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モノクロメッセージ -Cogwheel‐

作者: 田代有紀

本作は、前作「モノクロメッセージ」の続編となります。前作を未読という方は、そちらから先に読んでいただくことをおすすめします。

 人間が世界を動かす歯車だとしたら、自分はどんな形をしているだろう。今にも取れそうなあれか、下の方で悲鳴を上げている小さなそれか、もしかしたら歯車ですらなくてただのネジか、それとももうとっくに取り換えられて捨てられた、すり減ったこれか。

 

 

 希望の机の、鍵付きの引き出しの中には二通の手紙が入っている。どちらも同じ人からの、希望宛のエアメール。差出人は鳥羽奏亮。希望の幼馴染で、今はピアノ修行のため遠い異国の地にいる――はずだ。

 一通目は一年前の五月に送られてきた。向こうの景色や生活や、弟子入りした先生の話が綴られている。二通目は同じ年の十二月、帰ると約束したけれど今は帰れないという内容のものだった。それ以来、彼からの連絡は途絶えたままだ。

 奏亮が渡欧したのは希望が大学へ進学する年の三月だったので、それからもうすぐ二年が経過しようとしている。希望は半年前に二十歳になった。早生まれの奏亮も年が明ければ二十歳、今年の成人式にはぎりぎり間に合わない。そもそも日本にいないのだから成人式なんて関係ないのだけれど。希望は自分で書いた手紙を落とさないように鞄にしまうと、靴を履いて外へ出た。郵便局へ出しに行く、奏亮宛ての手紙。今年はこれで最後にしよう。

 溜息をつくと、吐いた息が白く広がった。希望の住む小さな町にも、もうすぐ雪が降る。


 郵便局に手紙を出した帰り道、希望は友人のひとりに出会った。彼女は中学の同級生で、いまだに時々会っては話をしている。狭い町だ、少し通りを歩けば一人くらい知り合いに行きあたる。

「何、もう年賀状出したの?」

十二月に郵便局。そういえば年賀状なんてすっかり忘れていた。奏亮への手紙を出したと答えると、心配そうに顔を覗き込まれた。

「鳥羽くん、あれから連絡あった?」

希望が首を横に振ると、彼女は肩を落とした。

「去年帰ってこなかったし、今年も無理かなあ」

希望は思わず呟いて、けれど考え直し、わざと明るい声を出してみせた。そう簡単に帰れるようなものではないのかも知れない。

「でも、志を果たしていつの日にか帰らんって、歌にもあるでしょ?だからまだ帰ってこられないんだよ、きっと」

 何か志を持って故郷を出た人が帰らないことを選ぶ歌は多い。希望はそれを思い出しながら、どこか嫌な予感がしていた。帰らない、と選べるのならまだいい。でももしかしたら、帰れないのではないだろうか。もしかしたら、奏亮は二度とここには戻ってこないのではないだろうか。彼の抱いた大きな夢を応援しているはずなのに、心のどこかでそれを否定したくなってしまうのはどうしてなんだろう?

 何年も一緒にいれば、考えていることは伝わる。

「じゃあ、楽譜どうするの。あれ。弾いてもらうって約束したんじゃないの」

その言葉に、希望は足を止めた。奏亮が約束を破ったことは今まで一度もなかった。帰れないというそれが希望の知る限りはじめてだ。

「帰ってこなかったら弾いてよ」

 友人は幼稚園からピアノを弾いていて、いまだに練習教室にも通っているし、町内の人を集めた音楽会にも参加している。相当な腕の持ち主だった。だが彼女は首を横に振る。

「あれはあたしじゃ弾けないよ」

希望には音楽経験などないし、当然楽譜も読めない。白と黒の線と点の示す意味がまったくわからない。

「そんなに難しいの?」

「練習すれば弾けると思う。でも無理だよ」

彼女は肩をすくめて言い切った。

「あれはただの楽譜じゃない。鳥羽くんから希望への手紙なんだよ」

モノクロのメッセージの意味を、彼女は一度見ただけで理解したらしい。

「手紙は受ける人と書いた人しか内容を知らないでしょ。そこに第三者が入っちゃいけないの」

だとしたらわたしはあの音を、奏亮が弾いてくれるまで永遠に知らないままだ。どうしてわたしにもわかるように伝えてくれなかったのだろう。今からピアノを習ったとして、あんな真っ黒な楽譜を弾けるようになる気はしなかった。

「いつか帰ってくるよ、大丈夫。鳥羽くんは約束、途中で放り出す人じゃないでしょ」

希望は黙って頷いた。



***


 チェコ語とドイツ語、それから英語のアナウンスが一回ずつ機内に流れた。ヨーロッパの街から街を移動するための飛行機の中、配られたペットボトルの水を一口飲んで、奏亮は知らず溜息を吐く。窓側の席をいいことに窓の外を眺めてみるが、外は真っ暗で星も雲も大地も見ることはできなかった。まるで自分自身の未来のようだと、奏亮は思う。クリスマス休暇の前日、奏亮は日本へ帰国するため、ヨーロッパ大陸の空を飛んでいた。


 自分以上の実力者が山ほどいるのは知っていたし、覚悟もしていたはずだった。文化理解も演奏技術も、彼らの方が自分よりはるかに上だと。それならば今から追いついてやればいいと、そう思ってヨーロッパの地に降り立った。けれど現実は、奏亮が思うほどそう簡単ではなかった。

 日本で神童だ天才だと言われた奏亮の実力は、そこではあって当たり前だった。それどころか、それに努力を加えたところで、仲間たちには追いつけなかった。奏亮と同じレベルの学生は掃いて捨てるほどいた。その上、奏亮以上の実力の持ち主はその何倍もいた。そこでは誰一人、日本人の留学生であるということを除いて、奏亮に見向きもしてくれなかった。

 学内の成績最優秀者の演奏を発表会で聞いた時のことを、奏亮は今でも覚えている。風にそよぐ緑、走り回る子供たち、夜空を流れる銀色の星。そういうものがたったひとつの楽器でここまで鮮やかに表現することができるのかと、奏亮はただ圧倒されるのみだった。その鮮やかさに心打たれ、同時に自分に絶望した。自分は何年たっても、あんなふうに弾けるようにはならないだろう、と。

 絶望を抱えてなお諦めることをしなかったのは、持って生まれた性格のせいだ。自分でも頑固者だという自覚はあった。こうと決めたら自分で納得するまで絶対に諦めない。それだけが唯一の取り柄のはずだった。それがどういうわけか、帰らざるを得ない状況に追い込まれた。


 機内の正面の壁にある大型ディスプレイに、飛行機が今どこを航行中かが表示されている。留学先のプラハから、フランクフルトへ。そこから日本へ。直行便がないため、乗り継ぐことになっている。今頃日本は騒々しくクリスマス商戦の真っ最中だろう。誰も彼もが浮かれている。その中へ一人帰るのかと思うと、一層憂鬱な気分になった。東京着の時間が夜で本当によかった。知り合いの顔でも見たら、余計に落ち込むに決まっている。

 やがて飛行機はフランクフルトの空港に着陸した。アナウンスが鳴り、乗客たちが降りる準備を始める。手荷物は肩掛け鞄一つしかない奏亮は隣の紳士が席を立つのを待って、通路を通って空港の建物の中に入った。


 一年前、希望に帰れないと手紙を出したとき、向こう十年は帰らない覚悟を決めていた。少なくとも正式にピアニストとして成功するまでは、何があっても帰るものかと。それなのに自分は今、東京行きの便を待っている。何か病気をしたわけでも、身内や知り合いに不幸があったわけでもない。帰りたくもない。それでも帰らざるを得ないのは、奏亮を教える、とある老ピアニストに日本に帰ることを勧められたからだった。飛行機を待つロビーは旅行客の声にざわつき、各国語のアナウンスが響いている。そういう喧騒から取り残されたように、奏亮はベンチに座って荷物を抱え、足元を見つめた。



***


「ソウスケ、また君は焦っているよ」

 奏亮を教えるピアニストは、奏亮の演奏を聴き終わって一言、そう言った。奏亮は大学以外でも、父親の友人でもある老ピアニストに習っていた。高校を卒業してすぐプラハへ渡ったのは、九月の入学前の五か月間、その人に教えてもらうためだった。その五か月間がなければ、奏亮はとうに他の学生たちから取り残されていただろう。

 その老ピアニストは、ヨーロッパでその名を知らない音楽家はいないような有名人であり、奏亮は事実上、その人物の弟子だった。

「弾き手の考えていることは聴き手にも伝わるんだ。もっと落ち着いて、リラックスしてやってごらん」

 もう何回聞いたかもわからないアドバイスだ。そして、それを実行できた試しがない。それは奏亮がこちらに来てから一度も、本当の意味で力を抜いたことがないからだった。周りはみんな、自分より何倍も巧かった。それなのに、力など抜けるはずがない。もっと巧くならなければ、もっと弾けるようにならなければ。彼らに追いつくことすらできないようでは、夢など叶うはずがない。

 練習の終わりに、彼は静かに告げた。

「君を教える者として言おう。今度のクリスマス休暇は日本に帰りなさい」

思わず動きを止めた奏亮に、彼は穏やかに微笑んだ。

「君はこの半年で大分痩せただろう。大学に入ってからの君はいつでも何かに追い立てられているようだった。一度、そういうものを忘れて故郷で休んだ方がいい」

 頷けない奏亮に次に告げられた言葉ほど、心を貫いたものはなかった。

「今のままでは君はもう、これ以上伸びないだろう」

 足元が崩れて闇の底へ落ちていくような気がした。言われた言葉は全否定に等しく感じられた。俺は一体、どうすればいいのだろう?


 帰れと言われた。もう伸びないと言われた。それをなんと両親に説明して、プラハと日本の往復代を頼むのだ。アルバイトなどしているわけがなく、よって貯金はほとんどないも同然だった。クリスマス休暇まであと十日足らず。どう考えても帰れる気がしなかった。

 だが、恩師の彼が言うのだ。奏亮に残された選択肢は一つ、帰ることだけだった。

 重い足を引きずって家に帰ると、奏亮は父親に電話を掛けた。

「父さん、俺今年は日本に帰りたいんだ」

さすがに帰れといわれたと言うわけにはいかず、奏亮はそう説明した。だが返ってきた言葉に、奏亮は素直に事情を話すべきだったと後悔することになる。

「奏亮、お前は何を考えているんだ?志半ばで挫折して帰るような息子に出してやる金はない」

がちゃんと荒い音を立てて切れた受話器を耳に当てたまま、奏亮は呆然と立ち尽くした。挫折なんてしていない。そんなこと、一度だって思ったことはない。けれど、何度事情を説明しようと電話をかけても、電話は繋がらないままだった。


 歯車が噛み合わなくなったように、何もかもがうまくいかなくなった。この前まで弾けていた三連符の連続に、よりによって試験で失敗した。成績がまた落ちた。同じようなレベルだった同期の成績が上がった。すれ違った学生が自分を見て笑っているような気がした。家の水道管が凍った。修理工はチェコ語しか話せなかった。奏亮は、英語以外はドイツ語とフランス語しか習ったことがない。

「最悪だ」

人生の中で最悪の時間を選択しろと言われたら、今を選んでやる。

 一つ駄目になると雪だるま式にすべてが駄目になる。そのまま下り坂を転がり落ちたら、雪の塊は木か岩にぶつかって砕け散るのだろう。それが自分だ。重苦しく過ぎていく灰色の日常をどうやったら終わらせることができるのか。奏亮は拳を握りしめた。

 この世界に永遠はない。だからこんな日も永遠には続かない。けれどこの日々が終わった時、自分はどこにいるのだろう?


 そんな日の午後、郵便受けに一通の手紙が届いた。差出人は、遠い故郷の幼馴染、希望だ。一年前から手紙を送っていない自分に、希望は二月に一度のペースで手紙を送ってきていた。最初のうちは読もうと思ったし、返事を書こうともした。けれど、うまくいかない自分の日常を書いたところで希望を失望させるだけだろうと、手紙を書きあげることができなかった。そうするうちに、読むことすらしなくなった。読んだら心が折れそうな気がして。希望が悪いわけではない。自分が弱いだけだ。

 届いた手紙を、それまでのものと同じように鍵のついた引き出しに滑り込ませ、奏亮は溜息を吐いた。どうしても、どうやっても、読める気がしない。


 気がついたら一週間が過ぎていた。今年最後のレッスンを受けに、そして帰れないと言いに、奏亮はあのピアニストの教室へ向かった。

「帰れません」

 あいさつの後の第一声、奏亮はそう言って事情を説明した。老人はそうかと頷き、くるりと向きを変えてパソコンを立ち上げはじめた。何をするのかと呆気にとられた奏亮に向け、彼はごく自然に、なんでもないことのように言い放った。

「心配するな。往復代は私が出してあげよう」

 何十万もするようなそれを、できそこないの生徒に?奏亮は声も出なかったが、一拍置いて慌てて止めに入った。

「ちょっと待ってください、どういうことですか!そんなお金返せませんよ!」

彼は声を立てて笑った。

「生徒の窮地を助けられないようでは教師失格だろう?」

交通費がないのは君のせいではないし、帰れと言ったのは私だ、と言いながら目の前で航空機の予約を始めた老ピアニストを止める術を、奏亮は知らなかった。


 レッスンの終わり、彼は奏亮の目をじっと見つめて言った。青い瞳が奏亮を射抜く。

「君には才能がある。意欲もある。けれど一つだけ足りないものがある。それを故郷で探しておいで」

 意味も分からず首を傾げるだけの奏亮を送り出し、彼は気が付いた。ピアノの横の台、奏亮がレパートリーの楽譜を置いていたその場所に、二綴りの見覚えのない楽譜が置き去りにされていることに。



***


 どのみち、誰がどう聞いても、自分は挫折して帰る者でしかないだろう。ロビーの窓から見える暗い風景を眺めながら奏亮は考えた。帰りたくなかった。帰れば二度と、プラハには戻れないような気がしていた。だからあんな風に父に説明したのかもしれない。

 誰にも挫折しているなんて言われたくない。毎日毎日、何時間も努力し続けてきた。諦めてしまおうなんて一度も思わなかった。そんな奏亮の心も知らずに、勝手なことを言われたくはなかった。だからといって同情も憐みもいらない。頑張っているねだとか可哀想だとか、そんな言葉を言われたくはない。悲劇のヒーローには絶対になりたくなかった。ただひとつ望むとすれば、それはこの、光の当たらない日常を抜け出す力。誰もが納得する、一流の腕。決して折れない心。

 足は鎖でもついているのかと思うほど重かった。時間になって搭乗口から飛行機に乗り込み、やはり窓側だった席に座る。窓の外には、滑走路の飛行機を案内するための光が点々とついている。奏亮はそれを子供のようにじっと見つめていた。自分の道にもあの光のように、案内するものがあればいいのに。こちらが正しいのだと、教えてくれれば迷いはしないのに。人任せな人生など嫌だと、無謀にも思っていた。けれどたった一人、誰も歩んだことのない道を歩み続けるのは、思っていたよりはるかに苦しいことだった。

 飛行機が離陸のために走り出す。光や、車や、コンクリートの滑走路が後ろに流れていく。空を飛ぶのは楽ではない。重力に逆らって浮き上がる、その瞬間に圧力がかかる。窓の外の風景が一瞬にして角度を変える。大地に落ちる、と奏亮は思った。それは自分の目線と飛行機の角度からくる錯覚で、飛行機自体はもうすでに夜空の中にいるのだけれど。この景色は何度見ても、落ちているようにしか思えない。

 

 飛行機が無事に離陸したことを告げるアナウンスが、ドイツ語と英語と日本語で流れた。奏亮はそこで初めて鞄に入れてきた楽譜と手紙の束に目を通す。どうせ日本に帰るのならもう読んでもいいような気がしたから、わざわざ机の引き出しから出して持ってきたのだ。

 希望からの手紙を読まなくなったのは今年の八月からだ。三通溜まった手紙の一番古いものの封は、切られていた。読もうとして結局読めなかったのだ。奏亮へ、で始まる手紙には、奏亮は元気か、どうしているのかという質問と、日本が夏で蝉が鳴いていること、大学の前期試験が今年もそれなりのできだったこと、大学の農場の牛と羊の世話をしていることなどが綴られていた。頑張っているのは知っているから頑張れとは言わない、でも無理はしないでと、それが終わりに書いてあった。

 次の手紙は学内の絵画コンクールで三等だったことが書かれ、その絵の写真が一枚同封されていた。

 自分がプラハで悶々としている間、彼女は一人、橋を架け続けていたのだろう。その橋は長く遠く伸ばされて、ほんの少しずつ行きたい場所へと進んでいる。橋を渡る権利をつかんだはずの自分は今、何をやっているのだろう。貫かれるように胸が痛んだ。奏亮は何かの罰則のように黙って最後の手紙の封を切った。


「奏亮へ

 こんにちは、お元気ですか?プラハの冬は日本より寒いと聞きました。風邪を引いたりしていませんか?

私はこの前風邪で三日くらい寝込みました。奏亮はきっと大丈夫だと思っているけど……。

練習もあるし、忙しいのはわかっているから、帰ってこられないのはわかっています。

でももし、疲れたら(きっとそんなことはないだろうけれど)いつでも帰ってきてね。

 ところで私はこの間、一般の絵画コンクールの受賞作品を見に行ってきました。

 どの作品も私の描いたものとは全然くらべものにならないくらい、綺麗ですごい迫力でした。

写真がないのが残念です。奏亮にも見せたかったな。

 絵の具はその人の描き方次第で鳥にも空にも歌にもなれるんだなあと、それが新しい発見です。私も見た人にそう思ってもらえるような絵が描きたいです。

 でもそれならピアノも一緒だね。奏亮はきっととっくに知っていて、そんなの当たり前だろうって言うんだろうけれど。また奏亮の演奏が聴いてみたいです。

 あんまり長いときっと迷惑なので、今回はこれくらいにしておきます。

 今年はこれで最後の手紙です。よい新年をお迎えください。それでは。            希望」


 手紙を封筒にしまって、奏亮は目を閉じて唇を噛みしめた。帰って、自分は希望にどんな顔をして会えばいいのだ。返事は返さない、それどころかろくに読まない自分だ。それでも手紙を送り続けてくれていた彼女に、帰る場所を空けていてくれていた彼女に、何と言って謝ればいいのだ。

 挫折して、志半ばで帰るも同然なのだ、自分は。

 そんな自分に、彼女は出発した日と同じように笑いかけてくれるのだろうか。彼女が持っている鳥羽奏亮のイメージは、決してこんな風ではないはずだ。

 ふと、奏亮は希望にあげた楽譜のことを思い出した。渡そうと思っていた曲を、タイミングを逃して渡せずトランクにしまってしまい、意図せず楽譜は二組になった。希望に贈ったのは空港でわざわざ書き直した方、自分の手元に残ったのはもともと書いていた方。奏亮はそれを決まりか何かのようにいつも他のレパートリーと一緒に持ち歩いていた。今もこの束の中にあるはずだ。奏亮はもう一度それを見ようと探し始めた。そうして、探すこと十分、奏亮はそれがないことに気が付いた。

 トランクにしまったものは一枚もなかった。移動中でも時間を無駄にしないためだ。アパートを出る前も、忘れ物がないか二回もチェックした。それでも、楽譜はここにない。

 一体どこに置き忘れてきたのか。奏亮は考えたが、最後に見たのがいつだったのか、それすらもよく思い出せなかった。最後に弾いたのがいつだったのかも覚えていない。客室乗務員の女性に不審な目を向けられながらももう一度探してみたが、やはり事実は変わらなかった。忘れてきたのではない。これを人は、日本語で「失くした」というのだ。

 せめて頭の中で再現してみようと奏亮は記憶を探った。思い出した旋律はけれど、正確な音を成してはくれない。あの日焼き付けた想いを表現するには、圧倒的に音が足りないのだ。自分で作ったものなのに、思い出せないほど弾いていなかった。その事実に思い当たる。

 自分は一体、何をやっていたのだ。どこを目指していたのだ。

 未来へ続くと信じて歩いていた道を知らないうちに踏み外して、いつの間にか霧の立ち込める闇の中に迷い込んでしまったのだ。


 忘れたものを取り戻せずに彷徨う彼の心を乗せたまま、鋼の翼は一路、日本へと飛んでいた。



 一段と冷え込みの厳しくなった朝、希望は大学のサークル室の扉を開けた。中には誰もいない。大方が帰省準備か、飲み会にでも行っているのだろう。希望が入ったサークルは美術研究会。誰もがみんな、描き方やジャンルは違えど絵を描いた。希望はそこで技術を磨き、芸術鑑賞会のようなこともして、入学前より腕を上げた。最近ここで希望が描いているのは奏亮への、もらった楽譜のお返しの絵だ。去年の冬に間に合わせようと急いで描いて、奏亮が帰ってこられないとわかった時点からゆっくり描き直し、もうほとんど完成に近いもの。

 あげるのは別に一枚でなくてもいい。十年帰ってこなかったら十年分、二十年帰ってこなかったら二十年分、彼への思いを渡してあげればいいのだ。はたしてそんな先まで、自分が今の自分のままでいられるかはわからないけれど。これが完成してしまったらまた一枚、描き続けられるならば何枚でも、描けばいいのだ。帰ってこられないならプラハまで行けばいい。仕事をしてお金を貯めれば、旅費くらいは調達できるはずだ。

 大学は冬休みの間は開かなくなる。その前に希望は絵を持ち帰るため、本来ならば閉まっているはずのサークル塔を管理者に無理を言って開けてもらったのだった。早くしないと迷惑がかかる。希望は持ってきた鞄にキャンバスと画材をしまい、サークル室を後にした。



***


 奏亮が家に帰ってきたのは午後九時過ぎのことだった。もう何をする気力もなく電気を消してベッドに倒れこみ、呆然と目の前に広がる闇を見つめる。久々に感じた日本の空気の匂いも、プラハの街並みと違ってどこか機械的な住宅地も、今の奏亮の心を動かすことはない。帰ってきてしまった。それだけが頭の中を巡っていた。もう一度プラハに戻るためには、結局息など抜けるはずがない。腰を下ろしてしまえば最後、もう二度と立ち上がれないだろう。プラハ行の便は今から十日後、新年が明けて三日後に出る。それまでどれだけ気力を保っていられるか、奏亮には疑わしかった。

 日本にいる間、自分の能力は自分だけのものだと思っていた。そう、無邪気に信じて疑わなかった。けれど世界には、自分の代わりなんて山ほどいた。自分などいなくなっても誰も困りはしなかった。人が世界を作る歯車なら、自分などすぐにすり減って付け替えられる小さな部品の一つに過ぎないのだ。

 プラハにいる間まだ頑張ろうとしていた奏亮の心は、日本に帰ってきてほとんど折れかかっていた。周りの人々からは途中で諦めたのだと言われて後ろ指を指されるに決まっている。もう誰も、自分のことなど気にかけてはくれないだろう。誰の評価も得られなかった自分だ。代わりはたくさんいるのなら、こんなちっぽけで惨めな自分など、跡形もなく消えてしまいたい。自分の代わりにもっともっと優秀な人間が世界を動かせばいいのだ。



 奏亮が忘れていった楽譜を見て、老ピアニストは顎に手を当てた。決して巧いとは言えない、プロの作曲家なら絶対にしないだろう滅茶苦茶な方法を使って書かれた粗削りなそれには、確かにあの青年の心が刻み付けられていた。弾くことは彼にとって、いくら法則を無視した曲でも容易いことだ。音符を頭の中でなぞれば、それがどんな音を奏でるのかもわかる。けれどだからこそ、と彼は笑った。

 

 この白と黒のメッセージの真意はあの青年にしか伝えられないのだ。たとえ世界一のピアニストでも、この心を表現しきるという点では、まだ未熟なあの青年を、決して越えられない。

 

 タイトルの下に書かれた日本語は、たぶん誰かの名前だろう。この曲を、彼は贈ったのか、贈るつもりだったのか。

「随分情熱的な旋律をしているじゃないか。こんなに大事なものを忘れていって、困った子だ」

戻ってきたら渡してやらなければ。彼は苦笑して、その楽譜を机のあまり使わない引き出しの中の一番上にしまった。

「信じているよ、ソウスケ。君は必ず戻ってくる。忘れものをたくさん拾って、ね」



 翌日、最後の仕上げをしようとキャンバスをひっぱり出した希望に、母親が声を掛けた。

「奏くん、帰ってきてるみたいよ?昨日電気がついてるの、見たんだけど」

えっと声を上げ、希望は振り返った。けれど、奏亮からは何の連絡もない。

「奏亮のお父さんかお母さんじゃないの?帰ってくるなら教えてくれると思うんだけど」

母親はそうねと頷いて、しかし不思議そうに首を傾げた。

「この前千恵子さんから聞いたの。年末年始はご主人と二人でフランスで過ごすって」

 千恵子さん、とは奏亮の母親の名だ。希望の母親と千恵子さんは小学校からの友達同士だったのだという。世界的ピアニストとヴァイオリニストの夫婦がピアニストの卵の息子とともにこんな寂れた田舎町に住んでいるのも、千恵子さんがこの町を好きだったからだという。

 希望は立ち上がり、母親の脇をすり抜けて階段を駆け下りた。とにかく行くだけ行ってみよう。もし違っても、奏亮のことを聞くくらいはできるだろう。


 外から見た鳥羽家は静まり返っていて、いつもと変わった様子はなかった。窓のカーテンはぴったり閉ざされていて、人の気配はなさそうだ。希望は前庭を抜けて玄関に立った。そうして、足元のコンクリートに長い二本の跡が残っているのに気が付いた。この前研修旅行で使ったからわかる、これはトランクのキャスターの跡だ。少なくとも誰かがいる。希望はインターホンのボタンを押してみた。

 息を止めて耳をそばだてていると、中から人の気配と足音がして、がちゃりと扉が開いた。

「あ……」

 目が合った。どちらが声を上げたのかはよくわからない。顔を出したのは、奏亮本人だった。

 次の瞬間、奏亮が幽霊でも見たかのように勢いよく扉を閉めた。

「ちょっと!奏亮!?」

 さっぱり意味が分からず、希望は玄関の扉の取っ手を両手で握って引いた。しかし向こうも全力で押さえつけているらしく、希望の力では開けられない。やがてがちゃんと鍵のかかる音がした。

 わけがわからない。何か手紙に悪い事でも書いただろうか。思い当たる節がまるでない。だいたい、奏亮は希望が何か悪いことを言ってもこんな対応はしなかった。黙って最後まで聞いて、何が間違っているかをちゃんと正してくれるような人だったはずだ。

 しばらく扉を叩いていたが、だんだん理不尽な状況に腹が立ってきた。手紙は来ないし、久しぶりに会えたと思ったらこの対応だ。こっちがどれだけ心配したか、わかっているのか!

「開けてくれないなら出てくるまで動かないからね!」

たぶん扉のすぐ向こうにいるだろう、その気配を感じて、希望は言い放った。

「夜になっても、明日になっても動かないから!」

こんなことならコートを着てくればよかった。治りかけの風邪がまたぶり返しそうだ。けれど取りに帰ったらその間に奏亮はどこかに行ってしまうかも知れない。希望は風邪を引こうがインフルエンザに罹ろうが関係ないと腹を括り、玄関の扉に背をもたせ掛けて座り込んだ。

 吐く息が白い。両手を擦って、どんより曇った重たい空を見上げた。

 何が悲しくて扉一枚挟んで背中合わせになっているのか。溜息が漏れる。一緒にくしゃみが出た。家の前の道を通る、自転車に乗った子供が希望に不審な視線を投げかけて去っていく。別にいいのと希望は開き直った。怪しまれようが通報されようが、そんなの関係ない。

 何回目かのくしゃみをしたとき、後ろの扉が開いた。

「帰れよ。風邪引いてるんだろ」

 呆れたように奏亮が扉の隙間から顔を出し、突き放すようにそう言って扉を閉めようとした。この前ワイドショーで見た、強引なセールスマンがどうするかというのを思い出し、希望は扉の内側に左足を引っ掛けた。奏亮がぎょっとしたように手を止める。希望は扉の内側に手をかけ、ここぞとばかりに声を張り上げた。

「帰らない!わたしはずっと心配してたよ!どうして一回も連絡してくれなかったの!」

 それは忙しかったからだろうに、思わず言ってしまった。奏亮が視線を逸らす。ここまで来たらもう、事情まで聞かなければ気が済まない。

「帰らないからね」

もう一度繰り返すと、奏亮は諦めたように、

「……入れよ」

そう言って扉を開けてくれた。


 家の中は、家人がいつ帰ってきているのかわからないのに埃ひとつなかった。先の行動への質問をする暇もなく、座っててと言われた希望は低いテーブルのある床に座り込んだ。暖房は効いていない。こんな部屋の中にいて、奏亮は寒くないのだろうか。

「ああ、悪い。あっちじゃこんなの普通だからさ」

奏亮がエアコンのスイッチをつける。

 黒い髪はばさばさに伸びている。顔色はよくない。何より痩せた。もともと細めだったが、前はこんなに頼りのない細さではなかった。

「ちゃんとご飯食べてる?」

思わず聞くと、奏亮がこちらを振り返る。

「え?まあ、適当に」

 チェコに何が売っているか知らないが、もしかして日本人の口に合わないようなものばかり売っているのだろうか。訊ねると、奏亮が苦笑した。

「昔からあっちこっち行ってるから大抵のものは食べられるよ」

日本と違って時々質の悪いのが売ってたりするから気を付けないといけないけど、と奏亮は笑いながら言って、紅茶を出してきた。

「連絡しなくて悪かった。忙しくてつい」

それはいいのと、希望は笑った。ほんとうはよくなかったが、今更言っても仕方のないことだ。空を飛ぶ鳥を、地上で見上げる自分が邪魔してはいけないのだ。

「それより手紙、あんまり書かない方がいい?忙しいなら読んでる暇、ないだろうし」

手紙を出すたび、本当は迷惑なのではないだろうかとどこかで思っていた。奏亮の答えも、そんなことはないと言いながらどこか曖昧だ。

「いや、俺は別にいいんだけど、読めないから、希望に悪いと思って、さ」

「わたしは別にいいんだけど」

会話が上手く繋がらない。希望と奏亮、二つの歯車が噛み合わないのは二年間離れていたせいだけではないはずだ。だいたい出だしの、奏亮の行動は明らかに何かおかしかった。その部分の説明はないのか。仕方ないので希望は思い切って聞いてみることにする。

「奏亮、向こうで何かあったの?さっきから変だよね」

突然帰ってきて、希望を見てのあの行動だ。おかしくないと思わない理由がない。奏亮は答えずに俯いたままだった。

「嫌なら別に、言わなくてもいいけど」

ピアニストを目指して羽ばたいた彼の苦労など、希望が聞いても理解できないだろう。口の中が乾いてきたので出された紅茶を一口飲んでみる。しかしその場の空気はいつまでたっても沈黙に支配されたままだったので、希望は話題を変えることにした。自室に置いてある描きかけの、今日完成するはずだった一枚の絵。その話題なら、奏亮が喋る必要はない。

「わたし、奏亮がくれた楽譜のお返しに、絵を描いてるんだよ」

奏亮が息を飲んだのが分かった。それが何を表すのか分からずに、希望は奏亮の顔を覗き込む。と、奏亮が歯の隙間から絞り出すような声で言った。

「俺に、そんなことしてもらう価値はない」

一瞬、耳を疑った。聞こえた声はからからに掠れて、ひどく頼りなかった。これがあの、鳥羽奏亮?どんなときでも静かな自信に溢れていた彼だろうか。

「どういうこと」

 とっさに口から言葉が零れた。奏亮は希望の声を聞いても顔を上げない。

「俺なんか、結局は役立たずだったんだ」

線の細い肩が震えているように見えるのは希望の目の錯覚だろうか。誰も望まない言葉を吐き続ける奏亮を、希望はただ呆然と見つめていた。

「俺は何もできなかった。俺なんかいなくても世の中ちゃんと動いてた」

 あの日羽ばたいた翼は、異国の風に打たれてぼろぼろに傷ついていた。

「先生には帰れって言われたよ。俺は希望が思うような天才じゃない」

もう一歩も動きたくないと、彼の姿が語っていた。上に上がることもできないのなら、いっそ消えてしまいたいと。

 そんな彼の苦しみを、凡人の希望が一体どれほど理解してあげられるのだろうか。今何を言うべきで、何を言うべきではないのか、希望にはわからなかった。

「こんな俺なんて、ただのできそこないだ」

 吐いた言葉が傷つけたのは自分自身だと、彼は気付いているのだろうか。

 それとも本当に自分を傷つけて、消えてしまいたいのだろうか。


「できそこないなんかじゃない」

 言葉は自然と出てきた。

「何があったのか知らないけど、奏亮、自分のことをそんな風に言っちゃ駄目だよ」

奏亮は顔を上げないままだ。希望は言葉を重ねた。

「奏亮のピアノは綺麗だよ、誰もできそこないだなんて思わないよ。いつも一番だったじゃない。だから」

彼の手が、血の気が引くほど握りしめられた。その、次の瞬間。

「希望に何がわかるんだよ」

 冷たい声が響いた。凍りつくほど冷え切ったその声に、希望は思わず肩を震わせる。奏亮はそれに気付かずに続けた。

「あの場所へ行ったこともないくせに、本気で目指したこともないくせに、勝手なことを言うな……!」

 声に込められていたのは、血を吐くような苦しみと、深い絶望だ。奏亮は今、希望の声の届かない遠くにいる。

 希望は一言、ごめんと告げて立ち上がった。


 外に出ると、粉雪がふわりと舞い降りてきた。次から次へ落ちてくる小さな粒は、希望の掌で溶けて消えていく。まるで自分の、無力な言葉のように。


 言葉は無力だ。知っていた。知らされた。それでも、と希望は思う。

 

 わたしは知っている。きみの強さを、きみの優しさを、きみの奏でる音の美しさを。それはどんなに実力のある人でも、どんなに偉い人でも、誰にも決して消し去れない事実だ。わたしにとっての真実だ。


 キャンバスは何枚か持って帰ってきていた。絵の具も大半を持ってきた。わたしの絵は、きみの翼の羽根の一枚にでもなれるだろうか。わたしの言葉は無力だ。けれど、わたしの描く絵なら、もしかしたら、翼をつけてきみのもとへ飛んで行けるかもしれない。


 希望は部屋に籠って、無心でキャンバスに絵の具を乗せ続けた。絵の具の色の一つ一つ、それが自分の翼になる。絵の中の、風に、草に、光になる。きみの心の片隅でいい。この絵の放つ光が、もしもきみの中にほんの少しでも残るのなら、それがわたしの描いた意味になる。わたしが今まで腕を磨き続けた意味になる。

 作品は作者の誰かへの願いで、祈り。いつか思ったことが胸の奥で響いた。もしそれが本当なら、いや、本当でなくても。わたしはこの絵に願いを込めよう。祈りをかけよう。きみの道を照らす、光になろう。きみの全てを知っているわけではないから、こうすることしかできないけれど。きみがくれた数えきれないほどのものへの、これがわたしのこたえです。どうかこの心が、少しでもきみへ届きますように。

 いつしか時刻は深夜を指し、白かったキャンバスの上には色とりどりの絵の具が乗せられていた。



 次の日の朝、玄関のインターホンが鳴った。奏亮は何事かと玄関の扉を開けて、即座に閉めたくなった。けれど、今度は閉めずに少しだけ開けておくことにする。閉めようとすれば、彼女は怪我も厭わずに自分の足を扉の隙間に掛けるに違いないからだ。

「おはよう!」

希望は何事もなかったかのように笑いかけてきた。肩には大きな、背中一面を覆うような黒いバッグがある。それが何かを問う前に、希望は手を差し伸べてきた。

「せっかく日本に帰ってきたんだから、遊びに行こうよ」

 小さな頃から変わらない、そのまっすぐな笑顔を払いのける方法が、奏亮には思いつかなかった。


 希望が行こうと言ったのは、それほど遠くもない、二年前プラハ行きを告げたあの坂道の上の高台だった。

「外に出ないで一日中部屋に籠ってたら病気になっちゃうよ」

雪の積もる道を、二人は歩いていった。住宅地を抜け、クリスマス商戦で賑わう商店街を抜け、坂道への近道の、小さな階段を通った。誰も彼もが忙しそうで、二人のことなど見てもいなかった。希望はそんなことは気にもかけず、すたすたと歩いていく。周りの反応が気になるのは自分が劣等感にまみれて卑屈になっているからだ。ずっと会いたかった人を見て扉を閉めて鍵までかけてしまうほどに。最低だと思った。そんな弱い自分が嫌いだった。

 奏亮たちは無言で歩いた。不思議と、二人の人間が無言で一緒にいるときによく感じる、あの嫌な感じはしなかった。

 

 坂道を登り切って、希望が高台の鉄柵に腰かける。ここから、海までが見渡せる。旅立つ前日、目に焼き付けようとしたあの風景が、雪に抱かれて広がっている。希望が口を開いた。

「昨日は無神経なこと言って、ごめんね」

無神経だったのは自分の方で、希望は何も悪くないのに。けれど奏亮が言葉を返す前に、希望は続けた。

「でもね、やっぱり奏亮に、自分を否定してほしくはないんだ」

 希望が何を言おうとしているのか、奏亮は黙って聞くことにした。それがせめてもの、希望への償いのような気がして。

「たとえ奏亮がピアノを弾けなくなったとしても、それでわたしは奏亮を否定したりはしないよ」

冬の日差しが灰色の地面を明るく照らした。

「わたしが高三のとき絵のコンクールに落ちても、奏亮はわたしを否定しないでいてくれた。また描いてって、またわたしの絵が見たいって、そう言ってくれた」

自分は確かにあの日空港でそう言った。そこに嘘はない。今だって変わらない。

「だからわたしだってそうする。何度だってそうする。一つできなくたって、何もできなくなったって、奏亮が奏亮であることに変わりはない。奏亮がわたしにくれたものは変わらない」

奏亮が希望に何かをあげた自覚があろうとなかろうと、それだけは、誰にも何にも否定させない。きみにだって否定させはしない。希望の表情が、声が、そう語っていた。

 耳触りの良い言葉たちをひとつひとつ(ふるい)にかけて落としていったとしたら、最後に残るのはたぶん、今の言葉だろう。今の自分には、希望の言葉を否定する要素が見つからない。小さな自分たちを弾き潰そうと回る歯車の間で、希望は潰されない答えを見つけ出して、奏亮に示してみせたのだ。

「だからできそこないだなんて言わないで。自分で自分を傷つけないで」

きみの帰る場所を空けておくから。いつでも帰ってきていいから。ずっときみを待っているから。


 返す言葉が見つからなかった。言葉を失う奏亮の前で、希望は持ってきたバッグの中から二枚のキャンバスを取り出した。

「見たいって言ってくれたから」

 一枚は、空に羽ばたく鳥の絵だった。一羽の白い鳥が灰色の雲を抜け、光の差す青い空の向こうへ羽ばたいていこうとしている。白い翼は躍動感に溢れ、本当に今すぐに羽ばたいていきそうだ。しかしよく見れば、鳥の目には光がない。何か意味があるのだろうかと奏亮は思ったが、次に差し出されたもう一枚を見て、そんな考えはどこかに行ってしまった。

 もう一枚は春の絵だった。緑の草が燃えるように画面の前面に生い茂り、黒い雲が去っていく空には金色の光が差している。その光の下で鳥たちが飛び回り、人か妖精か、不思議な者たちが歌を歌っている。童話の一ページのようなその絵一杯に、喜びと希望と生命力が広がっていた。穏やかな春の風景のはずだが、そこから感じ取れるのは焔のような激しさと、剣の切っ先のような鋭い叫び。奏亮は、幼馴染のこれほどまでに強い絵を、今まで一度も見たことがなかった。

「できたら奏亮に受け取ってほしいんだけど、駄目かな」

 手を伸ばしかけて、しかし奏亮はできなかった。そうだ、自分には、希望に返せるものがない。希望に渡した楽譜を失くした。おまけにメロディーが思い出せなかった。そんな風になるまで、自分のいちばん大切なものを忘れていた。自分には、彼女の思いを受け取る資格はない。

「楽譜、失くしたんだ。希望にあげたやつ。だから俺は受け取れないよ」

 手を引っ込めた奏亮に、希望は首を横に振ってみせた。

「返すものなんていらない。これはわたしの勝手な願いだから。それに、楽譜ならわたしにくれたのがある」

 楽譜も、それに託した心も忘れていた自分に、それをもう一度弾く資格があるのだろうか。

「無理にとは言わないけど、できたら弾いてほしいな。だってわたしには、あんなに難しいのは一生かかっても弾けないもの」

自分は卑怯な逃げをした。口で言えばいいものを、わざわざ隠して渡した。希望が、書かれたものを理解できないのを知っていて。

 自分の胸に問いかける。はたして自分はもう一度、弾けるだろうか?逃げずに伝えられるだろうか?あの日焼き付けた想いは、まだこの心に残っているだろうか?

 それにすべて頷けるなら、自分にもたぶん、まだ弾く資格はあるはずだ。今度こそ伝えることができるはずだ。

 楽譜を貸してと、奏亮は頼んだ。今日一日考えて、弾けるようだったら明日弾こうと。


 家に戻った希望は楽譜を持って出てきた。無数に並べた黒い粒を見ながら希望が言う。

「これね、誰に聞いても、これを弾けるのは奏亮だけだって言われたの。奏亮にしか弾けない音なんだって」

自分にしか出せない音。そんなことを考えて、日本を旅立った気がする。

「わたしにはよくわからないけど、奏亮が作ったんだから奏亮が弾くのがいちばんだよね。奏亮よりうまくこれを弾ける人はいないよね。それはわかるよ」

希望は笑って、楽譜を奏亮に差し出した。

「わたしはやっぱり、奏亮のピアノが好きだよ。だからできたら、聴かせてほしいな」

 じゃあねと手を振って、希望は家に帰っていった。


 家に戻って、帰ってきて以来一度も開けていなかったグランドピアノの蓋を開けた。両親がいつこちらに帰ってきているのかは知らなかったが、ピアノは少しのずれもなく完璧に調律されていた。失くした旋律を取り戻そうと、奏亮は過去に自分が書き記した通りに鍵盤に指を走らせた。

 雷に打たれたように、これを作った日のことを、込めた思いや願いのことを、鮮やかに思い出した。ずっとどこかずれていた、心の歯車が噛み合った。

 

 そう、自分の音を奏でられるのは、世界で自分だけなのだ。


 自分で作った曲は、自分でも弾くのをやめてしまいたくなるほどひどいものだった。技法もなにもあったものではない。それと同じように、自分のピアノはいつだってひどく未完成だった。大学一優秀な学生と比べたら、それこそ比較にならない。それでも。誰が何と言おうと、どんなに下手くそだろうと、自分の心を音に乗せて表現できるのは、この世界でたった一人、この自分自身だけなのだ。それを忘れ、順位ばかり気にして他人の音を欲しがった自分が巧くなろうなどと、思うこと自体間違っていた。恩師の言った、足りないものはきっとこれだったのだ。

 思い出した。

 乾いた大地が水を吸い込むように、光を浴びた植物が葉を伸ばすように、籠から出た鳥が自由に空を飛びまわるように。

 奏亮は自分だけの旋律を弾き続けた。



 世界を動かす人間というものと、機械を動かす歯車というものを比べたとしたら、二つはとてもよく似ている。大きさを問わず役目を問わず、そのすべてがひとつのものを形作っている。けれど二つはある一点で、決定的に違っていた。

 時計の歯車なら、一つ壊れたら付け替えればいい。そうすれば時計はまた同じように動き出す。けれど人間はそうはいかない。一つが壊れたりなくなったりしたら、それだけで世界は別のものになってしまう。もう二度と、同じようには動かないのだ。

 もう消えてしまいたいとは思わなかった。自分自身を誰かと交換できるとも思わなかった。光を投げかけてくれた彼女の世界を、自分の勝手な都合で変えてしまいたくはなかった。

 希望は自分のピアノを好きだと言ってくれた。そう言ってくれるひとがひとりでもいるのなら、最底辺でも構わない。そのひとのために、自分は弾き続けよう。そう言ってくれるひとがひとりでも増えるように、努力し続けよう。そのひとたちの思いに相応しい、最高の音を奏で続けよう。この先に何が待つのか、自分は知らないけれど。それでもきっと、今度こそ、この険しい道も越えていける。



 約束を果たすため、今度こそ本当の想いを伝えるため、奏亮は次の日、希望を自宅に呼んだ。どんな発表会でも、どんなコンクールでも、こんなに緊張したことはない。

「一昨日は閉め出したりして、ひどいこと言って、ごめん」

きみが許してくれるなら、これから弾く曲を聴いてほしい。

「そんなのとっくに許してるよ」

 希望はそう言って、昨日の二枚の絵をテーブルの上に置いた。昨日真っ黒だった鳥の瞳は、燃えるような意志と希望を宿した光を放っていた。

 ピアノの蓋を開けて、楽譜を置く。椅子に座ってひとつ息をついて。

 鍵盤の上に、指を置いた。


 今きみに、真実の音を奏でよう。これが俺からの、きみへの想いのすべてです。

 最後まで読んでくださってありがとうございました。

 本当は続編を書くつもりはなかったのですが、前作で使った表現が気になり、それについて突き詰めて考えていくうちにこの物語ができあがりました。

 続きまで書いておいて結局彼の込めた真意は明かさぬままでしたが、これだけ「彼以外には表現できない」と言っておいて私が書いてしまうのも何か違うような気がしたので、ここはあえて隠したままでおこうと思います。

 最後に、この物語が皆様にとって少しでも何かの力になれば幸いです。

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