第七話 さしも知らじな
「本当に、危ないところを助けて頂いた。そこのおぬし、名は?」
「……荒須又五郎と申す者にて候」
「ほんにすごい腕じゃったなあ。吾輩が一文無しでさえなかったら、召し抱えたいところじゃ」
「恐悦至極の至り」
関ヶ原を抜けた途端、そこにいたのは、先程助けたばかりの京極高次の小さな一団だった。小さな廃寺に案内され、一同は腰を降ろす。
「こんなに腕の立つ護衛を持てるとは、そなた、もしやさぞかし名のある……」
「いやいや、そんなことはなくてのう。それがしの名前は中泉藤左衛門。信長公の持つ伊吹山の薬草園の奉行でしてな。織田家の家臣とはいえ、吹けば飛ぶような末席の末席でござるよ。ゆえに、明智勢に特に恨みもござらん。ご安心なされよ」
「薬草園? 信長公はそんなものまで所有しておったのか」
少しばかりのんびりおっとりしているところは、二人ともよく似ている。
「そのバテレン達は? 吾輩の母は熱心な信者であったが……わけあって吾輩は洗礼などしておらんでなあ」
「薬草園で働いている者達じゃよ。南蛮渡来の薬なども、よく調合してくれてな。それを、信長公にお届けしておったのじゃ。それより京極殿はこれからどこへ?」
「若狭国に住まう妹のお竜の元へ行きたいが、山崎でその妹の婿殿が戦死してしもうてな。若狭の辺りもきっと、あの猿の目が光っておるであろうなあ。いっそここは越前の柴田殿の元にでも逃げ込もうかと思う次第じゃ」
「柴田殿ならおそらく清洲に来られるが、当然、羽柴筑前殿もおられるだろうしのう」
「なんじゃと」
「清洲で、信長公亡き後の大評定があるときいてなあ。薬草園はどうなるのか、誰ぞに訊こうと、こうして道中を急ぎ訪ねておるんじゃが……」
京極高次が考え込む。そして、ぽつりと呟いた。
「『お偉い』皆の目が清洲に向いている間に、急ぎ北ノ庄城まで行って、柴田殿の帰りをお待ちし、恭順する意を述べるのが一番かもしれぬな……柴田殿の治める地ならば、猿の目は堂々とは入ってこぬゆえ」
「なるほどのう……」
腰を降ろした京極高次が、溜息をつきながら言った。
「あの猿めは吾輩の可愛い妹を変な目で見るゆえ、どうも好きになれなくってなあ」
藤左衛門が目を丸くする。
「羽柴筑前殿がなかなかの女好き、という噂は聞いておったが……」
「おかげで、思わず日向守殿の誘いに乗ってしまったというわけじゃ。婿殿と一緒にな」
又五郎が、笠の下で思わず苦笑を噛み殺す。
「とにもかくにも、命あってのなんとやら。助けてもらったこと、感謝する」
「越前は寒いと聞く。ああ、そうじゃ」
藤左衛門がスエに耳打ちする。スエが富太に、
「唐辛子は持ってきていますか?」
と聞いた。隣で控えていた富太が、ぱっと顔を上げて言う。
「偉いお侍さん達、寒いところにいくんなら、これを持って行くといいよぉ。すり潰して、手や足の裏に塗るんじゃ。ぽっかぽかになるでよぉ」
「何と」
「伊吹の山の冬は厳しいでなぁ。慣れておるんじゃ」
伊吹山の気候に慣れた彼らといえども、背丈以上に雪が積もる真冬は山中を降りて、麓にもうひとつ建てた礼拝堂で暮らしていたが、それでも伊吹周辺の冬は厳しい。
唐辛子は、そんな暮らしに備えて、薬草園でも多めに育てて常備していたものである。スエが唐辛子の入った袋を京極高次に手渡して、言った。
「いつかご運が開けることもございましょう」
少しばかり懐かしさを感じさせるその言葉に、又五郎が目を閉じる。
「かたじけのうござる。何から何まで良くして頂いた。吾輩に、いつかこの恩を返すことが出来る時がくればよいのじゃがなあ」
そして、供回りの武士達を促して立ち上がると、又五郎を見て、名残惜しげに言った。
「本当に、金銀さえあれば雇っておったよ」
「光栄にござる」
廃寺の暗がりに腰を下ろし、笠を深く被ったまま静かに答える。
「きっと貴殿は名のある侍であろうが、まあ、詮索するのも野暮というもの。藤左衛門もよき主じゃ。吾輩がいうのも何じゃが、よく仕えよ。……でも、気が向いたら、そうじゃなあ、越前で待っておるでな」
屈託なく笑い、唐辛子の袋を大事そうに抱えながら、京極高次とその一行は廃寺を出た。
「それでは、吾輩達は一足お先に」
「気をつけていかれよ!」
◇
こうして一行を見送った後、又五郎達はそのまま、この廃寺で一晩過ごすことにした。
「明日には清洲の城下まで着くと良いがのう」
富太が又五郎の包帯を取り替えて言う。
「膿みも引いてきたし、もう血もそんなについてないなぁ。この分だったら、もうすぐ包帯を巻かねぇでもよくなるよぉ」
「それは良かった。知己に会うのじゃろう?」
「……まあ、そうだな……」
スエは堂内に転がっていた大きな桶に湯を張り、アンブロージョの指示の元、様々な薬草をその中に入れた足湯を二人で運ぶ。ふと、アンブロージョがスエに聞いた。
『スエは、人を、愛したことはあるのか?』
『……愛する?』
『デウス様の仰る愛とは違う、もっと身近にある愛だ。恋ともいう』
『恋……人を、恋うることを、そう呼ぶのですね。ですが、私にはわからないのです』
『今のスエの心には、火が灯っているように見える』
『火が……ええ、きっと、灯っています。でも、私には、それをどうすれば良いのか……分からないのでございます』
だがしかし、恋、という言葉に、びっくりするほど自分が納得している。アパシオナール、という、遠い異国の言葉が、胸の中でほころぶように花開いていく。
『あの男は、ゴローは……いつかスエを、必要とする日が来る』
アンブロージョは、いつの間にやらスエの、スエ自身でもよく分からない感情に、気が付いていたらしい。
思わず耳まで真っ赤になるが、年齢も出自も不詳の、大柄なイエズス会のバテレンが、そんなスエを見て、口元だけでそっと笑う。
『ど、どうすれば、良いのでしょう』
『近くにいてやるといい。如何なる時も』
『如何なる時も……』
そこに、富太と藤左衛門がやってくる。
「良い香りじゃなあ」
「ヨモギと、いつもの『ろすまにいにょ』だ」
富太は既に、香りだけで大体の薬草を嗅ぎ分けることもできるようになっていた。
「ファビオは?」
「向こうの部屋で手紙を書いておるよ。ささ、荒須殿。足湯の準備が出来ましたぞ」
又五郎が立ち上がる。
「ヨモギか。伊吹の山では良く採れると、古の和歌にもあったな」
「名産でしてな。しかし荒須殿は、和歌の心得が?」
「……主君に、習わされたのでな。小倉色紙は茶道の席で人気があったものよ」
「そういえば、光秀公は公家相手の接待などもしておったような……。なるほどのう」
「『かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを』だったか」
そして、桶を持ってきたスエの隣に腰掛けて、脚を桶の湯につけて、息を漏らす。
「さしも知らじな、とは、どのような意味なのでしょう」
スエが思わず問いかける。
「『これほどまでとは思わないであろう』ということよ」
「……つまり、『これほどまでに、思いが、燃えているということを、あなたは知らない』……そういうことでしょうか」
「さすがはスエ殿、言語に通ずる者は、飲み込みが早いものだ」
「い、いえ、その……」
己の胸の中にも、『アパシオナール』の花が燃えている。今、まさに。
「よ、良い歌だと思いまして。そ、その……足湯、お湯加減の方はいかがでございましょうか」
「ちょうど良き按配よ」
言えない気持ちを胸に押し隠すのは、少しばかり苦しくもあったが、心地よさげな顔で、脚を湯に浸している男を見ていると、少しばかり幸せでもあった。笑顔が零れるスエを見て、又五郎が言った。
「よければ、共に」
「わ、私がですか。宜しいのですか」
「今日は無理に走らせてしまったゆえな」
「いえ、無理なんて、そんな……」
「嫌でなければ、じゃがな」
「嫌だなんて、そんなことはございませぬ!」
慌てて裾を絡げて、又五郎の隣に座り込み、素足をゆっくりと湯に浸していく。
己の脚の小指が、つ、と男の素脚に触れる。声にならない声を押し殺し、
「良き湯に、ございますね」
やっとのことで、それだけを口にする。
「うむ」
又五郎も目を細めて、深く息を吐く。
「……随分、遠くに来たものよ」
己の実の娘ほどに年若い、心優しく賢いこの娘が自分を見上げる瞳の中に、一輪の花が咲いているように見える。
一介の名のある武将となっても後添いも持たないほど愛していた、あの亡き妻が若かりし頃にも、自分を見つめる瞳の中にはこんな花が咲いてはいやしなかっただろうか。
何故、今になってそのようなことを、思い出しているのだろう。
それが、何を意味するのか、知らぬ歳でもなかった。
思わず廃寺の天井を見上げ、又五郎はもう一度、息を吐く。
踏み込むな、決して摘んではならぬ花だ、と頭のどこかで鐘のように警戒音がなる。
これからゆくのは修羅の道であり、終着点は、死に他ならないのだから。
修羅の姿の自分など、そして自分の屍など、何があろうとこの娘には見せたくはない。
それにしても、人生とはままならぬものばかりである。
裏切り、裏切られ、落ち延び、修羅となり、そして復讐の果てに屍となることが約束されている最期の旅路が、こんなにも心地よいものだとは、夢にも思わなかったのである。




