漆黒の翼
明け方になる頃には、リアンの微かな息遣いと、ハルの祈りとも呪いともつかない、良く分からない独り言がブツブツ聞こえるだけになった。
「逃げない……逃げないから……これは僕の十字架……だから……リアン……リアン……僕がちゃんと……絶対ちゃんと……」
言いながらハルは、リアンの背中から生え出た漆黒の翼を撫で続けているのだ。
リアンが苦しみ抜いて手に入れた、とても美しい漆黒の翼を……。
リアンにはもう苦しみはない。ただ、今は意識もなく、瞳を閉じて横たわっている。
ふーっと息を吐いて、ハルは翼から手を放してリアンの頬に触れた。そして優しく語り掛ける。自分の子供を目覚めさせる様に。
「さぁ、リアン、目を覚まして……僕を見るんだ。僕が君の主、君は僕の……ダナだ」
ハルの呼び掛けに反応して、リアンはうっすらと瞼を開いた。
その瞳は不自然な程赤い。いや当然か、不自然に作ったものなのだから。
だけど瞳の機能は果たしている。その瞳に、しっかりとハルは映った。自分にデュナミスを与えた主として……。
「やぁリアン……、いやダナ」
「……」
「ああ……」
見た目だけとは言え、長年の研究の結晶が今目の前に居る。リアンを犠牲にした事はもちろん忘れていない。だがそれも込みで、色々とたまらなくなったハルはぐいとリアンを掻き抱いた。
「君を美しいと思ってしまう僕は……やっぱり悪魔だね」
「……」
感傷的になってその腕を髪に滑らせると、おもむろにパシリと弾かれた。
「?!」
驚いて顔を見ると、その真っ赤な瞳はじっとりと半分閉じていて……今にもリアンが感傷に浸っている場合かと文句を言って来そうだとハルは思った。
「何キモい事言ってんのよ」
「リアッ……!!」
想像よりも酷かった。いや、デュナミスを飲んだリアンがリアンらしい言葉を吐くなんて想像出来る筈もない。
ハルは慌てて自分の口を押えて言葉を飲み込んだ。リアンなんて呼んではダメだ。最初の刷り込みが一番肝心。
まさか言葉を喋れるとは思わなかったが……、それ以前にキモいと言う感情がある事も驚きだ。だがとにかく、もうリアンではない。きちんと導く為にゆっくり丁寧に分からせていこう。
「ダナ……。君の名前はダナだ」
「ああ、うん」
「ああうん?!」
随分砕けた言葉を使う事に驚いて思わず繰り返す。
それにだ……、すぐ名前と言う概念を理解したと言う事だろうか? 自我を失えばあらゆる感情や、それまで覚えた知識や言葉もあらかた消えてしまう。小さな子供になった様なものなのだ。それなのに?
「ダナ……もしかして君……」
「うん」
「リアン?」
「……ふふん」
思い切ってハルはそう呼んでみた。その呼び掛けには答えなかったが、口の端を吊り上げて不敵に笑うその表情はリアンそのものだった。
「リアン! 君リアンだろう?!」
「そうみたい」
短いその一言にハルは大いに仰け反ってひっくり返った。ひえぇとおかしな声を漏らしながら。
「あはは! 良いリアクション! それを見れただけでも自我を手放さなかった甲斐があるわね! まぁ痛かった事しか覚えてないけど」
「なんっ……! なんっ……! どう言う事だいリアン! こんな事不可能だよ!」
腰が抜けてしまったのか、ハルはひっくり返ったままそう騒いだ。そんなハルをおかしそうに眺めながらリアンは立ち上がり、その翼を広げて見せてやる。
「あたしはリアンよ。そして翼もちゃんとあるんだから文句ないでしょ?」
「文句だなんて……待てよ? 条件は魔力や薬だけじゃだけじゃないのかも知れない……。なら一体何なんだ? リアン! ちょっと診させてくれ!」
いつも穏やかだったハルが異様に興奮して、まるで襲い掛かる様にリアンの翼に飛び付いた。
「きゃっ……! ちょっ……! 落ち着いてよ!」
「落ち着いてなんかいられないよ! これはとんでもない事だリアン! ゼロだと思われた君の魔力が……、いや待てよ恐らくは……! ああリアン! 科学の進歩は諦めなかった科学者が引き起こした偶然だったりするんだけど……まさに僕は今……!」
「だあああぁー! うるっさーい!!」
良く分からない事をまくし立てながら翼を触るハルを、その翼で吹っ飛ばす。しっかり感触はあるので触られたらくすぐったいし、力を入れて動かす事も可能だ。
そして再び床に尻もちを付いたハルを見下げて言ってやる。
「科学でも魔力でもない! 根性よ根性!!」
「……根……性……」
窓から入る日差しが、神々しくリアンを照らしていた。
「ああ……、君は凄いよ、リアン……」
本当に根性の成せる技だったとは思わない。きっと何か原因がある。だが、リアン自身がそう言って胸を張るのだ。それで良いではないかと思えた。それくらいの力強さが、リアンにはあった。
「僕のリアクションなんかどうでも良いよ。君はこれから、きっととんでもない景色をたくさん見るだろう。……もしかしたら見たくないものもね」
ようやく正気を取り戻したハルがそう言って立ち上がる。
「それはハルもじゃないの?」
「……そうだね。でも君となら良いよ」
ハルにとって、デュナミスから生還してくれたリアンは希望だ。大いなる希望だ。
「んなっ……! 何キモい事言ってんのよ!」
「またキモいって言われた……」
ハルはもう一度翼に触れさせて欲しいと言いたかったが、今のがキモいのなら殴られかねないと思い留まった。そして違うお願いをしてみる。
「お願いだリアン、早速だけど……飛んでみせてくれないか?!」
「飛ぶ……? へぇ! これ飾りじゃないんだ?!」
実際に身体を浮かせるのは魔力なので、その点で言えば飾りと言えなくもないが、翼はそれをコントロールする為に必要なものだ。
「飛べなければただの魔女ごっこだよ。まぁクオリティは半端じゃないけど」
「確かに……、このなりで歩いて登場するのは間抜けよね。やってみるわ!」
そう言ってリアンはすたすたと家の外まで歩いて行った。デュナミスのお陰で、まだ杖が必要だった足の怪我もすっかり良くなっている様だ。
気付くと服の背中は羽が出る様、雑に切られていた。苦しさで覚えていないが恐らくハルがやってくれたのだろう。




