第一話 安土炎上
「テンシュ! テンシュ!」
真夜中に突然叩き起こされ、スエは寝台から飛び起きた。
女人の部屋には決して入ってこないはずのバテレン、ファビオが慌てた様子でスエを寝台から引っ張り出し、灯りを手に、ポルトガル語で言った。
『アヅチのテンシュが燃えている』
「いま、何と!?」
『危急の知らせが届いた。ノブナガ公が斃れた。裏切りだ』
伊吹山。古来より薬草の産地として知られるこの場所には、『天下に最も近い男』織田信長の命により三千種もの薬草が植えられた薬草園、すなわち『ハーブガーデン』が整えられていた。
幾人かのバテレン達が住まうこの薬草園で、通訳として働いている生真面目な少女スエが、草鞋を突っかけて、ファビオと共に外へ駆けだしてゆく。
そこに、信長公からこの薬草園とそこに住まうバテレン達の管理を一任されている叔父、中泉藤左衛門が、寝間着姿のまま刀を手にし、泡を食ったように、他のバテレン達と一緒にやってきた。
「ス、スエや。何が起きているのかね!?」
「叔父上! 安土城の天守が、天守が燃えているそうにございます!!」
「なんと……つまり、信長公に、何かあったということかね」
「亡くなったとのこと。裏切りに遭って……」
「裏切り!? そ、それはまことであるか……」
小さな目を大きく見開いて、藤左衛門が、喉の奥から声を絞り出しつつ数歩よろめき、そして慌てて頭を振ってから、皆で山頂へ向かって走り出す。
六月の伊吹山の、山頂にほど近い位置にある薬草園。
日頃はのんびりと『ポルトガル』などという遠い国からやってきたバテレン達が植物の世話をし、薬草を煎じては、その見た目とやや気難しい性格に反して『健康志向』でもあった信長公に送り届ける、そのための場所だった。
「スエ! 殿!」
もう一人、館から駆けてきたのは、富太という名の藤左衛門の小使の少年だった。
「一体何があったんだよぉ」
「もう少し上に登れば見られるはず。行きましょう」
ファビオをはじめとした何人かのバテレンと藤左衛門、富太とスエが、あえぐように山を登っていく。幾種類もの薬草の香りのする、冷えた伊吹山の夜。少し開けた場所に登り、一同は息を呑む。
遥か遠く眼下に聳え立っていたはずの絢爛豪華な安土城の天守閣が、轟々と、天を突くように燃えていた。
『……あのアヅチのパラシウス(宮殿)は、美しい場所だった』
巨漢の、それ故にいつも大量の薬草を信長の元まで運ぶ役目をしていたバテレンのアンブロージョが、呻くように呟く。
『ノブナガ公はどうしていらっしゃるのだ』
『亡くなられた。場所はメアコ(京)のテンプロ・ホンノウジだそうだ』
思わずその場のバテレン達が揃って胸元で十字を切る。
バテレンにとってそれは、スエがお地蔵様や仏様の前で手を合わせることと同じ行為らしい。スエもそっと手を合わせる。
同じように慌てて手を合わせて、遠くで燃える城を茫然と眺め、藤左衛門が言葉を漏らす。
「我々は、これからどうなるのだ。この薬草園は、信長公のためだけに作られたもの……」
ファビオに促され、この叔父の言葉を簡潔にポルトガル語に訳す。
『叔父上は、これからここがどうなるのか、気にしているのです』
『ノブナガ公亡き後、この庭には庇護者がいなくなる。確かに……』
ファビオの言葉は難しく、訳しきれないこともあったが、叔父に同意していることは伝わってくる。
「公がここに薬草園を作ったことを知っている者は多くない。このままだと川に取り残された舟のようになってしまうかもしれぬ」
「確か信長公には御世継ぎがいたはず。今後、ここをどうするか、聞きに参るしか……」
そして、振り返ってファビオに聞く。
『ノブナガ公の御子の……』
『知らせによると、ノブタダ公も死んだそうだ。トーザ、我々は、これからどうなる』
「……叔父上、ファビオが『信忠公も去んだ』と言っております」
「な……!? な、なんてことだ。一体、京では何が起きているというのかね……?」
『バテレン達を束ねる奉行』にしては少々威厳が足りないせいか、彼らには『トーザ』と気安く呼ばれ親しまれながら、それでも織田家臣団の末端を拝していた藤左衛門が、頭を抱えて呻く。
そこに、誰かが後ろでぱきりと枝を踏み折る音がする。遅れてやって来たバテレンの誰かかと思い、スエはファビオの手から灯りを受け取って振り返り、思わず声を上げた。
「誰!?」
黒い装束に、灯りすら手にしていない男達が、いつの間にか燃える安土城を眺めていた自分達を取り囲んでいる。藤左衛門が、裏返った声で言う。
「な、ななな名を名乗れ無礼者! ここは信長公の直轄地、伊吹の薬草園であるぞ!! 許しもなしに踏み込むことは……」
「信長公はもはや斃れた」
謎の集団の棟梁らしき男が、低くくぐもった声で言う。
「我々には捜し物がある。『あの男』ならば、この庭のことも知っているはず。隠れていても、おかしくはない」
ただならぬ気配を纏った男達を前に、その手元で鈍く光る得物を見て震え上がる富太や藤左衛門、バテレン達を後ろに、スエは言った。
「さ……探し物が何かは存じませんが、ここには、薬草以外何もございませぬ!」
「随分と威勢の良い女だが、その言葉が本当かどうか、確かめねばならぬのでな」
得物を抜く音が、夜闇に冴え冴えと響く。
「うっ、えっと、その、バテレン達を害したら、面倒なことになるのを知らないのかね」
慌てて、慣れぬ手付きで刀を抜いた藤左衛門が言うが、
「どうせ誰も見てはいない。全員斬り捨ててこの山のどこかに埋めてしまえばわからぬだろう。それに、そのバテレンの服を着た連中の中に、我々が探している者が潜んでいるやもしれぬ。ひとりひとり、じっくり検分せねばな」
ぞわり、と殺気があたりに満ちる。どうやら、よほど重要な誰かを探して、この胡乱な連中は、織田信長の知られざる薬草園まで登ってきたらしい。
後ろのバテレン達がポルトガル語で騒ぎ出し、ヴェラーゴ! ソコーホ! という単語が飛び交った。ならず者だ。助けてくれ。この庭で何年か働いてきたスエも、あまり聞いたことのない単語である。
「異国の言葉で何を騒いでも無駄よ。さあ……」
その途端、落雷のような爆音が、突如として響き渡った。
「火縄銃!?」
黒い装束の男の真横の立木に、盛大に火花が散る。
「痴れ者共め。その者らは無関係であるぞ」
夜闇の奥から、よく通る少し高い特徴的な声が響く。目を凝らすと、ぼろぼろの衣服に、深々と笠を被った男が見える。
「誰ぞ!」
「我が名は荒須又五郎。かつて明智光秀公の家臣であった者。これなるは、そこなるバテレン達より価値ある首ぞ。取りに来い!!」
「逆賊の家臣か! ちょうどいい、打ちとれ!!」
何故か『明智光秀』と聞き、男達が目の色を変える。スエが目を瞬かせた瞬間、黒装束の男達は銃を放った男へと殺到していった。
「今です!」
「走れぇ!」
スエと富太が、一同に声をかける。藤左衛門とバテレン達が慌てて、もと来た道を走りだした。
『皆が入ったら、礼拝堂の鍵を閉めてくださいませ!』
ファビオが走りながら暗闇の中で頷く。
「叔父上、富太、私達も礼拝堂に! あちらのほうが頑丈ゆえ!!」
薬草園の世話をするバテレン達が建てた小さな礼拝堂は、伊吹山の風雪の多い気候にも耐えうるよう強固に出来ていた。
一同が堂内に逃げ込み、ファビオが急いで鍵を閉める。
「一体全体、これは、どういうことか……あのお優しいと聞く光秀公が、逆賊……?」
藤左衛門が、肩で息をしながら、近くの柱に寄りかかって呟く。『逆賊』に相当するポルトガル語を頭に思い浮かべることができないまま、スエもまた、肩で大きく息を吐く。ファビオが言った。
『手紙には、ミツヒデ公がノブナガ公を裏切ったと……』
「……大変です叔父上。光秀公が信長公を裏切って、それで今、ああして安土の城が燃えているのです。多分、ですが」
「なんということだ……」
再び、雷鳴のような音が響く。
『荒須又五郎』と名乗った男の火縄銃だろう。バテレン達が震え上がって十字を切る。
「とにもかくにも、助かった……というべきなんだろうか、これは」
「お、俺、朝になったら周りを確認してくるよぉ」
「そうですね。朝の方が良いでしょう、きっと……」
一同で顔を見合わせあってから、スエは息を吐いて礼拝堂の床にへたりこんだ。
◇
暗闇の中で自分を探す気配が、辺りに満ち満ちている。崖下の小さな凹みに身を潜め、顔に包帯を巻いた、壮年とも老年とも取れぬ男が、息を殺し目を閉じる。
『荒須又五郎』、それは自分のために命を投げ打ってくれた、唯一無二の家臣の名前だった。
こんなところで死ぬわけにはいかない。自分には、まだやらねばならぬことがひとつだけあった。握りしめている火縄銃に、力がこもる。
それは、羽柴筑前守秀吉の暗殺。
己を唆し、主君を殺させ、その上で己から全てを奪っていったあの『猿』への報復だった。
数日後には、尾張の清洲で会議が執り行われるという。おそらくは信長公亡き後の行く末を決める大評定である。
そしてあの黒装束達は、今頃、自分の首を血眼になって探しているはずの羽柴秀吉の配下の者達だろう。
薬草の良い香りが鼻を微かにくすぐる。皮肉なものだ。
信長公に『薬草園を作るなら是非、古来より薬草栽培の歴史ある伊吹山に』と進言したのは、若き頃より医療の心得があったこの自分、明智日向守光秀に他ならないというのに。




