28 記憶の杯
翌日。
法務官室の扉がノックされた。
「はい」
「レイブンズ法務官殿、お客様をお連れしました」
事務員の声。
――来客の予定はなかったはずだ。
不思議に思いながら扉を開けると、初老の愛想のよい男性が立っていた。
「やぁ、レイブンズさん。突然来てしまって申し訳ない」
「フィンチ先生ではないですか。いつもお世話になっております。どうぞ中へ」
案内してくれた事務員に礼を言うと、静かに扉を閉めた。エドガーは壁際の椅子をストーブのそばに寄せ、手で示す。
エドマンド・フィンチは、軽く頭を下げてから、その席に腰を下ろした。床に鞄を置き、ストーブに指先を翳している。
彼は、裁定院御用達の老鑑定士――今回の遺産に含まれる骨董品の鑑定を依頼している人物だった。
「どうされたのです。必要であれば人を送りましたのに。
わざわざ足を運ばせてしまって申し訳ない」
エドガーも席に腰を下ろし、机の上で指を組む。
フィンチは眼鏡の奥の琥珀色の瞳を柔らかく細め、小さく手を挙げた。
「いえ、私がこちらに伺いたかったのですよ。直接、お話ししたくてね」
彼は床に置いた古びた鞄を開き、朱色の布に包まれた品を取り出す。
ゆっくりと立ち上がり、それを布ごとエドガーの前にそっと置いた。
「お返しします」
エドガーは彼の瞳を見返す。
フィンチが静かに頷くのを見て、そっと布を外した。
――現れたのは、白い陶器の杯。
「これだけは、直接あなたに返したかった。
他の物は人に託しましたが、これだけはね」
「……なぜです?」
「鑑定士の勘というやつでしょうか。
こいつはあなたの手に戻りたがっていた。
他の誰にも、無駄に触れさせたくなかったのです」
エドガーは立ち上がり、杯をそっと持ち上げる。
「フィンチ先生……この杯は……」
「本物ですよ」
エドガーの唇が震えた。
「本物の――アーサー・ヴァレンタイン一世の手による作品です。
この私が保証します」
冬の淡い光が窓から差し込み、フィンチの眼鏡を白く照らした。
エドガーは小さく息を吐き、手の中の杯を見つめる。
「価値が高すぎて、値はつけられません。
ですが、それを上回る価値があなたにはあるのでしょう。
この国には、たとえどんな宝を見つけても、国庫に報告する義務はないのです。
まぁ、しても構いませんがね。
私はね、国の倉庫に眠らせるより――
大切にしてくれる人のもとに帰る方が幸せだと思うのですよ」
杯を、そっと布の上に置いた。
白い杯。
光を静かに返すそれを、エドガーは見つめる。
「……これは昔、私と友人が見つけたものなんです。
失くしたと思っていた。
でも偶然、その友人の祖父上が持っていたんです」
エドガーの声が震える。
フィンチは柔らかく笑った。
「そりゃあ、その杯は、あなたたちに会うために今日まで待っていたんでしょうな」
彼は机を回り込み、そっとエドガーの肩に手を置く。
「良い物を見せていただきました。――鑑定士冥利に尽きますな」
「先生……」
フィンチはゆっくり頷き、手を離した。
「その杯については、まだ鑑定書を書いておりません。どうなさいますか?」
「……持ち主に相談します」
「必要であれば、すぐに書きますよ。
他の骨董品は人に預けてありますから、今日中にこちらへ届くでしょう」
エドガーは静かに、深く頭を下げた。
「では、失礼します」
フィンチは穏やかに笑み、鞄を拾い上げて音を立てずに部屋を出ていった。
一人残されたエドガー。
手のひらで目を押さえる。
あの日の雪と涙が、ふと蘇る。
そっと、静かに――涙をぬぐった。




