最終話 吉が更に
抱き抱えられたまま飛び降りた真っ暗な井戸の底で、再度、強く又五郎に抱き寄せられた。
「スエ殿」
息が荒い。無理もないことだろう。自分を抱えたまま、矢の嵐飛び交う廊下を駆け抜けて、井戸に飛び込んだのだから。
井戸の底に溜まっていた落ち葉で、二人の足元は柔らかだった。
「荒須様、お怪我は」
「大事ない」
「ほんに、ようございます」
「少しで良い。このまま。……今、私は、人に見せられぬ顔をしておる」
ほのくらい古い井戸の中で、男が、抱きしめたスエの白い肌に、顔を埋める。胸の中の『アパシオナール』の花が、別の言葉に変化していく。
「……アモール、でしたか」
「その言葉は」
「愛、といいます」
「……そうか。いつも、先に言われてしまう。そなたには、敵わぬな」
唇に、何かが触れる。お互いに少しかさついて埃っぽい唇が、暗闇の中で静かに合わさる。
スエの目から、ポロリ、ポロリと、涙がこぼれ落ちた。
「いいえ、いいえ。私はやっと、共に生きたいお方を、見つけただけのこと。これからはこうして、いつも、お側におりますゆえ……」
「……私で良いか。もう、否と言われても、放しはせぬが」
もう一度、強く抱きしめられる。
「良いのです」
もう一度、スエを静かに抱き上げる。そして、大きく息を吐いてから、井戸の壁を触る。そこには、人がひとりやっと抜けられるほどの横穴が掘られていた。
長い横穴をようやく抜けると、そこは神社の杜の中だった。
「ここは……」
かつて清洲城に足を運ぶ機会は度々あったが、ここに相当するような社はあっただろうか、と又五郎が考え込む。
「とにかく、いったんどこかに隠れて、身体を休めましょう」
そこに足音と人の気配がする。慌てて近くの木立に身を隠すと、
「ここで、いいんじゃろうか……」
ファビオとアンブロージョを連れ、不安げな顔で左右を見ながら歩いてきた藤左衛門だった。
二人が顔を見合わせてから、木立から飛び出す。
「叔父上!!」
飛び出したスエが、藤左衛門を抱きしめる。又五郎、またの名を明智光秀が、地面に片膝を突く。
「藤左衛門殿……ご無事で、何より」
ぎょっとした藤左衛門が、目を見張る。
「スエ、それに荒須、いや、明智殿………!!」
「いや、荒須でいい。ずっと、貴殿を騙していたことになる。何と詫びれば良いか……」
「た、立って下され。少々寿命が縮むような思いはしましたがのう、全員無事に揃っておりますぞ。富太は今は宿に荷物を取りに行っておりましてな」
「本当に、良かった。私のせいでもしも連座されては、と憂いていたのだ……」
スエの肩に手を置いて、藤左衛門が頭をかいて笑う。
「あの後に何故か、お市の方の娘御の、茶々様に助けられましてなあ」
思わずスエが目を丸くする。
「私達もなのです。唇に塗る蜜蝋を、清洲の町で出会ったお茶々様に差し上げて、それで……」
「なるほどのう」
「あの炮烙玉は?」
スエがバテレン二人に問うと、アンブロージョが答える。
『私がやった。……スエ、ゴロー、無事で、良かった』
「ほんに、皆のおかげです」
ファビオも言う。
『詳しいことはわからないが、多分貴殿は、何かの……さだめのようなものに、打ち勝ったのだと思う。アンブロージョが言っていた。おそらくは誰かへの復讐のために、ここにきたのだろう、と』
『我らの宗派は、復讐を是とはしない』
スエがそれをゆっくり訳す。又五郎が、二人に手を差し伸べた。
「まことに、かたじけない。貴殿らにも、迷惑をかけた」
富太が荷物を背負って駆けてくる。一同揃ったところで、今はもう使われていないであろう古びた社殿の中に入り込み、全員で大きく息を吐いた。
そして、張り詰めていた糸が切れたように、床にへたり込む。
『これから、どうする』
「さすがに、徳川殿のおわす三河まで行く余力はもうないのう……一度、ゆっくり伊吹山に戻って、諸々を整え直した方が良かろうな」
「それがいいだろう。……だが、私にとってあの庭こそは『ぱらいそ』だ。私が帰ることで迷惑はかけられぬ。どうしたものか」
又五郎が言った。すると、ファビオがしばし考え込んだ後に答える。
『……ブンゴノクニがよい』
「豊後国?」
『高名なアルメイダ師の発足させた「ミゼルコルディア」という互助組織の話を、我が友フロイスから聞いている。病を癒す場でもあり、貧しい家の乳児を引き取ったりなどしているらしい。ゴロー、スエ、後は我々が何とかする。……アンブロージョ、案内はできるな』
『もちろん』
「けれど、私がいないと皆、言葉で困ってしまいましょう」
ファビオが珍しく微笑んだ。
『フロイスに、いい通訳を寄越して欲しい、と頼んでみよう』
藤左衛門と富太が揃って言う。
「アンブロージョ、二人を、スエと明智……否、荒須殿を頼んだぞ」
「お前さんがついていてくれれば、大丈夫だぁな」
ポンポンと大男の肩を両端から叩いて、微笑みかける二人の言葉を理解したのか、アンブロージョが大きく頷く。
ふと、そんなアンブロージョが、運ばれてきた荷物の中から碗を出す。そして、言った。
『これを、盃代わりに。きっと、トーザが喜ぶ』
それが何を意味するのか理解した二人が、思わず顔を見合わせる。
「叔父上」
「なんじゃ」
鼻を啜る藤左衛門が、顔を上げた。
「私を……育ててくれて、本当にありがとうございます」
「これからは拙者、いや、この私が守っていくゆえ、どうか安心なされよ」
境内に転がっていた柄杓に、富太が水を汲んでくる。
「ちぃっと寂しくなるけどよぉ。俺ぁ、スエと荒須様なら、いつだって、どこだって幸せになれると思うんだぁな」
碗に、柄杓から水が注がれる。
「それは、よもや……」
「そうだな……まさかこの歳で、再び、夫婦盃を交わす身になるとは」
瞠目する藤左衛門の瞳から、涙が溢れ出る。
「まさか、まさかじゃよ……」
「明智様とはちっとも釣り合いませぬが」
「否、我が名は荒須又五郎。そなた達が愛したこの名で、これからも生きていこうと思う」
スエと又五郎が交互に、盃代わりの碗に口を運ぶ。藤左衛門が言った。
「……桔梗の花は、別の名をオカトトキと言ってな。丘に咲く花、そして木偏を取ると『吉が更にくる』となる、まこと縁起の良い花じゃ」
桔梗、それは他ならぬ明智家の家紋である。
「スエ、そなたはきっと、良き桔梗の一輪となれる。よく励むようにな」
「はい、叔父上。心得ております」
スエが、裾を正して座り直し、静かに深々と頭を垂れた。同事に、又五郎も威厳を隠さぬ所作で、頭を下げる。
『これがこの国での婚姻の誓いか』
ファビオが微笑み、言った。
『さあ、急いで行くといい。良いものを見た。礼を言わねば』
『伊吹山の皆に、宜しくお伝えくださいませ』
「本当に、何から何まで世話になった。私が今、こうしてあるのは、そなた達のおかげゆえ、何も礼がしてやれぬのだけが、心残りだ」
そして、碗を再びしまいこんだアンブロージョと共に社の裏口から出る。
「どうか、叔父上も、富太も、皆、達者で」
目に涙が潤むスエを抱きしめて、藤左衛門が言った。
「風邪などひかぬようにな。スエ、わしの可愛い娘。荒須殿と、幸せになるのじゃよ。もう、誰に遠慮することはない。お前は、お前さん達は、自由じゃ!」
スエが、又五郎の手を引いて駆け出した。
その少し後ろを、アンブロージョがいつもと変わらぬ静けさで追う。
六月の青い桔梗色の空の元、一つの物語が終わり、そしてはじまっていく。
目からとめどなくこぼれ落ちる涙を拭うこともなく、中泉藤左衛門は、彼らの姿が遠く彼方に見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも手を振り続けた。




