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 宿に帰るなり母は金切り声を上げてリュディアに詰め寄った。香水の香りがぷんと鼻を突く。


 宮殿で助けてくれた二人組と別れたとき、すでに劇が終わりかけていた。家族は壇上から目を離して初めてリュディアがいないのに気づき、探し始めた。行き違いになり、すれ違い、あちこちの人に聞いてようやく合流できた頃には宮殿に人もまばらだった。


 心配していたのよ、と母は怒鳴るけれどもそれは両側の隣室に部屋を取っている貴族の家族への配慮であって、内心はリュディアごときに手間をかけさせられたことに怒り心頭しているに違いない。


 父と妹はいつものように無言だった。リュディアは部屋の真ん中に立たされ、一人、ごめんなさいを繰り返した。


 解放されたリュディアは宛がわれた寝台に昇り、天蓋から垂れるカーテンを引いてほっとした。カヴリラ城の私室が恋しかった。小さく古く日当たりの悪い、元は使用人のための部屋を改装したところだったが、彼女はそこを自分用に心地よく整えていた。あそこはよかった。家族の全員の私室から離れた本邸の片隅にあって、忘れられたように静かだった。

 寝台の上は少しばかりあの部屋に似ているけれど、やっぱり自分の居場所ではないと感じる。ようやくほどけたコルセットの紐を手にしたまま、リュディアは細い溜息をこぼす。


 隣の小部屋に入った父母はぱたんと扉を閉めると低い声で何事かを話し合い始めた。隣の寝台のカーテンを下したマジョリーナがごそごそこっちに入り込んできた。


「それで何があったの?――うわあ、なあにこれ? 怪我したの? 大丈夫?」

 と心配そうに包帯の上を撫でる。金の髪は豊かな羊毛のように渦巻き、リュディアはつくづく妹の美しさに魅入った。アレクのような青年に見合う娘はまさに妹のような人のことだろう。


「大丈夫。親切な人が手当てしてくれたのよ」

 と言いながら包帯を取って湿布の下を確かめた。青痣は、マジョリーナのドレスの袖の中でドス黒く変色していた。


「きゃあ。なんてことなの。これ、手の形してるわね?」

「男に捕まれたのよ」

「なんてこと。誰にも見られなかった?」

 リュディアは頷いた。妹は胸をなでおろす仕草をした。


「よかった。ならカヴリラ家の面子は大丈夫ね。助けてくれた人はなんて?」

「家名にかけて黙っていてくださると誓ってくださったわ」

 マジョリーナはふざけて目玉をぐるりと一周回した。


「すごいじゃないのぉ。物語みたい。でもおねえさま、おかあさまに見られなくてよかったわねえ。淫売呼ばわりされて、カヴリラに送り返されてたかもよ?」

「私としてはその方がよかったわ」

 そして故郷で一生、この一夜のことを思い出して生きていくのだ。神々の末裔のような青年に助けてもらったことを。


「やめてよ。あたし、一人で舞踏会なんて行けないわ。気後れしちゃう」

「何言ってるの? あなたは昔、カエルだってヘビだって臆さず素手で掴んでたわ」

「十年くらい前の話でしょ、それ!」

 マジョリーナが飛び掛かってきたので、リュディアは声を抑えてくすくす笑った。取っ組み合いは十年前ほど激しくなかったが、体重が増えたぶん埃はすごかった。


 さて、そうして夜会の二夜目、三夜目と過ぎていき、リュディアは貴族の社交というものがいったい何なのかを知ることになる。


 それは挨拶の洪水、だった。父と母が腕を組んで名乗る。姉妹はその後ろで頭を下げる。挨拶した家族が立ち去り、次の家族がやってくる。顔と名前を覚えなくてはならなかったし、間違っては決してならなかった。


 貴婦人たちのドレスの色の洪水、香水の香りが混ざり合った悪臭、それからごうごうと焚かれた暖炉の熱気。リュディアは息も絶え絶えだった。コルセットは緩めて着付けたはずだったのに。


 宮殿は果てしなく大きく、招待された国じゅうの貴族たちを収容して人いきれに喘いでいる。十個も二十個もある大広間がそれぞれ異なる色を基調に整えられ、一夜にして三つも四つも正餐会が開かれ、その後に歓談の時間が設けられる。


(こんなことして一生を過ごすだなんて、都の貴族って本当になんの仕事もしなくていい身分の人たちなのね)


 とリュディアは思う。平民に混じって仕事する小貴族の女たちと、きらびやかな貴婦人たちは同じ肩書の人とも思えない。


 父は辟易しているようだった。たまに旧友と出会って相好を崩し、戦友の死を知って悲しそうにする以外、表情が動いたのを見たためしはなかった。


 一方で母と妹はこの挨拶まみれの夜が楽しくて仕方ないらしい。時間が経って挨拶が一巡し、徐々に家族のまとまりが崩れてくると、いつの間にかリュディアは父の背中を追い、母と妹はどこそこの奥方やお嬢様方の集団の中に溶け込んで噂話に興じていた。


(またこうなっちゃった)


 とリュディアはワイングラスを手持ち無沙汰に撫でた。あとから母にお前はお父様と仲がいいわねえと嫌味を言われるだろう。


(だってお母様が私のこと忘れてしまわれるから……今更だけど)


 といっても、父はリュディアを気にする素振りも見せない。おそらく後ろから長女がついてきていることに気づいてもいない。


 昔から父は気づけば城にいない人だった。何日、下手をすると何か月もの泊まり込みの狩りのため山に籠り、領地の見回りに出かけていた。母と顔を合わせたくなかったのだというのは、今ならわかる。


 しょんぼりしながら顔を上げ、父が移動するので続こうとしたとき。


 その人が父ではなく、背格好の似た別人であることに気づいた。そっと、立ち止まる。


(小さい子供みたいな間違いをして。何考えてるの私。リリンに来てから、変だわ)


 小さく呻いて、あちこち首を動かす。あくまでさりげなく、淑女らしく。いない。家族が、どこにもいない。


 大広間には数多の人が溢れかえっている。広い北方大公国ロズアラドの、あらゆる方言、言語、スラングが聞こえる。だがリュディアの家族の姿は見えなかった。声も聞こえなかった。


 とぼとぼと人の波を泳ぐようにして渡り、ようやく壁際にたどり着く。ここなら見つけてもらえないかと思ったのだが、こうこうと輝くランプの灯りより頭上のシャンデリアの方が明るいようで、むしろこっちが暗がりだった。

「また怒られる……」


 彼女は項垂れた。壁際に人は少なく、時折、使用人たちが壁の模様に紛れた隠し扉から現れては給仕のためせかせか歩いていく。いくつかカーテンで仕切られた小さな空間を見かけたが、覗かないでおいた。大事そうな商談をする男性たちであったり、愛を交わす恋人たちであったりするようなので。


 顔を伏せて人の声を聞いていると、自分が遠くに行くような気持ちになる。炎と人から発する熱で大広間はうだるように暑かった。


 歓声が上がった。天井付近を見上げる人につられて上を向くと、糸に吊り下げられた軽業師が飛んでいた。大扉がバアンと開いて楽団が踊りながら入ってくる。陽気な音楽が奏でられ、その場はわっと沸いた。軽くステップを踏む若い貴婦人、彼女を誘おうとする貴公子、腕を組む中年夫婦。

(みんな楽しそう)


 全部が遠くに、夢で見る光景のようだ。リュディアは壁際で俯いた。――来なければよかった、カヴリラに残っていればよかったと思った。


「つまらなそうだな」

 突然、声をかけられたものだからリュディアはぽかんとした。隣にやってきたアレクは壁に背中を預け、彼女にシャンパンのグラスを差し出した。

「えっ……」

「酒は嫌いか? 酒精の弱いものだから安心しろ」


 彼は大尉の軍服を着ていなかった。広く貴族に着用される儀礼用の夜会服を着て、髪を後ろに上げている。立派な厚みのある胸筋がシャツを盛り上げて、それでも少しも崩れない着こなしはその服が特注品であることを告げていた。


 少し向こうで貴婦人と話しているニコラがひらりと手を振って、また会話に戻った。


 リュディアは戸惑いながら彼の顔を下から覗き込む。完璧な輪郭と無表情で、だが目だけは少し和んで見える。夜会の光に照らされて、彼は綺麗だった。


「なんで……優しくしてくれるの?」

「君を見かけたから。また話したいと思ったから」

 彼は少し早口に告げた。

「嫌ならもう行くよ」

「いいえ!」


 リュディアはまたやってしまった。ぱっと手を伸ばして彼の手ごとグラスを掴んだのである。白手袋ごしに伝わるごつごつした骨の感触、体温の高さに気が遠くなりそう。


 どきどきしながら彼女はグラスを回し、泡が出るのに見惚れているふりをする。実際は、飲み物ごしの彼の身体を眺めていたのだった。

「あの」

「うん……」


「名乗りもせずに、先日は失礼いたしました」

「ああ。気にしてないから気に病むな。あんなことがあったなら動揺して当たり前だ」


 アレクはリュディアの顔を覗き込む。若い牡鹿のような軽やかな動きだった。さらさら流れる黒髪に、リュディアは目が釘付けになる。


「怪我の具合は?」

「もうすっかり治りました。湿布が効いたみたいで」


 嘘だった。青痣は黒いところが徐々に黄色く落ち着いてきているが、まだ広範囲に肘を覆っている。あの男の手のかたちが残らなくて不幸中の幸いだった。


「顔が赤い。具合が悪いのか」

「そんなに、見つめないで」

「どうして?」


 彼の赤い目がきらきら輝いていた。優しく言われた言葉の意味が頭の中身に届かないでいる、そんな感じで、リュディアは絶句した。もう返事などできそうになかった。

 アレク心配そうにリュディアの顔や手の震えを見ていたが、やがてよし、と一人で頷いた。


「暑いのか。そうだろうな、俺も汗をかきそうだ。空気のいいところに行こう」

「あっ、え。待って」

「大丈夫、お開きになる前までには戻るさ。誰も気づくまい。君の家族だって」


 ――そういうことじゃない。いや、そういうことなのか?


 リュディアの足取りは雲を踏むよう、ふらふらと頼りない。年若い者たちがこっそり夜会を抜け出すことなどありすぎて風景の一部くらいにありふれたことだ。誰も振り返らないし、注目しない。最後の頼みで首を翻し見つけたニコラは、口をパクパクさせていってらっしゃいと笑う。


 リュディアは生まれて初めて男と一緒に夜会を抜け出した。年若い異性と手をつないだのも、身体を支えられて垂れ幕をくぐったのも、初めてのことである。


 アレクはいきいきと廊下を進み、ずらりと並んだ扉の一つに入り込んだ。室内は無人、物置小屋なのだろうか暗い。リュディアが何か言う暇もなく、部屋の突き当りの扉を開く。するとそこには階段があった。

「使用人用だから急なんだ。裾に気を付けろ」

「え、ええ」


 アレクの背中をリュディアは追った。彼は三歩に一度は彼女を振り返り、何故だろう、徐々に嬉しさが湧いた。胸が弾んだ。彼女は、楽しかった。埃まみれの急な階段を転びそうになりながら駆け下りた先、アレクはばたんと粗末な扉を開く。


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