第二話 スエという名の娘
黒い髪に黒い瞳ではあったが、肌は抜けるように白く、顔の彫りも深い。女子にしては背も高く、力も強い。
そんなスエの父はバテレンであったという。
母と通じているのが発覚し、本国ポルトガルへ送り返される途中の船が難破して死んだという。
そして母は、ひとりでスエを産み落とした後の産後の肥立ちが悪くて命を落とした。
神様、それもデウス様というものは、どうやら自分達一家にはあまり優しくはしてくれなかったらしい。
そんなスエの父が唯一遺していったのが、後に長崎で刷られることとなった日葡辞書の草稿の束だった。詳しい話は聞かされていないが、父はかつてその編纂に携わっていたという。
同時期に生まれたばかりの息子を亡くした今は亡き叔母、つまり藤左衛門の在りし日の妻、つねは、スエに乳をやりながら、当時は織田家の足軽だった藤左衛門に言った。
「これも何かの縁。あなた、この子が大きくなったら、父様の国の言葉を教えてやりましょうね。きっと、いつか何かのお役に立ちましょう」
優しい叔母だった。気の小さいところがある藤左衛門を支え、同世代の子どもたちに上手く馴染めなかったスエを優しく見守り育て、文字を教え、そして病で逝った。
(この薬草園に、いてくれたら)
どんなに心強いことだったろうか。たまにそんな、詮無きことを考える。
(ここでは私が唯一の女手。しっかりせねばなりませぬ。この庭で、叔父上とバテレンの皆を支えて、生きていくのだから……)
年の割に大人びた所作と物言いがいつの間にか身についてしまったが、同い年の女子の友を持ったことがないスエにとってそれは、些末なことだった。
藤左衛門は、
「わしに後妻がおればのう……」
と、彼なりに気を遣ってくれるが、
「いいのですよ叔父上。私は皆と居るここの暮らしがとても心地良うございますゆえ」
その度に言ってやるのであった。
その藤左衛門がようやく織田家の家臣の末端として取り立てられた頃、故郷にほど近い岐阜城にやってきていたバテレンが、信長公に、健康のための『ハーブガーデン』の敷設を提言したという。
藤左衛門の故郷は陶の町だった。薬草を保管する容器を作ることが出来、バテレン達の言葉を解すことの出来る姪を持つ藤左衛門に、ようやく白羽の矢が立ったのである。
そして、薬種問屋で丁稚奉公をしていた富太を小使にし、通訳のスエを連れて、藤左衛門たちはバテレン達が集う伊吹山へ赴任した。
バテレン達は思いのほか気さくで優しかった。父もこういう気性だったのだろうか。
『信長公の私的な場所』で日々を草花と過ごし、神に祈り、時々修験道の山伏が迷い込んで来ることもあったが、親切にしてやると感謝され、特別な煎じ薬の作り方や麓の情勢などを教えて貰うこともあった。
そのような、薬効ある草花を育て、少しばかり浮世離れした生活を送る。スエには、それが心地よくすらあった。
唯一無二の通訳ではあるが、たったひとりの女子でもあるスエのために、バテレン達は館に特別な一室を設けてくれた。
事務的な事柄に長けていて、信長公の覚えもめでたいフロイスという名のイエズス会のバテレンとは同郷で文通仲間でもある、この薬草園のバテレン達をまとめる役どころのファビオ。
あまり口数は多くないが、陶器の器にたっぷり薬草を詰めて信長公の元へ運ぶ役目を担っていた大男のアンブロージョ。
この二人をはじめとした他のバテレン達も、ことのほかスエと富太を可愛がってくれた。
そこに、突然の信長公の訃報である。
(これから、どうなるのでしょう………)
一晩中、まんじりともせずに礼拝堂の中で過ごし、夜が明ける。小さな覗き窓から外を見ていた富太が呟いた。
「あいつら、いなくなったみたいだよぉ」
「私、様子を見て参りましょう」
「念のためわしも見に行くぞ。おぬしたちに何かあってはいかんからなあ」
刀の腕こそからっきしだったが、叔父の藤左衛門はとかく親切な男である。実直で、言葉に裏がない。
下克上渦巻く戦国の世ではなかなか立身出世が叶わなかったが、その性根の愚直さと親切さこそは、異国のバテレンらが集う薬草園の奉行にはうってつけだったのである。
おそるおそる礼拝堂の扉を開けて、そっと外に出る。晴れ渡った朝の空に、薬草の香り漂う爽やかな風が吹く。
「あの火縄銃のお侍さん、無事かなぁ。荒須なんとかって名乗っとったけどよぉ」
「きっと大丈夫でしょう。しかし、お怪我などしていたら大ごとです。探してみましょう」
「そうじゃなあ。それにしても、あの明智殿が謀反とは……」
「……叔父上は、その、明智殿とは会ったことがおありですか」
「わしは家臣団では末席のそのまた末席だったからのう。ちらりと遠くからお姿は見たが、顔まで覚えてはおらぬよ。……だが、この伊吹山に薬草園を、と信長公に進言したのは明智殿だったそうでな……」
おっかなびっくり、足音を忍ばせて三人は歩いていく。すると、
「……そこなる三人は、この薬草園の者であるか」
道の外れの方から突如、声をかけられた。
思わず三人同事にびくりと飛び上がらんばかりに驚き、身構えながら振り返ると、ぼろぼろの服に深い笠をかぶり、火縄銃を背負った例の男が、道の下の窪みに座り込んでいた。
「昨日の……!」
「すまぬが、水を一杯所望する。私……いや、拙者は、三日三晩ほど歩き通しでな。何も飲み食いしておらぬのだ」
男が被る傘の下の顔を明るい場所で見て、三人は息を呑む。年の頃は藤左衛門と変わらないであろう、その男の顔には、いくつもの刀傷が縦横に走っていた。まだ血が滲んでいる傷も、膿みかけている傷もある。
「なんとひどい怪我。これは、昨夜あの者達に!?」
「いや、この傷はそれよりも少し前の……まあ、詳しいことは、言えぬが」
「と、とにかく、薬ならばここには山のようにある。荒須殿、昨夜は危ないところを助けて頂いた。それがしは中泉藤左衛門と申す、織田家臣団の末席の末席を拝しておる者。主君亡くとも受けた恩は返すが道義。どうかこちらへ」
藤左衛門がスエと富太に目配せする。
「私……水と食事と薬を用意して参ります!」
「お、俺も手伝うよぉ!」
スエと富太が同時に元来た道を駆けだした。
それを見送って、藤左衛門は言う。
「いまこの山の下は大変なことになっておるゆえ、あまり、その、問うたりはしないが……」
荒須又五郎と名乗った男が、瞠目した後に苦笑する。
「……織田家の家臣に、貴殿のような気の優しい男がいたとは」
頭をかいて、藤左衛門がはにかみながら笑う。
「吹けば飛ぶような末席じゃよ。あそこは荒武者と智恵者揃いで、いつも身の縮む思いばかりしておったが、信長公にこの薬草園の奉行を任されてのう。しかし、突然京で亡くなってしもうた。それで、どうしたものかと案じておったところにこの騒ぎ。ここも、安全な場所ではなくなるのじゃろうか……」
すると、少し考え込んだ後に、又五郎は言った。
「あの黒装束どもはもう来ないであろう」
「それは何故に?」
「……清洲で大きな会議がある。信長公亡き後の行く末を決めねばならぬ。数多の武将が集う大評定ゆえ、そちらの警護に行かねばならないはず」
藤左衛門が、思わず顎に手を当てて考え込む。
「おお、清洲といえば尾張のあの城ですかな。あそこで大評定が開かれるとなれば……この薬草園をどうするか、どうなるか、誰ぞ上の者に聞くことが出来ればのう……」
その言葉に、荒須又五郎の瞳が一瞬だけ昏く輝いたのにも気付かず、藤左衛門は独りごちる。
「しかし安土の町は今頃大混乱であろうし、またあの黒装束の妙な連中と出くわさないとも限らぬし……荷運びに長けたアンブロージョなら清洲までの抜け道も知っておろうが……。荒須殿、その会議はいつであるかな」
「今月の二十七日らしい」
「この山から清洲まではさほど遠くはない。まだ間に合うか。これでも、末席とはいえわしは家臣団の一員。行ってみるか……」
すると、又五郎が言う。
「……護衛が必要なら、拙者を連れていくとよい」
「なんと」
「顔以外に大きな怪我もない。刀も火縄銃も持っておる故、安心なされよ。今は情勢も定まらぬ危険な時期でもあろう。ひとりくらい、警護の者がいた方がよい。それに、拙者も……清洲には用があってな」
やがて礼拝堂の方から、駆けていった二人が戻ってくるのが見えた。
「荒須様、今お湯を沸かしておりますゆえ、朝餉までもう少しお待ちくださいませ」
「その間に薬を用意するからよぉ」
又五郎が、少し目を遠くして微笑む。そして聞いた。
「ご子息に、ご息女か」
「いいや、小使の富太と、姪のスエといって、まあ、家族のようなものですな。バテレン達も良くしてくれる。我ら三人はキリシタンではないが、それでも皆、仲良くやっておりましてなあ」
藤左衛門が少し自慢げに答えて、又五郎を礼拝堂へと促した。




