第十一話 女の駒
駆けてきた警固の兵達が、信長の五歳の孫、泣きじゃくる三法師を慌てて連れ去っていく。
そして、ものものしくやってきた別の兵達が、羽柴筑前秀吉を守るように取り囲んだ。
それに押し出されるような形で前に出た藤左衛門と、火縄銃を背中に戻し、静かに刀を抜いた又五郎が、対峙する。
「貴殿らだけは、巻き込みたくは……なかった」
「……いいや、わしがもっと早く、気付いていればよかっただけの話じゃよ」
足袋のまま庭に下りて、藤左衛門が囁いた。
「……生きられよ」
「どうしろと」
「わしより、そなたのほうが賢い」
「だが貴殿は、まだ碁が打てる。私には、もう、打つ石がない」
藤左衛門が口元に微かに笑みを浮かべた。
「西洋の『ちぇす』をご存じかな」
「……」
「取った駒を、自分のものに出来てなあ。そのなかにひとつ、女の駒があってな。それが、盤上の色んな場所を、最も自由に駆け巡るんじゃよ。時には、敵の大将をとってしまうこともある……」
「女の、駒が」
スエが、静かに庭へと進み出た。
「……私は、あなた様をもっと知りたい」
「スエ殿」
「バテレンは妻を持つことを許されぬ身。けれど私はバテレンの娘。デウスとやらの道に背く行為の元に生まれました。それ故か、父も母も早くに去んでおります。……でも、私は、生きている。自由に、生きてきたのです。私こそ、罪の落とし子。けれど、これからも私は、自由に、生きていきたい。叶うのならば、あなた様と」
荒須又五郎こと、明智光秀が笑う。
「愚かな私の修羅の道に、たったひと時、こんな花が咲くとは」
スエが言う。
「たったひと時では、私は、ものたりませぬ」
「………」
「一度死んだというのなら、もう一度生きて、生きて私のそばにいてはくれませぬか」
女の駒が、敵の大将をとってしまうこともある。
「自由に、か」
「ええ、自由に」
「私はもう、老いている。それでも良いのか」
「歳をとっていることの、何が悪いというのです」
スエが、ただただまっすぐ又五郎を見据える。煙がたなびく銃を背負い、そして片手の刀を降ろした『明智光秀』が、静かに口を開く。
「……そう、私は焦ったのだ。このままだと、生きているうちに、私が目指す、新たな世などは決して来ない。あの、気紛れな暴虐は、もはやそれを上回る策略でしか止められぬ。そんな折に『手を貸してやろう、さすれば』と、あの男に囁かれたゆえに」
先だっての銃声の轟音で、次々に人がやって来る。その人ごみが、輪になって、庭を取り囲む。
「羽柴筑前守秀吉、人の心を操る猿よ。もう、恨みはせぬ。そなたの口車に乗ったは私の浅慮。……だが、新しい世を見ずに死んだ我が明智一族郎党、そして私を信じて死んだ輩達の血は幾万の金銀よりも高い。いつか、己の栄華を、己の業火で燃やす日が来よう!!」
その途端、爆発音が響き渡る。
隣の部屋との壁に突如、大穴が空き、土壁が崩れて砂埃が部屋中に立ち込めた。
「炮烙玉か!?」
その瞬間、スエは庭の又五郎の手をしかと握って庭から縁側へ上がり、砂埃が舞う中、崩れた壁の穴を抜けて走りだした。
「矢を、矢を持てい!!」
秀吉の声が響く。又五郎が、スエを抱きかかえた。そして、あらん限りの速さで走りだす。
慌ただしい足音、きりりと弓が引かれる音、風を切る音、そして、ガツン、ガツン、と不気味な音と共に、自分達の真横の柱にいくつもの矢が突き刺さる。そして、又五郎はまるでひとさし、ふたさし舞うかのように、矢の嵐の中を、身を躱して走り続ける。
するとそこに、
「こっちじゃ!!」
廊下の先の部屋の襖が微かに開く音と、声がして、二人は瞠目する。反射的に飛び込んだ先にいたのは、
「お茶々様!?」
「あなた様は……!」
「お久しゅうございます。明智日向守光秀」
清洲の町で出会ったあの茶々と、世にも美しいその母君、お市の方だった。お市の方の美しい唇が、花のように開く。
「清洲城御殿の中庭の古井戸は外に通じております」
「何故、私達を」
「……かつて我が愛しい夫を討った兄信長は、仇でもありましたゆえに。日向守、これは我が夫の仇を討ってくれた礼。わたくしはこれで、新たな人生を兄に、そして兄の影に縛られず歩んでいくことが出来る。……その娘を、大事になさい」
茶々が蜜蝋の入った器を手に言った。
「スエ、困ったらいつだって頼ってくるのじゃぞ。これの礼じゃ!」
そして、障子を開け放つ。
「急いで、井戸へ!」
「かたじけない、お市の方、それに、お茶々殿」
「礼は不用です。急ぎなさい。その娘を、大事にすることです」
スエを抱きかかえたまま、又五郎は中庭へ飛び出し、古井戸へと飛び込んでいった。
それとほぼ入れ違いに、一人の大柄な男が、襖を壊さんばかりの勢いで開けて、飛び込んでくる。
「お市様、ご無事か!」
「勝家殿……」
振り返るお市の前で、織田家屈指の猛将にして宿老でもある柴田勝家が、真っ赤になり慌てて片膝を突く。
「お、思わず、その、来てしまった。許されよ。曲者が出たとのことで、御身を案じて、その……」
「わたくしの身を、真っ先に案じてくださったのですね」
鬼のように強く、その勇猛さで国中に名を馳せているはずの男が、もごもごと、まるで少年のように口ごもる。
「そ、その通りにてござる。怪しい者など、来てはおらぬか」
お市の方が、微笑む。
「いいえ、何も。怪しい者などここにはおりませぬよ。ありがとう、権六」
照れながら勝家が懐かしげに呟く。
「その名で呼ばれるのは、久しぶりでございますな……」
照れる大男に、茶々が言う。
「……のう、鬼柴田よ。わらわは今しがた、ちょっと面白い『噂』を耳にしたのじゃ。耳を貸してはくれぬか」
「か、可愛い姪が、人質にとられてしまいましては、手も足も出せませんで……」
「たとえ身内であろうが、その姪なる者ごと斬るべきだったのじゃ! あれなるは……こ、この儂を狙い撃った大罪人なるぞ!!」
藤左衛門が庭の中央で、羽柴秀吉に向かい、額を地面につけて平伏する。平伏しながら、
(なるほどのう。明智光秀、と言わないのは、討ち漏らしたことが白日の元に晒されてはまずいというわけじゃな……)
思わずそんなことを考える。
「……それが、我が姪はバテレンとの間に生まれた娘ゆえ、つまり、その、バテレンの子を評定の場で斬り殺すとなると、話は別でございましょう。このような大評定でそのようなことをしていいかは、それがしのような小者には判断がつきかねまして」
平伏する額から脂汗がしたたり落ちる。これは碁だ。自分には石がある。周りを囲まれようとも、絶対に守らねばならない石が。
「何、バテレンの娘とは……」
「……それに、あれはそれがしの手に負える『曲者』ではありませぬ。あれなるが、いったい誰であるか、羽柴筑前殿は、ご存じでありましょうや?」
「……おぬし、あやつを知っているのか」
空気がぞっと冷える。平伏したまま、藤左衛門は目を閉じる。全身の震えが止まらないが、最後の最後で振り絞るべき矜持は、まだ持っていた。
「いいえ。それがしはただの小者。何も存じ上げはしませぬ。それでよければ……この首など、いつでも差し出しましょうぞ」
そこに、足音も荒々しくやってきたのは、柴田勝家だった。何故か傍らにひとりの童女を伴っている。勝家が声高に言った。
「そちの様な小者の首など我ら織田家には要らぬ。……それよりも羽柴筑前。おぬし、あの明智日向守を討ち損じた、などと噂になっておるそうだが」
あまりにも出し抜けに言われ、ぎょっとして秀吉が言葉を失った。平伏したまま藤左衛門も目を見開く。周囲もその言葉にざわつき始めた。
「な、なんと」
「中国大返しとはよく言ったものよ。『急いては事を仕損じる』はおぬしの口癖ではなかったか。もしもその噂、本当であれば……」
柴田勝家の隣にいた童女、茶々が問いかける。
「のう猿、そなた、その袖に空いた穴はなんじゃ?」
「お茶々様、これは……」
秀吉が、苦虫をかみつぶしたような顔で、答えた。
「今し方、曲者に、撃ち抜かれましてな。危ないところだったのでござる」
「曲者か。そう、ただの、『曲者』じゃな」
「……その通りで、ございます」
ただただ黙って、大量の脂汗と共に平伏する藤左衛門に、茶々、と呼ばれた娘が、通り過ぎざまに小さく囁く。
「……よかったのう。可愛い姪っ子を斬らずに済んだぞ、そなた」
何が何だかわからないが、もはやこれは天の助けである、と瞬時に判断した藤左衛門が頭を上げて、素早く言った。
「では、それがしも、我が姪をさらっていった曲者、追いかけてもよろしゅうございますか。姪はこれなるイエズス会士の通訳も兼ねておりますゆえ、大層困るのでございます」
勝家が言った。
「早く行くがいい」
藤左衛門が、飛び上がるように立ち上がり、駆けだした。ファビオがそれに続く。そして、廊下からファビオが外へと声を投げた。
『アンブロージョ!』
すると、城の縁の下から埃まみれの大きな身体をのそりと出したアンブロージョが、二人にそっと目配せをした。
◇
それよりも、少し前の刻のことだった。
炮烙玉を投げたアンブロージョに促され、スエと又五郎を床下から追いかけ、清洲城の中庭に出た富太が、庭の砂利石の上で慌てて足を止める。
「……そこなる童は、下働きのものかえ」
その気配に気付いたのか、静かに、ほんの僅かに障子が開く。ぎょっとした富太が、清洲城の中庭の片隅で硬直する。
「お、俺ぁ、その……スエって娘と、あと、その……えっと、なんていうんじゃろ、えっと、その、『大事なお人』を探してて、迷子になったんだぁ。ど、どこへ、行っちまったんじゃろう。わ、わかんねえ」
しどろもどろになる富太に、美しい声が素早く囁くように告げた。
「城の外の西南に、上畠神明社という社があります。そこへ詣でなさい。急いで」
そして、障子が静かに閉まり、何事もなかったかのような静寂が広がる。
まるで一瞬、天女が降りてきたのかと勘違いするほどに、障子の奥にいた女性は美しかったという。
その話を、床下から戻ってきた富太から聞いた藤左衛門が、言った。
「……信長公の妹君、お市の方は、それはそれは美しいとの噂じゃ。先ほどのお茶々様とは、確かそのご息女の名じゃったはず。そうか、ここに来られておったのか……」
清洲城の本丸の隅で一同は合流する。
「殿、俺ぁ宿から荷物を取ってくる。このお城、いや、この町から早くおさらばしたほうがええ。そんな気がする」
「ああ、そうじゃな……。それで、上畠神明社へ行けば良いのだな」
「きっとあの中庭の古井戸が、そこに繋がっておるんじゃ。二人が飛び込むところまでは、俺ぁ、ちゃんと縁の下からこの目で見た!」
富太が城の縁の下に再び潜り込み、急いで立ち去っていく。
「そうか。お市様が、か……」
藤左衛門が、ぽつりと言った。
「やはり、女の駒というものは、計り知れぬものよ……」
まるでこのような騒ぎなどなかった、と言わんばかりに、会議の刻限を知らせる鐘が鳴った。




