第九話 清洲の町にて
「ここが、清洲の町……」
「随分と賑やかだなぁ。俺、こんなでっかい町ははじめてだぁ」
夕刻になって辿り着いた、かつて信長公の城下だった町は、この時間でも未だ賑わっていた。よく見ると、バテレンまでもが歩いている。
「久々に宿が取れそうじゃな!」
藤左衛門の声が弾む。その言葉の通り、一同は町の外れにあった宿を問題なく取ることが出来た。
「どうにか会議にも間に合いそうだでのう」
宿の縁側で脚を伸ばした藤左衛門が、一息つく。そして、ふと横に置かれていた碁盤に目をやった。
「伊吹の山に赴任する前は、よく打っていたのじゃがのう」
富太が笑う。
「俺、碁の打ち方は殿に教えて貰ったけどよぉ、すぐに勝てるようになっちまったんだ」
思わず又五郎が目を丸くする。
「恥ずかしながら、下手の横好きでなあ。荒須殿は、碁は嗜まれるかね」
「ああ、懐かしいものだ」
「よければ、一局」
「……ああ。悪くないな」
宿の縁側の隅に置かれていた碁盤を引っ張り出して、藤左衛門と又五郎は、静かに碁を打ち始めた。
苛烈で気まぐれだった、かの主君。織田信長。
数年前までは、よく自分を招いては囲碁をさせていた。接待囲碁など一瞬で見抜く眼力と無類の強さを持ちながらも、本気で打ち合うと、時折ころりと負ける、不可思議な主君だった。
一方、限りなく親切で、実直な男との一局。
人の良さが石の運び方にも出るのか、お世辞にも強いとは言えない。だが、ほんの少しの粘り強さも持ち合わせている。
パチリ、パチリと碁盤の上で鳴る音が、死への足音に聞こえる。その音が、止まった。
「荒須殿の勝ちじゃよ。やはり、強いのう」
「……だが私は、勝てなかったのだ。勝たねば、ならぬ相手に」
藤左衛門が、思わず目を瞬かせて又五郎を見る。
「……知己に、会ってこねばならぬ」
「明日の夕餉までには戻ってこられそうかのう?」
至極普通のことのように、藤左衛門が問い返す。思わず言葉に詰まり、視線を逸らすと、手紙らしきあれこれを抱えたファビオが、こちらにやってくるのが見える。
「南蛮の美味い茶など淹れて、待っておるでな」
相変わらず人の良い笑顔だ。絶対に、彼らだけは、巻き込まないようにせねばならない。
「ああ。ありがとう」
努めていつもと変わらぬ表情を作り、又五郎は宛がわれた部屋へと戻っていった。
翌朝になり、ファビオが、起きてきたスエを呼び止める。
『スエ、ゴローを探した方が良い』
「えっ」
『……何となくだが、嫌な予感がするのだ。あの男は朝早く出かけた。アンブロージョに、後を追うように言いつけてある。……あの男はおそらくだが、この度の大評定に何か関わりがあるのだろう。城の方へ歩いていくのを見た』
「なんと……」
思わずスエが息を呑む。
『だが、スエがいないと通訳は立ちゆかない。会議の刻限には戻ってくるように』
ファビオが言う。頷いて外に飛び出し、スエは大通りを駆けだした。
◇
半泣きの童女が供回りもつけずにひとり、人の行き交う路地に面した軒先に佇んでいる。
思わずスエは、駆けていた足を止めた。
「……あの、どうかなさったのですか?」
「せっかく清洲まで来たんじゃ。母上に簪の一本でも買うてこようと城をこそりと出て参ったんじゃが、帰り道が……分からなくなってのう」
自分よりは年下らしいが、よく見ると、びっくりするほど良い仕立ての装束を身に纏っている。清洲の大評定に訪れたどこぞの大名の娘だろうか。
「私、これから城に行くところですので、宜しければ、共に参りませぬか」
「なんじゃ。おぬしもどこぞの家臣の娘か。それにしては少々、地味じゃのう。じゃが、百姓娘には見えぬなあ」
その、あまりにもあけすけな物言いにスエは目を丸くする。
「私、信長公の薬草園で働いておりまして……」
「なに、薬草園? 何じゃそれは……」
スエがいつも懐に入れていた、蜜蝋で作った唇用の膏薬を取り出すと、童女の目がきらきらと輝く。
「それはどう使うのじゃ。やってみせよ!」
「は、はい。こうして、唇に塗るのです」
「唇に?」
「私、すぐに唇が荒れてしまいまして……紅などは持っておりませんが、これだけは手放さずにおります」
「なんと、この茶々も唇がすぐに荒れてしまって困っておった。それをわらわの唇にも早う塗るのじゃ!」
問答無用で命令してくるところを見ると、この『茶々』と名乗った童女は、相当に偉い家のご息女なのだろう。
思わず地面に膝をつき、その童女の唇にそっと、薬草園で作った蜜蝋を薬指で塗ってやる。
「こうして、上唇と下唇を合わせて……」
「ふむ……うむ……」
「舐めないようにお気を付けてくださいませ。毒ではありませぬが、せっかく唇を潤すのですから……」
「なるほどのう。……おお、なんだか唇がみずみずしくなってきた。すごいのう、これは!」
「薬草園に帰れば、また作れますゆえ、使い差しですが、それでよければ……差し上げましょう」
「なんと!」
ぱあっと明るい顔になり、茶々は懐からよく磨かれた銅の小さな鏡を取り出した。
「ふふ、そなたの薬草園とやら、いつかこのわらわが佳く使ってやろうぞ。それで、わらわも母上みたいに、とびっきり美しくなるのじゃ!」
跳ねるように喜びながら、茶々がにいっと笑う。
「伯父上のものなら、わらわが貰っても差し支えはないではないか」
「伯父上?」
「織田信長上総守は、わらわの伯父上じゃ」
スエが驚愕のあまり声を失った。
「本能寺で突然亡うなったと聞いたときは、わらわも母上も驚いたがのう。じゃがな、いつかは、そうなるさだめだったと、母上は言っておった」
「それは……何故ですか?」
「伯父上は、わらわの兄上と父上を討った。わらわが幼き頃故、父上の大きな手や、兄上が歌ってくれたわらべ歌、そのくらいしか記憶にはない」
清洲の城が見えてくる。
「それでも、覚えているということは幸せなことにございます。私は、何も、知らなくて……寂しい思いをしたことも、ございますから」
「なんじゃ。そなたの父母は去んだのか」
「ええ。私の父はバテレン、国に帰る途中で船が沈んだとのこと。そして母は私を産んだ折に……」
「ほほう。そなたバテレンの娘か。道理で肌が妙に白いと思ったわ。そんなに美しい白い肌は、我が母上以外に知らぬぞ。羨ましいものじゃ」
自分の白い肌が美しい、などと言われたことがなかったスエが、どう答えて良いのやら言葉に詰まるが、茶々は勝手に話を続けてしまう。
「我が母上はすごいんじゃぞ。わらわを含めて子を何人も産んだのに、未だ数多の武将からの恋文が絶えたことがない美しさ。此度の大評定、母上の再婚相手も選ばれるとの噂……」
城の入口の警護の兵士達に、大きく胸を張って、茶々は言う。
「よく勤めよ。この娘はわらわの新たな侍女候補である。通せ」
「か、かしこまりました」
自分よりも年下なのに、何故か妙な威厳がある。織田家の血の成せる何かなのかもしれない。
「再婚相手、でございますか」
「うむ。噂では、鬼か猿かの二択であるということよ」
「鬼か猿?」
「鬼柴田こと柴田勝家公、猿こと羽柴秀吉公……わらわの母上には、どちらが相応しいか……どうしても、この目で確かめたくてな。こうして無理を言って付いてきてしもうたのじゃ」
そしてひとつ、溜息をつく。
「母上は、父上のことを一日たりとも忘れたことはないというのに、これも戦国の女のさだめというやつかのう」
茶々に手を引かれ、清洲城内へそのまま入ってしまう。
又五郎はどこにいるのだろうか。
知己に会うといっていたが、それは一体誰なのだろうか。ファビオが案じていたのは、どういうことなのだろうか。とにかく、城に入って見ねば何もわからない。
それにしても、自分はあまりにも、又五郎のことを知らなかったということに、今更になって気付く。
「……女のさだめとは、やはり、そういうものなのでしょうか」
「なんじゃなんじゃ。何ぞ悩みでもあるのかや? わらわは伯父上とは違って寛大で優しい故、聞いてやっても良いぞ」
スエが思わず小さく苦笑し、呟いた。
「……私の恋うる方にはかつて、奥方様がいらっしゃって」
「ほう、先妻か。よくあることよな」
「病で、儚くなってしまったとのことですが……」
茶々が、スエの瞳を覗き込む。そして、問う。
「……鬼柴田めが母上に言っておった。忘れなくていい、と。猿めは言った。忘れさせてさしあげよう、と。おぬし、どちらを信じる?」
思わず言葉に詰まるスエの横で、茶々が襖を勢いよく開けた。
部屋の中にいたのは、抜けるように白い肌、ぬばたまの如く艶やかで黒く長い髪の、声を失うほどに美しい、一人の女だった。
まるでこの世の者ではないような、あまりにも美しい女性を前に、スエは思わずその場で平伏するのも忘れて立ち尽くす。
「母上! 清洲の町で少々道に迷ってしもうてな。この者が助けてくれたのじゃ!」
立ち尽くすスエの隣から、ぱたぱたと年相応の足音を立てて茶々がこの『母上』の膝元へ飛んでいく。
「それはよかった。心配したのですよ」
美しい紅い唇が柔らかく動く。世の中の母親というものはみな、こんなにも美しいものなのか、と一瞬思いかけるが、おそらくはこの女人が別格なのだろう、と我に返る。
茶々が信長公の姪であるならば、この目の前にいる女性は、信長公の妹か何かに相当するのだろうか。
「そなた、名は?」
「は、はい、スエと申します」
茶々が悪戯っぽく言う。
「なんでも、先妻のいた男に恋などしておるとのことよ。可愛かろう?」
「それはそれは……羨ましいこと。恋など、もう何十年も前に一度だけしたっきり。わたくしの名は市。織田信長上総守の妹にて……」
慌ててその場で平伏し、
「た、大変失礼致しました。お茶々様には良くして頂きまして」
というスエに、世間では『お市の方』と呼ばれるこの茶々の母が、呟く。
「ここに呼び出されたと言うことは、わたくしもとうとう誰ぞの褒章とされる、ということに他なりませぬ。……ゆえに、かつての愛や恋など、忘れた方が良いのでしょう」
スエが思わず頭を上げ、声を上げる。
「いいえ、いいえ! 決して消えぬものを忘れることなど、できないこと。忘れなくても良いのです」
そして慌てて再度平伏する。
「し、失礼致しました。さ、差し出がましいことを、申してしまい……」
「いいのですよ。そう、忘れることなど、できない。それならば、忘れなくても良い、と言ってくれる者が良い。なんとまあ、自明の理であることでしょう。……スエとやら、そなたの言葉にはいつわりがない。そして、わたくしの茶々をここまで連れてきてくれたことに、礼を言いましょう」
「いつかわらわの侍女として取り立ててやろうぞ。どこの家中の者じゃ?」
そこに、刻限を知らせる鐘が鳴った。茶々が言う。
「大評定じゃ」
スエが慌てて立ち上がる。
「通訳を、せねばならぬのです」
「通訳?」
自分は信長公の命によって作られた伊吹山の薬草園から来たこと、普段はバテレン達の通訳を務めていることを、スエはお市の方に手早く話す。
「会議の末席に加えていただきたく参った次第故、遅参しては一大事です」
「それならば急ぎなさい。次の鐘が開始の合図。まだ間に合いましょう」
「ありがとう存じます」
「茶々はそなたを大いに気に入っております。またいつでも来るように」
「は、はい!」
額を畳に擦りつける勢いで平伏し、スエは早足に城中の廊下を駆け出した。




