第四話 夜の薬草園
相当な疲労の蓄積があったのか、荒須又五郎と名乗った武士は、館の一室で昏々と眠っていた。
「気が休まる暇もなかったのじゃろうなあ……」
話から察するに、明智軍の落ち武者、ということになるが、一介の武士にしては所作に不思議と気品がある。
顔の傷は人相を大きく変えていたが、自分とおおよそ同じかまたは少し年上なのだろう。大将である光秀の供回りなどを勤めていた男かもしれない。
そんなことを考える藤左衛門の服を、隣で又五郎の丈に仕立て直しながら、スエが微笑む。
「アンブロージョの薬草茶は、ほんによく効きます」
「流石じゃなあ」
アンブロージョが、軒先から聞く。
『ゴローの様子は』
いつの間にやら、バテレン達の間で、この武士の名前は『ゴロー』という呼び名で定着してしまったらしい。そういえば、富太のことも、彼らはなぜか『トミタ』ではなく『トム』と呼んでいる。
『おかげさまで、ゆっくり休んでおられますよ』
富太が薪を割る音が微かに聞こえる。もうすぐ夕刻だった。
夕刻の食事は礼拝堂の一室で、バテレン達と食卓を囲んで食べていた。
「本当に、不思議な庭であることよ……」
彼らの食前の祈りが終わり、藤左衛門とスエ、富太、そして又五郎が、椅子に腰掛ける。
「まあ、宗派は違えど同じものを食うのじゃから、同じ場所で、な。まあ、他ではそうもいかぬようで……ああそうじゃった、清洲までいく道のりじゃが、伊勢の近くは出来るだけ通らぬほうが良かろう。前にファビオが言っておったが、彼らの属すイエスズ会と、かの伊勢神宮は、流石に何かと揉めやすい間柄であると聞いておってな……」
「なるほど」
「そういった複雑な、あれやこれやとは無縁の庭であることだけが、ここの取り柄じゃったのだがなあ。しかし、会議では誰が来て誰に声をかければ良いのやら……羽柴筑前殿、柴田殿、丹羽殿……あとは、信長公のご子息殿達、池田殿や滝川殿、徳川殿、堀殿は、来るのであろうか、行って見ねばわからぬなあ……」
指を折りつつ考え込む藤左衛門の横で、又五郎が目を細める。
「此度の羽柴筑前殿は大手柄、ということになっておるんじゃろうか。故郷はやや近いとはいえ、ああも出世されるとさすがに声がかけにくくてのう。わしには勇猛さも知恵もない。どっちかがあれば、どうにかなったんじゃろうが……」
又五郎が言う。
「薬草などに興味を示しそうな武将には、拙者に心当たりがある」
「何と」
「徳川殿である。……光秀公を討つ戦には携わっておらぬゆえ、会議に来るかは、少々わからぬが」
自分が本能寺を襲撃した際は、堺にいたはずである。のんびりしているように見えて機敏であり、部下にも、そして天運にも不思議と恵まれた武将だった。
「健康のための鷹狩りを欠かさず、薬も自分で調合するほど詳しかった……と記憶しておる」
「清洲なら徳川殿のおわす三河とも近い。何とかなるやもしれんなあ」
「北条や、武田の遺臣達の動き次第ではあるが……あのあたりが動けば、徳川殿も動かざるを得ないゆえ」
世の流れがわからない。それが、織田家重臣だった自分が今こうして部下の一人も持たない流浪の身になったのだということを、ひしひしと感じさせる。
「つまり『今は危急の時』と突っぱねられてしまいかねない、ということじゃな………」
流れ着いたのがこの薬草園で本当に良かった、と又五郎は大きく息を吐く。
そして、清洲会議で自分が行おうとしている事柄に思いを馳せる。
成功するだろうか。わからない。成功しても、しなくても、自分はきっとそこで命を落とすだろう。
この穏やかな時間は、有為転変の激しかった人生の降りたはずの幕の後に、主君弑逆という大罪を犯した自分に、神仏、もしくはデウスとやらが気紛れで与えてくれた『ほんの少しの猶予』なのかもしれない。
◇
食後に、夜の薬草園を見回る、と申し出たところ、スエが灯りを取ってきてくれた。そのまま、二人で歩き出す。
「懐かしいものよ」
「懐かしい?」
「拙者には昔、妻がおってな。拙者が大病を患って寝込んだときも、朝から晩まで介抱してくれた」
「良き奥方様だったのですね」
「その看病疲れか、儚くなってしまった」
儚くなる。それは、どちらかといえば公家が使うという『亡くなる』を表す言葉である。
「そなたのように、真面目でよく働く女子であった。娘や息子は、そうだな、そなたと同じような歳であった。皆で、もっと、共におることができたら、拙者の生き方も、変わっておったやもしれぬな……」
少し、スエの胸が詰まる。
「ですが、私は、荒須様にお会いできて嬉しゅうございます」
「……そうか」
「叔父上も、富太も、バテレンの皆も、きっと」
「そうだと、嬉しいのだが」
山崎合戦で落ち延びたときのことを思い出す。この世の全てが自分を見捨てたような絶望感、空虚な心にうずまく羽柴筑前こと、秀吉への激しい憎しみ。
デウスの教えを心から信じていた娘は、死後に『ぱらいそ』なる場所へ迎えられることを祈っていた覚えがあった。
きっとその『ぱらいそ』なる場所は、この伊吹山の庭園のように、静謐さと優しさに満ちた、薫り高い場所なのだろう。
「清洲では、何をなさるのですか」
「……知り合いに、会わねばならなくてな」
その『ぱらいそ』に、自分は行くことができない。最後の最後まで、血に塗れて生きていかねばならぬのだ。しかし、
「スエ殿をみていると、妻や娘を思い出す。それに、こんな拙者にも、幸せな時期があったのだ、ということを」
涼やかな夜の風に、薬草の香りが混じる。手にした灯りのもと、様々な草花と共に、キキョウの青い花が揺れている。
(……このまま、ここで、名もなき者として生きていけたら)
桔梗の花は、明智家の家紋でもあった。それが風に揺れている様は、まるで自分の心の内を表しているかのようである。
かぐわしい花々や草木が、ここではそんな心の奥に、自分には許されぬはずの安逸を囁きかけてくるようだった。
そんな気持ちを振り払うべく、
「出発は、いつに?」
又五郎は、聞く。
「……明日には出ようかと。荒須様のお薬も持っていきましょう。まだ、完全に治っているわけではないのですから。それなのに、護衛などというお役目、ありがたく存じます」
「かように心喜ばしい日々は、もう何年ぶりかもわからぬ。こちらこそ、感謝せねばな。……明日からの旅も、宜しく頼む」
見回りから帰って、スエは明日からの旅志度をはじめた。流行りの歌ひとつ知らない身ではあったが、バテレン達のよく歌っている『賛美歌』が、鼻歌になって出てくる。
(何故でしょう)
何でこんなに楽しいのだろう。そして、『楽しみ』なのだろう。この薬草園から離れるのは、世間知らずな自分にとって、怖くもあったはずである。それなのに、服を畳む手が踊るようだ。
それにしても、この庭の外に出るのは何年ぶりになるだろうか。しっかりと通訳を果たせるだろうか。その他にも、考える事がいっぱいあるはずなのに、考えは、ひとりの男の方へと集約されていってしまう。
甘いようで、酸っぱいような、でもやはり甘いような、何か。
ぽつり、と唇から呟きが漏れる。
「荒須様」
自分たちの危急を救ってくれた、謎の多い男。歳の頃は今年で五十の叔父よりも更に歳上であろう、髪に白いものもほのかに混じっている男である。
しかし、そのどこか謎めいた中にある、独特の佇まいが、スエには『敬慕に値するもの』に見えた。
敬慕。本当にそうなのだろうか。もっと相応しい言葉があるような気がしたが、それを誰かに聞くのは、少し気恥ずかしくもあった。
この庭のただ一人の女手として長く勤めていたが、それははじめての気持ちだった。それだからこそ知り得ない、しかし本来ならばとうに知っていたはずの言葉。
そういった『とうてい思い浮かばぬ言葉』が、齢十七になったというものの、嫁ぐ予定もない乙女でもあるスエには、あまりにも数多くあった。
「私は、一体どうしてしまったというのかしら……」
叔母が生きていたら、きちんと答えてくれていたのだろうか。叔父や富太に聞いてみたかったが、なんとなく聞いてはいけないような気さえするこの思い、否、想いは一体何なのだろうか。
いつも陶の小さな器に入れて持ち歩いている、唇用の蜜蝋のように、己の体温で、溶けてしまいそうな想い。
スエにはそれが何なのか、一晩中考えてもわからなかった。




