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 リュディアの身体はふわりと浮き上がり、床に叩きつけられる、と目をつぶったら抱き留められた。誰かに。それはしっかりした太い腕だった。

 リュディアは顔を上げた。そこに夕焼け空があった。カヴリラの空の色だ。北の果て、空気が薄い山頂にかかる夏の天の色……。


 これほど美しい男性をリュディアはこれまで見たことがない。大理石の彫刻のように整った額、鼻筋、顎の線から耳の形まで完璧だった。自分が見ていた夕焼けが切れ長の目に嵌ったルビーのような赤い目だと気づいたときにはさらに呆然として、身体が固まった。


 これほどの色が人の身体に収まっていてもいいのだろうか?


 彼はリュディアの安全を確かめるようにいったん彼女の身体を抱え上げ、顔を覗き込んで、そして動きを止めた。目が見開かれ、耳がかすかにぴくりと動く。彼はしげしげリュディアの顔を見つめた。黒髪がさらさら額に流れ落ちて凛々しい眉を隠すと、あまりの色気にリュディアはぽかんと口を開けた。


(女神を攫う男神の顔だわ)

 とだけ、思った。


 少し離れたところから男の呻き声がして、リュディアを抱えた男性ははっと気を取り直す。

「ニコラ、彼女を」

「はいはい。お嬢さん、立てますか? あ、立てない。じゃあすいませんが失礼して。よっと」

 耳に心地いい声に聞き惚れていると、軽快な声の主によってリュディアは抱き上げられた。

「あっ、あああ」

「ああ、ごめんなさいね。はい、目をつぶってね。見ない方がいいから」


 と言われてその通りにする。ぼぐっ、と打撃の音が聞こえる。幼い頃忍び込んだ演練場で見た父の格闘術の訓練のときに聞いたのと、同じ音だった。続けて、人間が胃の中のものを吐き出す声。くぐもった低い威圧の声。ばきん、ごきんと骨の折れる音。


 ニコラと呼ばれた彼はリュディアを丁寧に運び、ひとつの部屋に入ったのが扉の開閉音で分かった。

「目を開けていいよ」


 柔らかいどこか、おそらくソファの上に下ろされてそのようにする。リュディアはきっちり結い上げたはずの髪が崩れていることに気づいて泣きたくなった。忘れかけていた吐き気が再び襲ってきて、完全にパニックになる。


「うあ、あ。あ!」

「大丈夫、息をして。かわいそうにね」

「私、私のせいで……ごめんなさい」

「ああ、いいよいいよ。お嬢さんのせいじゃないよ」


 青年がハンカチを取り出し、部屋の洗面台で濡らして腕に当ててくれる。ほどなくして扉が開き、黒髪を乱した先ほどの青年が現れた。息切れひとつしていなかった。


「ニコラ、あれがどこの誰だったか調べておけ」

「わかりました。アレク――は、怪我は?」

「俺を誰だと思ってる?」

「そりゃそうか」

 ニコラは備え付けの棚を探り、小さな箱を取り出した。

「救急箱ありました」

「貸せ」


 黒髪の青年、アレクと呼ばれていた方の、輝かしいほど美しい青年がリュディアの前にかがみ込む。彼の手にあると救急箱はひどく小さく見えた。

 身体のあらゆる痛みをリュディアは忘れた。彼に呆然と見惚れ、浅い呼吸を繰り返す。

「手を出せ。骨に異常がないか確認する」

「は……い」


 ほとんど夢遊病者か催眠術にかけられた者みたいに、リュディアは腕を差し出した。自分の腕など握り潰してしまえるほど大きな手が、きゅっと肘を掴んだ。彼の体温が心臓まで直接届いて、首筋がぞわぞわする。ランプの光に照らされて彼の濃い睫毛が頬に影を落とす。日焼けした肌のなめらかさ、それから黒髪。


 リュディアは自分の焦げ茶色の髪のことが嫌いだった。赤茶けた色はまるで傷んだ赤毛か質の悪い黒髪のどちらかに見える。くるくるもつれて絡まるし、すぐごみがつく。おまけに朝焼けや夕日に照らされると赤毛に見え、暗いところでは黒髪に見えるので装飾品をどっちに合わせればいいのかわからない。


 アレクは驚くほど深みのある黒髪だった。闇夜のような、森の奥のような黒色だ。

「ありがとうございました」


 とリュディアは言った。本当は、あなたはなんて綺麗なのと言いたかった。言えるわけがない。マジョリーナみたいに綺麗な娘ならまだしも、自分が言ったら笑い種である。


 彼は静かな目でリュディアを見つめた。静謐な赤い目。動揺が収まって息が熱いのも忘れた。彼の前にいるとリュディアは全部見通されている気がした。

「何故一人で家族から離れた? 貴族の女は親族の男のいない場所で男と二人きりになるだけで評判を落とす。結婚できなくなるぞ。何故そんな軽はずみなことを」


 彼の声は低くてみぞおちに響く。リュディアは必死に口を開いた。顔を赤くしてそわそわして、まるで村娘のように。コルセットが肋骨に食い込んで痛かった。思い出したように吐き気が戻ってきた。きつく結い上げた髪の毛がはらはらこぼれてくる。早く直したくて、逃げ出したくて、けれど彼の前にまだいたかった。


「服が、きつくて」


 と口にしてしまってからどれだけ馬鹿馬鹿しい言い方をしたのか気づいた。リュディアはとうとう俯いた。貴婦人らしく顔を上げ、高慢なまでにハキハキした話し方をしたかったのに。この人の前で田舎娘そのもののおどおどした仕草などしたくなかった。また――母に怒鳴られるような言動を取ってしまった。


「その、仕立て屋の予約が埋まっていたのです。私はドレスが、夜会のためのドレスが、持ち合わせがありませんでしたので……」

「ああ」


 アレクは顔を上げ、リュディアのたっぷりとした髪が波打つつむじを見つめた。

「コルセットを緩めようと思ったのか? 侍女と一緒に出てくればよかったのに」

「侍女、侍女は……母に必要ですから」

「よほどの貧乏貴族らしいな。自分用の侍女がいないのか」


 リュディアは沈黙した。何も言い返せない自分が歯がゆかった。違います、簒奪者が父を追い出すまではカヴリラ伯爵家は武門の名家でしたと言いたかった。けれど、では何故新大公に協力しなかったのだと言われるのが怖かった。


 アレクは大尉の軍服姿だった。胸にはいくつかの勲章と、大公陛下直属の親衛隊の徽章。この若さで大尉という地位にあるということは、間違いなく新大公の一派として内乱を戦った軍人である。


「――すまない」

「え?」

 リュディアは顔を上げた。彼は真摯な目と、ばつが悪そうな表情をしていた。前髪から覗く赤い目が気まずそうに逸らされる。


「他人の、しかも初対面の女性の家のことに口を出すなど、騎士のすることではなかった。無礼を詫びる。申し訳ない」

「い、いいえ!」

 がばりと頭を下げられてリュディアは反射的にあたふた手を動かした。腕の怪我はただの打撲だった。どこも捻ったりしていない。


「気にしないでください。本当のことですもの」


「本当のこと、か」

 彼は難しい顔をして考え込む様子だったが、リュディアの腕を見てほっとした表情をする。


「骨折はしていない、よかったな。一応湿布を貼っておく」

「ありがとうございます……」


「いや。本来なら俺が……俺たちがああいうならず者に宮中ででかい顔をさせないよう見張るべきだった。手が足りないのは言い訳にならない。守るべきご婦人をこうして傷つけたのだから」


 アレクが気遣ってくれたのがリュディアは嬉しかった。口先だけでもいい、なんだっていい。彼女は微笑んだ。

「ありがとうございます。あなたのような騎士がお身内におられて、大公様もきっとお心強いことでしょう」

 彼は片方の眉をひょいと上げて微笑む。リュディアはどきりとした。


「そう思うか? 俺が大公のためによく働けると?」

「もちろん。あなたは私を放っておいてもよかったのです。わざわざやってきて助けてくださったのです。これで、あなたご自身の良心の豊かさが証明されました」


 リュディアは湿布を当てられて包帯を巻かれた肘を見る。ズキズキした痛みはあるものの、手当してもらったのだからもうすっかり大丈夫だ。


 発散されなかった魔力が身体の中で渦巻くよう。それにあてられたのだろうか? 魔法を習い始めたばかりの子供のように、熱を出してしまったのだろうか? 普段のリュディアなら決してこんなことをしなかったのは事実だ。


 リュディアは青年の手を取り口づけた。感謝が伝わるように、優しくゆっくりと。

「あなたのなさったことを神々がご覧あそばされましたように。そして特別の祝福がありますように。たくさんのよいことがあなたに降り注ぎますように」


 アレクは何も言わない。正確には彼は絶句していた。もの言うこともできず、ひたすら頷いた。奇妙な沈黙が部屋に満ちた。


 居心地悪く、ニコラは身じろぎをする。彼はすっかり二人に忘れ去られていた。あのお、と声を上げようとして、生涯の主と見知らぬ娘が手を取り合ったまま見つめ合って動けないでいるのに気づいた。


 ――そういうことか? そういうことなのか?

 血まみれの人生を歩んできた友人にして主君である男に、まさかそんな瞬間が訪れるとは思わなかった。彼にそんな心の機能がついているとは到底信じていなかった。


 彼はそうっと部屋の外へ出て、邪魔者が来ないか見張ることにした。


 リュディアが家族の元へ戻ったのは、劇も終わりに差し掛かってからだった。


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