜もそれは自覚しているし、事実その通りなのだが、彼女にはそれどころではない事情があった。
教室の中程、男子も女子も交えてにこやかに会話をする一人の少年。ルックスもそこそこあり、何より人好きのする温和な性格と誰にでも平等に話しかけられるコミュニケーション能力が、彼の魅力を引き立てる最大の武器となっている。
桔流和人は、まさに桜と対極にいるような人間だ。幼い頃からの交流がなければ、話しかけることすらできなかっただろう。同年代の男子の中では確実に一番長い時間を共にした彼が同じ教室にいる。それだけで、安堵のような恥ずかしさのような不思議な感覚が、桜を包み込む。
和人に話しかけることは問題ない。厄介なのは、彼が桜とほとんど面識がない人間に囲まれていることと、彼女が託された用事の内容だ。
桜は鞄の中に入っていたそれを取り出し、膝の上に乗せて物憂げに眺めた。藍色の布に包まれたその物体は、今朝和人の母親に託された弁当である。和人の家がちょうど通学路の途中にあり、しかも運のいいことに同じクラスだという理由から、歩道で待ち伏せされ託されたのだ。
弁当を渡すくらい何ともないと自らに言い聞かせる桜だったが、立ち上がろうとするたび足がすくんでうまく動けなくなる。しかし、朝のこの時間に渡せなければチャンスが激減することは明らかで、このまま昼休みになれば和人は弁当がないことに気づき、学食で食べるなり売店で食べ物を買うなりするだろう。そうなれば、弁当の処分に困ることになる。
薬に頼ることも考えたが、桜が前日に考えたプランにはそのような行動は含まれていない。何としてでも、自力で解決しなければならない。
桜は意を決して立ち上がると、弁当を持って和人のいる方へ歩いていった。普段大人しく椅子に座っているだけの桜がとった突然の行動に、自然と周囲の視線が集まる。思わず逃げ出したくなる衝動を抑えつつ、人だかりをすり抜けて和人の席の真横に立つ。気配に気がついた和人が、クラスメイトとの話を中断して桜の方を向いて微笑む。彼はいつでも、そのような笑顔を人に向ける。
「よう、桜。何か俺に用事か?」
桜がこのような場所で自分から近づいてくるのには訳があることを、和人は一瞬で見抜いていた。おまけに視線がちらりと弁当の方へ向いたことから、どんな用事であるかもわかっている。
「……これ、弁当」
それでも不要な会話をしようとする理由は、桜を何とかしてクラスメイト達の輪に入れようという彼なりの手法だ。
和人はわざとらしく溜め息をつきながら、桜が突き出した弁当を受け取った。
「あー、またか……。なんでうちの母親はこうも抜けてるのかね。自分で用意するって言っても聞かないし。悪いな、手間かけて」
「別に、大したことじゃない」
和人の気持ちは十分にわかっているし、できればそれに応えたいとも思っている。それでもぶっきらぼうな物言いしかできない自分に失望しつつ、桜は彼に背中を向けて自分の席へ戻った。途端に和人をからかう男子の声が聞こえてくるが、桜は眠くなったふりをして机に突っ伏した。恥ずかしさのあまり徐々に赤らんできた顔を隠すように、廊下の方へ向ける。
付き合ってるのか。幼馴染み。彼氏はいるのか。紹介しろ。いつものパターン。正直放っておいてくれと、桜は思う。どうせ紹介なんてされても、うまく話せずに気まずくなるだけだ。
悶々とした気持ちのまま午前が過ぎ、第一の関門である昼休みがやってきた。桜の計画では、ここで薬の効果を試すことになっている。
桜は鞄の中から花びらの入った袋を取り出し、少々悩んだあげくアマリリスの花びらを選んで、同じく取り出した香水の瓶の中に入れた。花言葉は、おしゃべりや誇り。まさに桜が今必要としているものだ。リコリンという毒物を含むので不安ではあったが、使う花びらは極少量だし、香水として使うのならおそらく大丈夫だろうと判断した。事実桜が瓶の中に入れたのは、小指の爪ほどもない小 さな一欠片だ。
花びらが薬に触れた瞬間、透明だった薬は瞬く間に薄い赤色に染まった。入れたはずの花びらは、すでに影も形もなかった。
まるで魔法のような現象を見て呆けていた桜は、すぐに我に返って完成した薬を胸元に吹き掛けた。甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐり、弾けるような爽快感が全身を襲った。一瞬毒に当たったのかと思ったが、身体に異常は感じられない。むしろ気分は高揚し、何でもできるのだという万能感で満ち溢れている。
薬の効果は本物だ。桜はそう実感した。
鞄から自分の弁当を取り出し、立ち上がって和人の席に向かって歩き出す。朝と違って、特に用事があるというわけでもない。百パーセント、桜の意思によるものだ。
和人の脇に立ち、今度は自分から話しかける。
「ねえ、お昼一緒に食べよ」
「…………えっ? お、おう、いいぞ。じゃあえっと、そこ座れよ」
明らかに動揺した様子で、和人は使っていないらしき前の席の椅子に座るよう促した。桜は椅子を反転させ、和人と向かい合わせになるように座った。
普段の桜ではあり得ない行動に、クラスメイト達は呆然とした表情で二人に視線を送っていた。
「……今日はどうしたんだ?」
「どうって何が」
「いや、いつもと違って積極的というかなんというか」
「入学してまだ一ヶ月たってないでしょ。それなのに、私の『いつも』がどんなのか知ってるの?」
「そりゃ同じクラスになったのは今回が初めてだけどさ、小さい頃から知ってるんだから桜の性格くらいわかるさ」
「ふーん、そう。私が積極的なのはおかしいんだ」
「おかしいってことはないけど……」
「和人は、攻めるのが好きなの?」
「ば、ばか、変なことを言うな! 誤解されるだろ」
和人は顔を赤らめながら、誤魔化すように鞄から弁当を取り出して机の上へ広げた。いつもと違って自分が主導権を握っているのだという感覚が、桜の気持ちを高ぶらせる。その場の空気は、桜が完全に支配していた。
「あれ? 箸がない……」
弁当を広げた和人が、うんざりしたように呟いた。普段の桜ならうろたえていただろう事態でも、今はチャンスとして捉えられた。
桜は手を伸ばして和人の弁当の蓋を開けると、中に入っていた卵焼きを箸でつまみ、彼の口元へ持っていった。
「はい、食べて」
「ちょ、ちょっと待て桜! それはいくらなんでもまずいぞ」
「私のじゃ嫌?」
「いやうれし……じゃない、問題ないけど、一応ここは公共の場であってそのようなことをするのは相応しくないと思うんですハイ。それに、こういうときに備えて割り箸も持ってきてるし」
動揺のあまり敬語になった和人は、急いで割り箸を探し出し、桜の目の前にかざして見せた。少々残念に思いながらも、桜は卵焼きを元の位置に戻した。
その後も桜が始終リードする形で会話が続き、計画していた家に招くという企みも、勉強を教えてもらうという口実で実現させることができた。この日、和人の部活が休みであることは、とっくにリサーチ済みだ。
そんなわけで気分も晴れやかに帰途へついた桜だったが、徐々に薬の効果が薄れていくに連れ自分のした行為の恥ずかしさに心がへし折れそうになっていった。とはいえすでに引くに引けない状況になっており、陰鬱とした気分とは対照的に、何としても自分の思いを伝えるという意志はより強固なものとして桜の心を楔のように縛りつけていた。
家に帰った桜は、早速和人を迎える準備をしようと掃除をしたり勉強をするためのテーブルを用意したりと忙しく動き回っていたのだが、十分もしないうちに祖母に引き留められた。
「桜、掃除をするのは感心だけど、そろそろ準備しなー」
通ったついでというように廊下から顔を出した祖母の言葉を聞いて、桜は自分の計画が不完全なものであったことに気づいた。
「え……嘘、今日だっけ?」
「あんたが言ったんだろ、今日がいいって」
「あう……」
桜は祖母の教育の一環として、月に数回日本の伝統芸能を教わっている。そういえば、部活動が休みであるこの日を選んだのは他ならぬ桜自身であることを、今更ながらに思い出す。
「あ、あのさあ、お稽古の日程、ずらせないかな? 今日はその、友達がくるからさ……」
「友達? 茜ちゃんなら気にしないだろう。一緒にやればいいじゃないか」
「……茜じゃないの」
「……ほほーう」
もじもじと恥ずかしそうにしている桜の様子を見て察したのか、祖母の久美子は嫌らしい笑みを浮かべた。
「ではとびきり可愛い着物を用意するかね。ちょいと待ってな」
「あ……おばあちゃ――」
最後まで言い切る前に、久美子は廊下を滑るように歩いて桜の視界から消えていった。ああなると、もはや桜の力では手のつけようがなくなる。以前和人一人を家に招いた時など、目の前で地唄を歌わされたこともあり、その時は恥ずかしさのあまり数日間家に閉じ籠ってしまった。
祖母の暴走によって幼少期に様々なトラウマを植えつけられてはいたものの、なんだかんだで根っからのおばあちゃん子である桜には止めることができなかった。幸いなことに、和人がくるのは午後五時頃で、まだ一時間以上は時間がある。それまでに終わらせてしまえば、問題はない。桜は今度こそ祖母の思い通りにはなるまいと、決意を固めた。
「へえ、うまいな。それなんて曲?」
「ひゃあっ!」
背後から突如聞こえてきた声に、桜は思わず飛び上がってしまった。振り向くと、そこには興味深々の眼差しで桜を見つめる和人の姿があった。反射的に時計を見やると、時刻はすでに五時を回っていた。
「嘘、もうこんな時間!」
思えば稽古中に祖母の挑発に乗ってしまったのが悪かった。自分でも上出来だと思った演奏を下手くそだと貶され、やけになって練習を続けているうちに時間を忘れてのめり込んでしまったのだ。またしてもしてやられたと、桜は悔しそうに唇を噛んだ。
「またおばあさんにお節介焼かれたのか? その着物、すごく似合ってるぞ」
「……うるさい」
事情を察した和人が、楽しそうに笑みをこぼした。こういう時、和人は決まって笑うだけで助けてくれない。
「ちょっとそこで待ってて。準備してくるから」
「演奏はもういいのか?」
「いいの!」
半ば八つ当たりのように声を荒げて、桜は隣の部屋へ急いで駆け込んだ。桜が琴を弾いていた部屋は、自分の部屋の隣にある。稽古部屋と呼んでいるその部屋は、使う人がいないためほとんど桜のものと化している。勉強用のテーブルなどはそちらに置いてあるのだが、勉強道具などは寝室を兼ねたこちらの部屋に置いてあるので、逐一往復しなければならないのだ。
――というのはもちろん言い訳で、実際の理由は例の薬を取りに行くためだった。何かと勘の鋭い祖母を避けるため、和人が来てから使うことに決めていたのだ。
桜は花びらの袋から数枚を取り出して、畳の上に並べた。彼女が選び出したのは、全部で三種類。一つ目はナデシコで、大胆、勇敢といった花言葉がある。二つ目はヤマツツジ。花言葉は情熱。最後はバーベナという花で、魅了するという意味の花言葉を持つ。
ラベルの説明には同時に数種類の花びらを使ってはいけないとは書かれていなかったので、桜はこれらをいっぺんに使うつもりだった。
まずヤマツツジで気持ちを高め、ナデシコでそれをぶつけて、バーベナで魅了する。この三段構えなら、余程嫌われていない限り落とせるだろうと踏んだのだ。しかも香水ならば近くにいる人も影響を受ける可能性があるので、相乗効果が期待できる。
桜は意を決して、事前に決めた順番通りに薬を香水にして吹き掛けた。 薬の効果が表れるにつれ、和人に対する想いが膨れ上がり、抑えきれないほどの欲求となって桜の足を動かした。
彼の心を掴み、すべてを捧げたい。彼の身体に触れ、獣のように貪りたい。ただそれだけのために、桜は歩を進めた。
稽古部屋へ行くと、和人は床に置かれた琴を熱心に眺めていた。部活も文化部で芸術家肌の和人には、何か思うところがあったのかもしれない。
「和人、お待たせ」
「お、来たか。じゃあ早速……ってあれ? 勉強道具は?」
「いらないよ。今日はもっと、ためになることを教えてもらうから」
「……ためになること?」
当惑する和人を尻目に、桜はにっこりと微笑んで彼の方へ近づいていった。
「ねえ、和人はなんで私が着物姿を見せるのを嫌がるか知ってる?」
「いや、知らないけど……」
「着物ってさ、下着の線が出ちゃうってよく言うでしょ。だから私、いつも下は何も着てないの。それが恥ずかしくて、和人の前だと上がっちゃうの」
さらに近くまで近づきつつ、着物をわざと下に引っ張って身体の線を強調させる。元々サイズが小さめだったこともあり、布の下の突起が一目見てわかるくらいくっきりと浮かび上がる。
「そ、そうなの……か? けど、さすがに何も着けないのは、その、色々と良くない気が……」
何とか視線を逸らそうと奮闘する和人だが、何度目を動かしても結局は桜の胸元に戻ってきていた。見られている。そう思うと、桜の気持ちはますます高ぶっていった。
「ふーん、良くないんだ。なんで駄目なの? ……興奮しちゃうから?」
桜が熱っぽい視線を向けると、和人は面白いくらい簡単に赤面した。いつもとは、完全に立場が逆転している。
「あ…………いや……えっと」
不明瞭な呟きと共に和人が後ろによろめいた瞬間、桜は思いきって彼に飛びついた。バランスを崩した和人に桜が覆い被さる形で、二人は床に倒れた。
薄い着物越しに、和人の身体の熱が伝わってくる。お尻の下に一際高い熱を感じた桜は、彼もまたその気になっているのだと知った。
着物をずらし、肩を露出させる。一刻も早くこの感情を発散させるために、桜は彼の着ているジーンズに手をかけ――
「――誰だ、お前」
否定的な言葉。和人が発したそのたった一言の言葉で、桜の身体は凍りついたように動かなくなった。
何か信じられないものを見たような、和人の虚ろな目。その黒い光から、桜は目が離せなかった。
身体は確かに反応している。彼の下半身は狂暴なオスの本能に満ち溢れ、彼の腕はそれ単体が個別の生き物であるかのように桜の秘部へ這い寄ってきていた。
ただ心だけが、桜を見ていない。
和人の意思がない。そう思った途端、桜は怖くなってその場から飛び退いた。
「……桜?」
確かめるようなその問いかけに、桜は答えることができなかった。自分ではない何かが自分を動かしているのだという恐怖が全身を支配し、吐き気すら覚えた。一刻も早くその場から逃げ出したい。まごうことなき自分のものであるそれに身を委ね、桜は部屋から飛び出した。
その後自分がとった行動の細部は、桜にはわからなかった。気がついた時には、例の薬が入った瓶を持って、庭の隅にうずくまっていた。
ご丁寧に薬まで持ってきたのは、証拠隠滅を図るためだろうか。そう思うと、自分という人間への失望と怒りから、涙が溢れてきた。
桜の周囲は、草花によってできた生垣で小さな広場のような作りになっていた。生垣の高さは人の背丈ほどもあり、一種の閉鎖空間と化している。広場の中央には大きな桜の木が生えていて、桜はその木の幹に背中を預けて座っていた。
散り行く花びらが雪のように絶え間なく降り注ぎ、桜の周りだけおとぎ話の世界のように華々しく輝いて見えた。いっそのことこれがすべて嘘だったらいいのにと、桜は深い溜め息をついた。
もう和人との関係は直せないかもしれない。それでもせめて、元の自分に戻ってきちんと謝りたかった。
桜は無意識のうちに落ちてくる桜の花びらを掴みとり、瓶の蓋を開けて中に入れた。複数の花びらを入れたことによって濁ったような色になっていた薬は、透き通ったような薄い桜色に変化した。もう二度とこんな薬に惑わされないように。そんな願いを込めて、自分の名前でもある花が入ったその薬を、一息に飲み干した。
薬が喉を通りすぎた瞬間、憑き物が落ちたように桜の心は晴々しく開放された。同時に、自分が行った淫らな行為を思い出して、茹で蛸のように真っ赤に染まった。
羞恥に悶えながらも、桜はこれが自分なのだと実感した。思いを伝えることに必死になっていた以前の自分が馬鹿みたいに思えてきて、桜は泣きながら吹き出すという高等テクニックをやってのけた。
許してもらえなくてもいい。とりあえず一言謝ろう。そう決意し、立ち上がる。
「もう落ち着いたか?」
「うん、大丈夫」
「そうか。……これからどうする?」
「そうね、まず和人に一言謝ってから、今度はありのままの私を好きになってもらえるよう、全力で自分磨きを……………………あれ?」
「ん、どうした?」
「いや、なんか目の前に和人が…………ってぎゃああっ!」
全速力で逃げようとする桜の襟首を、和人は掴んで引っ張りあげた。身長差もあって、桜は吊し上げられる格好になった。じたばたともがくがまるで効果はなく、長い黒髪が邪魔をして視界すら遮られていた。
「離してよ! 今から和人から逃げるの!」
「ほう、逃げるのか。謝るんじゃなくて?」
「ひいい! それは違うの! あ、違うわけじゃないけどそのいきなりだったからえっと」
「確かその後、好きになってもらうとか何とか――」
「わ、わかった、謝るからそれだけは許してください! というか記憶から消去して!」
「残念ながら俺は普通の人間だから、そんな神業みたいなことはできません 」
「そんな……うう」
「おっと泣くのはなしだぞ。さあお仕置きタイムだこっち向け」
桜を地面に下ろした和人は、がっちりと肩を掴んで離さないようにしながら、桜を正面から見据えてきた。
「あのな、面倒くさいから単刀直入に言うぞ」
「な、なに……?」
絶交でもされるのではないかと怯える桜だったが、彼の口からでたのは意外な言葉だった。
「お前さ、焦りすぎ」
「……え?」
「ぶっちゃけると、桜が俺のことを好きなのはとっくに知ってるんだよな」
「そうなんだ……。ってうそお! あ、じゃなくて、そ、そんなわけない、でしょ。証拠もないのに、てて適当なこと言わないで」
「いや、襲われたし」
「あっ……」
「まあそれがなくてもわかってたけど。言っちゃ悪いけどさ、桜のおばあさんおしゃべりが過ぎるぞ」
またあの人かと、桜はがっくりと項垂れた。もう何もかもどうでもよくなった桜は、和人の胸元に頭から倒れ込んだ。
「おっと……大丈夫か?」
「……大丈夫じゃない。もう何でもいいよ。好きにして。言い触らすなり絶交するなり、したいようにすればいい」
「そうだな、じゃあ俺の好きにさせてもらうよ」
嫌らしい微笑み。和人がその顔になるときは、決まって何か企んでいる。力が抜けて無防備な桜を、和人は自分の元へ思いっきり引き寄せた。互いの吐息が混じり合うほどの至近距離で、桜の目を見つめてくる。またしても、桜はその目に釘付けとなった。しかも今度は、恐怖からではない。
「興奮してる?」
「し、してない!」
言葉とは裏腹に、桜の心臓は飛び出さんとばかりに激しく脈打っていた。
「今日の昼休みに、桜が言ったこと覚えてるか?」
「……え、なんのこと?」
「あれ当たりだよ。俺さ、攻める方が好きなんだ」
桜が息を飲んだその瞬間、抵抗する間もなく和人の唇が重なっていた。粘膜同士の接触という何でもないはずのその行為で、桜の全身は電撃を浴びたように動かなくなった。
放心状態に陥った桜の頭を、和人は誤魔化すようにくしゃくしゃに撫でた。
「そもそもあれだ、主導権を握ろうなんて身の丈に合わないことをするのがいけないんだよ。お前は一生、弄られキャラでいろ」
正直和人のそばにいられるのならそれでもいいと思ったが、何だか言い方が癪に触ったので不満げな顔で睨み付けておいた。キスをされた時反射的に背中へ手を回してしまったことは生涯黙っていようと誓いつつ、桜は先程の感触を確かめるように唇を舐めた。
――初めての口付けは、桜の花の味がした。