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 星空の下、庭園が広がっていた。屋根を乗せる前に遺棄されたらしい朽ちかけた東屋の残骸、薔薇を這わせる予定だったのか鉄のアーチが見える。それ以外は全部、野放図に枝葉を伸ばした花々の楽園がそこにあった。


「すごい」

「アルクルが造らせた古王国を模した庭園だ。存在を知らない者の方が多いから誰もいない」


「どうしてあなたは知ってるの?」

「さあ……」

 アレクは目を細めて笑う。

「どうしてだと思う?」

 弾かれたような笑い声がリュディアの喉から溢れた。


 声を立てて笑ったのはいつぶりだろう。ばあやが亡くなって以来? まさか。

 でもそんな気がする。そのくらいぶりにやっと心から笑えた気がする。


 彼女はスカートを両手に持って花畑へ駆けだした。足を踏み出すたびに花弁が散った。次第にかわいそうに思えてきて、静かに歩いた。庭園は広く、限りなく続いて見える。


 ダイヤのついた重たい髪留めが痛くて、両手で引き抜いた。焦げ茶色の髪の毛が、今夜は月も細いからほとんど黒髪に見えるだろう。

 息を整える彼女の手をアレクが掴んだ。彼は彼女の後ろをずっとついてきて、ひたすら彼女を見つめていたのだった。


「これは本当にお城の中庭なの?」

 振り返ってリュディアは問いかける。


「そうは思えないわ。まるで、森の中の丘みたい」

「細心の注意を払って設計してある」

 アレクの声は何故だか得意げだった。


「アルクルは――偽大公は無能だったが、芸術に金を惜しまなかった。彼の手によって発掘された建築家や画家や音楽家、魔法使いが多くいた」

「素晴らしいわ……」

 リュディアは目を閉じる。風が吹く。癖毛は翻ってまるで旗のようだ。

「私は自然が好きなのです。どんなに豪華な内装のお城よりも、草地や森や泉が好きです」


「よく話すようになったところをみるに、真実のようだ」

 彼は眩しそうに微笑んだ。リュディアは目を逸らすことしかできなかった。なんて嬉しそうに、魅力的に笑うのだろう、この人は。


「それで、君の名前は?」

 リュディアは慌ててスカートを両手で広げた。これほど世話になった人に無礼を働いた自分が信じられなかった。

「失礼いたしました。リュディア・マリアルガ・クリス・フォン・カヴリラと申します。カヴリラ伯爵家の長女です」


 深々と一礼をしてから頭を上げると、アレクは赤い目を思慮深く細める。

「俺はアレク。……それ以上は言えない。すまない。あまりいい育ちをしていないんだ。貴族のお嬢様には聞き苦しいだろうから」

「いいえ。あなたがよい人であることは知っていますもの。気にしないでください」


 リュディアは首を横に振った。たとえ彼にどんな事情であろうと彼女には何の影響もなかった。彼女はただ彼の佇まいや声や整った顔や、階段を降りるとき支えてくれた手、襲われたとき助けてくれた騎士道精神を愛していた。――愛!


 そう。びっくりすることに、リュディアはアレクを愛していた。愚かにもほどがある。会ったのはこれが二度目である。たったそれだけ。それだけで。

 仮にも貴族の令嬢が、こんな簡単に恋に落ちていいのだろうか? リュディアはアレクの家名さえ知らない。彼がどんな風に生きてきたかさえ知らないのに。


 恋は春の風のようにやってきて秋の風のように去ると言う。気まぐれに心をかき乱し、気づいたときには冬が来て消えている。


 母が知ったら嘆いて怒鳴るだろうし、妹は馬鹿にするだろうし、父は何も言わないだろうがリュディアの外出を禁じるだろう。みんな次女より劣った長女がいつか何かとんでもないことをやらかすと恐れていただろうから、ついにこの日が来たかと納得するだろう。


 ちっとも怖くないことが不思議だった。ありもしないことを妄想しては尻込みするのがいつものリュディアだったはずなのに。

 リュディアはこの背が高く黒髪で綺麗な顔を持ち、日焼けしたブロンズ像みたいになめらかな肌をして、少年のように闊達に笑う男とただ一緒にいたかった。


「こっち、大理石のベンチがある。一緒に座ってくれないか?」

「ええ」


 アレクが手を差し出した。リュディアは頷いてその手に手を重ねる。彼の手は熱く、彼女の手の倍はある。指の長さだけでも関節一つ分以上違う。

 手を引かれて歩く間、リュディアはじっとアレクのうなじを眺めていた。丁寧に整えられた短い髪の先が揺れるのから目が離せない。彼の息遣い。深みのある声をまた聞きたくてたまらない。


 大きな岩盤から削り出された継ぎ目のないベンチだった。大きな木の下にあり、夏なら木陰が涼しいだろうが冬だと寒いかもしれない。リュディアは気づいて、言った。


「そういえばここは、寒くありませんね。冬も間近だというのに」

 アレクは上を指さした。爪が指先全部を覆ってしまうほど大きくまっすぐで四角だった。


「魔術師が温度を一定に保つ術式を土地に刻み、天候の影響を最小限にしてある。アルクルは魔術の才能も確かだった」

「それは、とても大がかりな術式が必要だったでしょうね」

 リュディアはベンチに足を揃えて座り、礼儀正しく一人分の距離を開けて隣に座ったアレクへ顔を向ける。

「私、偽大公はてっきり悪人だったと思っていました」


「それは違う。彼は――彼は、善人ではなかったかもしれないが、悪人と断定されるような人でもなかった。お人好しで慌て者で、自分に戦争の才能がないことを悔やんでいた。悔やみすぎて、野心ある大貴族に付け込まれたんだ。彼の……弑逆はおそらく、本意ではなかった。少なくとも兵を起こし宮殿を襲ったのは先導したクトゥルゾフ公爵家だ。アルクルが処刑されたのは適切な罰だった。それは変わらない。だが――可哀そうにと、俺は思う」

「アルクル、……様と親しかったのですね」


 はた、とアレクは動きを止めた。とつとつと語った横顔を伏せて、

「親しいほどではなかった。ただ、人となりを知っていただけだ」

「きっとわかってくださっていますよ。天の園であなたを見ておいでです」

「いや。俺に彼を憐れむ資格はないよ」


 なんといっていいかわからず、リュディアは沈黙する。前を向いたまま目を伏せたアレクが急に小さく見えた。愛おしさが胸の中で膨らんで、叩き込まれた礼節がなければ抱き着いていただろう。代わりに、彼女は考えを巡らせる。


 アレクはおそらく親によって宮殿に差し出された子供だったのだろう。この若さで大公の弟を知っているのだから。


 大公国ではよくある話だった。貧乏貴族の次男三男は理由をつけてごく幼いうちから大公に仕えさせられる。大公側も、断れば財力を疑われるから受け入れる。体のいい口減らしだ。


 アレクは他の少年たちと一緒に鞭打たれたことがあるのだろうか? 彼は泣いただろうか。親を呼んだだろうか。――リュディアと同じくらい寂しかったのだろうか? 考えは尽きなかった。もし今目の前に少年の頃の彼が現れたら、抱きしめて、キスしてやりたかった。


 気づけばアレクは静かにリュディアの顔を眺めている。まるでこれほど心奪われるものを見たことがないとでもいうように呆然とした様子だった。


「どうしてそんなに見つめるの?」

「目が離せないんだ。どうしてだろうな」

 リュディアは勘違いしてしまいそうになる。これは単なる一時の遊び、世慣れた軍人が暇潰しに田舎娘をからかっているだけに違いないのに。


 赤くなって膝の上の手を見つめはじめた令嬢にどう思ったのか、アレクは無理やり視線を剥がして星を指さした。

「星々は神々の家畜だと聞く。月の神であり冥界の神であるヴォロスがそれらの番をしているのだと。カヴリラにも同じ言い伝えはあるか?」


「ええ。カヴリラではヴォロスはドラゴンだと言われています。北方の地下に潜み、今は眠っているけれど世界の終わりに目覚めると」

「顎を開いてすべての土を飲み込む滅びのドラゴンの逸話だな。そうか。北の果てでもその話があるのか」


 彼は破願した。嬉しそうだった。

「神話がお好きなのですか?」

「ああ。民たちの生活が好きなんだ。変装して村祭りに潜り込んだこともあるよ」

「私も収穫祭の祭りには何度か行きました。領主の代理としてですが」


 アレクはカヴリラでのリュディアの生活を知りたがったので、彼女は求められるままに答えた。彼がとくに面白がって聞いたのは、村での共同作業にリュディアが参加していたことだった。


 貴族といえど、数百年続く大貴族でなければ生活は過酷だ。カヴリラ伯爵領にある村は三つ。うちもっとも大きな村に集まって平民の女たちは保存食づくりや布染めに精を出した。


 リュディアも城の貯蔵庫から材料を持参して参加したが、それは貴族の娘の道楽ではない。参加者に分配してもらえる成果物目当てだった。みんなで作った燻製肉やコンポートやジャムの大瓶、ドライフルーツ、干した青菜、冬の保存食代わりの硬いビスケットのかたまり。餓死には遠くても貴族にしては貧しいカヴリラ伯爵家の生活を、それらは支えてくれた……。


「そうか。北の果てにまで行くと、まだ貴族といえどそんな状況なのだな」


 リュディアは固まった。アレクが喜ぶのでついつい話してしまったが、よく考えれば貧乏自慢などするものではない。しょぼくれた彼女の様子に気づいた彼は、慌てて話題を変えた。


「ああ、いや。侮辱するつもりはなかった。すまない」

「いいえ、そんなつもりはなかったの、わかりますもの」

 ふと思い出して、リュディアは呟いた。


「リリンに来る途中の街道で、遺体を見ました。縛り首にされたたくさんの男たちの身体を……。カヴリラ伯爵領もよく野盗に襲われました。そのたび父と騎士たちが撃退してくれたのです。私たちは守られていました。守られているから、なんてことない仕事も幸福でした」


 実際、村に出て女たちと共に仕事するのはリュディアにとって幸福だった。そこでは罵声に怯える必要はなかったから。


 アレクはふっと目を細め、優しい顔をした。心から慈しむ相手を見るときのようなまなざしで見つめられて、リュディアは心臓がどきどきした。


「そうとも。君たちが安心できるようにするのが俺たちの仕事だ。存在意義だ。決してなんぴともそれを乱すことがないように、しなければならない。これからのロズアラドを支配するのは貴族ではない。大公と、法律だ」


 何かを自分に言い聞かせるように彼は言う。自分の吐いた言葉を噛み締めるように息を吸う。


 ひどく痛々しいが神聖なものを見ているように、リュディアには見えた。彼女はそっと手を伸ばして彼の手の甲を握った。体温が溶け合うのを感じた。心までとろけてそうなってしまえばいいと思った。


 アレクは赤い目で彼女を見つめる。硬い指先が伸びてきて、彼女のまろやかな頬を撫でた。触れられた皮膚の部分が熱かった。


「私のことは話したわ。あなたのことを、教えて」

 アレクは静かに頷いた。


 リュディアの知りたかった生い立ちや仕事の話は巧妙にはぐらかされてしまったが、彼の馬と仲間と戦争での笑い話、神話について知っていること、それから子供の頃の断片的な話を聞いた。


 彼の声は滝の轟きのようにリュディアの中に染み入った。怒鳴っているわけでもなければ深いにひび割れてもいないのに、どうしてこんなに耳に残るのだろう、この声は?


 話題は尽きなかった。こんなにするすると会話が進むのが不思議だった。お互いに、お互いの傷のありかを知っていた。彼が嫌がる話題を次第にリュディアは理解した。彼もまた彼女の傷のある部分へ触るのを巧みに避けた。


 二人は同じくオレンジとレモンが好きだった。短い春が一番好きな季節で、お茶にはジャムを入れずに飲む。犬が好きだった。子供の頃、猫にひっかかれたことがあった。早朝に起きる習慣があったが本当は朝寝をしていたい。祖父母のことをほとんど覚えておらず、だが彼らを愛していた。


 時間は過ぎた。あやうく夜会がお開きになっても話し込むところだった。そんなことはどうでもよかった。二人は夢中で、ニコラが呼びに来るまで月が傾いたことにも気づけなかった。


 宿の布団に潜り込んでリュディアはため息をついた。

(アレクは柔らかい寝台で眠っているかしら)

 そうであることを願った。彼が幸せであることを。明日の朝に爽やかに、憂いなく目覚めることを。


 もう後戻りはできないことに気づいた。

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