帰還
ここには居られない。もう、一刻も早くここから逃げなければならない。リアンはそう決心した。このまま、森へ降りて安全な場所で朝を待ち……いや、夜のうちに森を抜けてしまわなければ気付かれてしまうかも知れない。森へ降りられるルートは前もってルシェに聞いておいた。しかし寝間着のまま……剣も何もない状態で夜行性の獣にでも襲われたら……。
ギッ……!
「!」
今後の行動をどうするべきか考えを巡らせていると、ふいにハルは椅子を引いて立ち上がった。椅子の足と床の擦れる音にリアンは肩を竦めてハルの様子を伺う。
目を瞑ってハーッと長い溜息を吐き、唇に押し当てていた指で目頭を押さえると……、次に開かれたその瞳はいつものハルに戻っている様だった。
そして机の上の何かを掴み、立ったままさらさらとノートに何かを記した後に部屋を出て行った。
ハルが寝ているところを見た事がないリアンは失念していたが、そりゃハルだって普通に睡眠をとるだろう。どうしたものかと考えているうちに月もだいぶ傾いていたのでハルは一階の寝室へ行ったと思われた。
チャンスだ。
ダナ教に何か手土産を持って帰れれば、散々だった初任務も一気にお手柄になるかも知れない。そう思ったら、今後の行動に慎重になって動けなかったリアンは大胆にもその窓に手を掛けた。まさか開く筈もないと思っていたのだが、思いがけずその窓がスッと横に滑り、リアンの心臓は大きく跳ねた。
本当に……、お手柄になるかも知れない。ダナの加護をもらい、田舎の妹達に良い暮らしをさせてあげられるかも知れない。本当の目的も、果たせるかも知れない。
リアンはそのまま窓を開け、中へ侵入した。
のんびり家探しをしている時間はない。とりあえずさっきハルが何かを記していたノートを引っ掴む。他にも机に出しっぱなしになっていた本やらノートやらを次々抱える。椅子に掛けてあったひざ掛けでそれをまとめて背中に括り付ける。無いよりは武器になるだろうとペーパーナイフも一緒に頂いた。
自分でも驚くほどリアンは迷いなく行動し、崖の上の家を出た。この足で野生動物に襲われたらそれまでだが、もう他に選択肢はないのだ。足が痛んで歩けなくなっても終わり。もちろん街へ戻る前に気付かれて追いかけられても終わり。とんだ博打だ。
だがその博打に、リアンは勝った。
日の昇る頃、一晩中歩いてどうにか森を抜けたリアンは、ふらふらになっていたところを朝早くから店の仕込みをしていた街のパン屋に介抱されたのだ。そして親切な事にそこの二代目がダナ教本部まで馬車を出してくれた。馬車と言っても作業用の、仕事の道具がたくさん積まれた荷台に一緒に乗せてもらっただけだが、足に限界を感じていたリアンには十分だった。
「ずいぶん疲れてる様だが本当にダナ教本部へ直行で良いのかい? まだ時間も早いし対応してもらえないかも知れないぞ?」
自分はダナ教の一員であり、もしかしたら今とんでもないお土産を持っているかも知れないのだ。更には崖の上から追手が来る可能性だってまだゼロにしてはいけない。そうは言わずにリアンは短くこう言った。
「良いの。お願い、急いで欲しい」
「……はいよ」
リアンの切羽詰まった様子に気付き、パン屋の二代目はもうそれ以上言わずに馬に鞭を入れてくれた。
「ありがとう」
ほどなくして、馬車は街の中心部へと入った。いくつものメインストリートが交差する時計塔広場だ。そこにある大きな時計塔の天辺には立派なダナの彫像が飾られており、静かに街を見下ろしている。
「アールヤ」
それを見た二代目が呟いた。
「アールヤ」
リアンも続く。
見上げる度、初めてこの街に足を踏み入れた日の高揚感を思い出す。
当然この辺りは敬虔な人間が多く住まうので、どの家の扉にも立派な黒い翼が掘られたり描かれたりしていて、中には金で縁取ってあったり、宝石が埋め込まれていたりする物もあった。リアンはそのどれもが都会的でカッコ良いと感じ、きっとここで立派な兵士になる。そう誓った。
ここは世界の中心なのだ。
そろそろダナ教本部の教会も見えて来る。ここまで来ればさすがに気付かれていたとしても追っては来ないだろう。崖上の悪魔にとってここは敵の本拠地な訳なのだから。
と、二代目が馬車を道の端へ誘導した。すぐに朝靄の向こうから蹄の音が聞こえて来て、リアンがひょいと荷台から確認すると、それは作業用の荷馬車とは大違いの立派な馬車だった。ダナ教調査団の遠征馬車だ。
また二代目がアールヤと言って頭を下げたが、御者は真っ直ぐ前を見据えたまま一瞥もくれずにすれ違って行く。これから誇り高い任務があるのだろう。二代目も気にした様子はない。
「いつ見ても立派な馬車だな」
「……そうね」
リアンの田舎にも何度か来た事があるが、田舎には不釣り合いなその立派な馬車が来る度、子供も大人も有り難がった。それはそうだろう、災害や飢饉の時には救援物資を届けてくれるし、ダナの加護を受けるに相応しい人間も探して保護してくれるのだから。
「でも、これだって立派よ」
だが、リアンはあの馬車が好きではなかった。
「はは、ありがとうよ。そんな事言わなくてもちゃんと送ってやるさ」
そんなつもりではなかったが、二代目はまた馬に鞭を入れてくれる。
「ほらよ、降りれるか?」
そしてとうとう馬車は教会の入口の真ん前へ止まった。
「だいじょう……ぶっ……うっ! いたたた……」
「言わんこっちゃねぇ」
手を借りながらどうにか荷台から降りると、その様子を見ていた教会の護衛の一人が近付いて来る。
「おい、まだ祈りの時間までだいぶある。こんな早朝に面会の約束でもあるまいし……ん? お前……リアン! リアンじゃないか! 生きていたのか?!」
幸い、その日の護衛はリアンの知った顔であった。
「良かったなぁお前! 崖上の悪魔捕獲作戦で初めて犠牲者が出たって大騒ぎになったんだぞ?」
「は……? 崖上の悪魔捕獲作戦? じゃぁあんた、ダナ教の兵士だったのかい?!」
両脇からやいやい言われ、疲れが倍増する。
「生きてました。ダナ教の兵士でした。とにかく早く中へ入れて。隊長が来る時間まで待つけど……出来れば伝えて欲しい、崖上の悪魔の持ち物を奪って来たって」
「おいおい悪魔の持ち物だって? じゃお前悪魔と接触して……」
戯言をと一蹴しようとした護衛だったが、背中に括り付けていた物を大事そうに前に抱え直し、ギラつく目でそう言うリアンが嘘を言ってるとは思えなくなった。二人の男は黙り、護衛は分かったとリアンを中へ入れる。




