エピローグ
病床に伏せっていたルイス・デ・アルメイダ師の元に、豊後から天草まで訪ねてきた三人組があった。高名な医師でもあるこのバテレンは、彼ら一行を快く迎えてくれた。
『……ミゼルコルディアに、有能な薬師と護衛と通訳が来たと聞いているよ。君達だね』
枕元に、見慣れない食べ物が置かれている。茶菓子によく似た、おそらくは甘味であろうそれを口を運んで、じっくりと嚙みしめてから、アルメイダ師は呟く。
『どうも、よくない』
『お加減のことでしょうか』
『否、我が故郷のことでな。……君達は、信頼の置ける者だとあのフロイスから手紙が届いておるよ。だから、話しておこう』
ファビオが、フロイスに頼んで一筆書かせたのだろう。想像に難くなかった。
『ポルトガル商船で、人さらいが行われているという噂がある』
女の通訳がそれを訳して伝えると、男達の表情が変わる。
一人は背中に一丁の火縄銃、腰には刀を下げた、顔に大きな傷がある壮年とも老年ともとれない男、もう一人は大柄の、薬箪笥を背負ったバテレンである。
『我々が治し、癒し、養育した者達が狙われる可能性も、否定できないのでな。特に、親のない子供達が心配でな』
男二人が静かに視線を交わす。
『……それに、これが世の人々、特にこの九州の国主達に知られては、貧しき者達への養育、イエズス会の布教も成り立たなくなる事態になろう』
『どうか、心配なさらないでくださいまし。心配事は身体に毒でございます』
柔らかな声で、静かに、ポルトガル語を流暢に喋る女に、アルメイダ師は問いかける。
『我が国の言語は、どこで習ったのかね』
「私の父はバテレンでございましたゆえ。もう去んでおりますが」
『悲しいことを聞いてしまった。そなた、いや、そなた達、名前は』
黒い髪に黒い瞳、抜けるように白い肌の女が答える。
『荒須スエ、と申します。それなるは、私の夫、荒須又五郎。そして、友で薬師のアンブロージョにございます。どちらも、腕が立ちます故……』
アルメイダ師が微笑んだ。
『では、そうじゃな……頼んでも、良いかね』
スエの通訳に、二人が頷く。
『もちろん、とのこと。ミゼルコルディアの子らに累が及ぶのは私たちにとっても許し難いこと。港を見て参りましょう』
『どうしても、気がかりであった。デウス様の御許に行く前に、きちんと俗世の憂いは払っておきたいのだよ』
アルメイダ師が微笑んで言った。そして手を叩く。バテレン達が、包みを手にやってきた。
『子供たちへの、土産に。そなた達も食べると良い』
アルフェロア、有平糖と呼ばれる甘い砂糖で出来た菓子、カステイラ、と呼ばれる焼き菓子、そして、菓子の包み紙で包まれた、幾つばかりかの金子。
『これは……』
『私は元々は商人。金子の使い方は心得ているよ。デウス様のものはデウス様のもの、王のものは、王のものという。つまり、俗世で使うべきものは、俗世で、な。それに、故郷の同胞でもある商人達がこの愛しい第二の祖国で愚かな真似をしているのは、どうしても見過ごせない。このルイス・デ・アルメイダの最後の頼みになるだろう。聞いてはもらえまいかね』
金子を見て、一度は首を横に振りかけた又五郎が言う。
「……そういえば、妻よ、ミゼルコルディアの館の屋根の雨漏りを直すための費えが、入り用であったな」
スエが嬉しげに微笑む。
「ええ、ええ、皆が喜びましょう」
アンブロージョが薬箪笥を降ろし、一番下の大きい引き出しから、そっと蝋紙に包まれた丸いものを取り出した。
『これを、久々に使うことになりそうだ』
道中の堺の港で手に入れた炮烙玉だった。アルメイダ師が、ちょっと目を見開き、そしてくすりと笑って言う。
『デウス様の粋なお計らいであるな。この国での活動は、苦労も多かったが、楽しいことも多かったのだよ』
アルメイダ師の館を後にして、三人は港の方へと歩き出す。
「刀の腕が鈍ってなければよいが」
豊後に来るまでの間、何度も護衛の仕事を引き受けながら路銀を稼いでいた又五郎が言った。
「きっと大丈夫でございます。しかし、人さらいとは……」
「大事にならぬうちに、手を打つしかあるまいが……場合によっては、密かに、というわけにはいかぬ事態になりかねないな」
それをアンブロージョに伝えると、アンブロージョが目を細めて頷く。
『致し方ないだろう。だが、早く手を打てば打つほど、被害に遭う者も減る』
『ええ、ええ、その通り』
又五郎が息を吐く。そして腕を組んで呟いた。
「こうして策を練るのは、何年ぶりだろうか。まずはじっくりと下見をせねばならぬな」
「頼もしゅうございます」
空は青く澄み渡り、潮の匂いが微かに風に乗って漂う。
尾張の清洲から海を越え、幾多の街道を越えて、豊後までやっとのことでたどり着いた彼らは、イエズス会のミゼルコルディア、互助組織の建てた病院兼孤児院で今は静かに、親のない子供達を養育する手助けをしながら暮らしていた。
そして、ミゼルコルディアの裏手にもまた、彼ら夫婦が手ずから植えて育てているささやかな薬草園が出来ていた。
「伊吹の薬草園の皆は、元気にしているでしょうか」
「もう少し、世が穏やかになればよいのだがな」
そんな夫妻と共に歩くアンブロージョが、無意識のうちに胸元のロザリオを爪繰った。
激動の末に結ばれたこの苦難多き夫婦に、また何やら激動の気配が近づいてくるような気がしたのである。
信長公亡き後、自分達バテレンの庇護者が誰になるのかも、まだ決まってはいない。この先、自分達や、愛すべき仲間達の住まうあの薬草園はどうなるのだろうか。
拭いきれない夜の波のような気配。この、目には見えない運命の流れこそが、この世を動かしてゆく『歴史』なのだろう。まるでそれは、神の意志も、人の意志も、等しく飲み込む大海のようだ。
その闇に呑まれかけたのであろう男と、そんな男を光の下へと連れ出した女が、目の前を仲睦まじく歩む。
ロザリオを爪繰る手を止めて、アンブロージョは二人の後ろで目を閉じた。
あの三千種の薬草の薫る、パライソの如き穏やかで美しく、そして懐かしい伊吹山の地のように、今はただこの目の前を歩く二人に、どうかこの先も平和と幸あれかし、そして光差す方へ道が開けていくよう、静かにひとり、祈りながら。




