第五章:母のいない日常
母が亡くなってから半年が過ぎた。由紀は仕事に没頭した。悲しみを忘れるためではなかった。母が肯定してくれたこの日常という奇蹟を自分自身の足でしっかりと生きていくために。
デザイナーという仕事は創造的であると同時に論理的な思考を要求される。クライアントの要求を分析し、ユーザーのニーズを理解し、それを美しく機能的なインターフェースに落とし込む。母の死という体験は、由紀のデザインに新しい深みを与えていた。
人間の心の動きについて、以前よりもずっと敏感になっていたのだ。ユーザーが画面の前で何を感じ、何を求めているのか。その微細な心の動きを察知し、それに応えるデザインを作ることができるようになった。
同僚の佐藤さんが結婚の報告をしてくれた時、由紀は心の底から祝福することができた。以前の自分なら、きっと自分の状況と比較して複雑な気持ちになっていたかもしれない。でも今は違う。他人の幸せを素直に喜べる心の余裕が生まれていた。
「お母さんのおかげだ」と由紀は思った。「人生に理由なんて必要ないって教えてくれたから」
由紀は母の手記を何度も読み返した。その言葉は読むたびに新しい意味を持って由紀に語りかけてきた。
母の遺品整理で実家の書斎を片付けた時、由紀は大量の研究資料を発見していた。量子物理学、意識科学、情報理論に関する専門書や論文のコピー。その中には英語で書かれた最新の研究論文も多く含まれていて、母が退職後も活発に研究を続けていたことが窺えた。特に「量子もつれと意識の相関性」「情報の永続性に関する理論的考察」といったテーマが多かった。
そしてある日、由紀は手記の中に挟まれていた一枚の古いメモに気づいた。それは母がまだ元気だった頃の走り書きのようだった。そこには由紀には理解できない複雑な数式と、そして一つの言葉が記されていた。
『アカシック・レコード・コネクション:承認』
アカシック・レコード?
由紀はその言葉を検索した。それは一部の精神世界の研究者たちが語る概念。この宇宙のすべての事象、想念、感情が記録されているという伝説のデータバンク。
しかし、母の資料の中には、これをオカルト的な概念としてではなく、量子物理学の観点から考察した学術的な論文もあった。そしてその多くに、「田村研究室」という印があった。
母がなぜこんなものを?田村先生とは一体何を研究していたのだろう?
その疑問が由紀を新しい扉へと導くことになる。




