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中央の宮殿から伸びた五本の大通り沿いには、もっとも高価なドレスだけを扱う店や宝飾品専門の店がある、と母は嬉しそうである。
「都は流行の最先端の地です。ジョリー、お前に可愛いドレスを買ってあげなくてはね」
「おかあさま、おねえさまに夜会ドレスを買ってあげるって約束してたじゃない。おねえさまだって舞踏会に出るのよ。おかわいそうじゃない」
母はリュディアをぎろりと睨んで舌打ちした。マジョリーナは目を逸らした。
「仕方ないわね。旦那様がそういうのですからね。おお、リュディアは服にも宝石にも興味なんてないというのに」
「……お母様のお優しさに感謝いたします」
「興味も持たない子に何を与えてやっても無駄ですよ。美しいものに心動かされるということがないのだもの」
ともあれ、そのようにしてカヴリラ伯爵家の一行は旅館に到着した。これから冬の間の数か月、ここに滞在して王宮に通うのだ。
父が懇意だったという旅館の主は代替わりして、息子が主をやっていた。やたらに腰の低い猫なで声の中年男だった。父が大変お世話になりました伯爵様、伯爵様、と何度も言う。なめらかな両手は揉み合わされている。
(主が働かなくてもいいくらいの旅館なのね)
カヴリラなら最上級といっていいランクの宿だろう、とリュディアは思った。しかし中に入るとあまりに混み合っているのに目を見張った。人いきれと暖炉の熱で息さえできそうにない。使用人たちは駆けずり回っているし、横柄なダミ声の客がいるし、絨毯にはこぼれた酒のしみがそのまま、壁紙は湿気で剥がれかけている。母を筆頭に、一家は三階の客室に早々に引き上げた。
「いったい何なのです、ここは。まるで場末の酒場のようではありませんか! あなたの見つけてくる宿といったら。信用したあたくしがバカでした!」
下男たちがトランクを部屋の隅に積み上げて行ってしまうと、まず最初に母が叫んで父に詰め寄った。
「新興貴族どもがいたな。元は農奴だった連中だろう。我々をあんなものと同列にされては困る……」
「じゃあそう言ってきて! 他の者たちを全部追い出させなさいッ」
「無茶苦茶を言うな」
長旅の疲れもあったのだろう、癇癪を炸裂させる母に興味のない父の気のない返事。いつものことだが、他の部屋に声が聞こえているのではないかと思うとリュディアは身がすくむ。マジョリーナは我関せずで机につき、
「ねえローズ。お茶ちょうだい」
「はいお嬢様」
と侍女の荷物の梱包を解く手を止めさせている。リュディアは茶器を手に取った。
「私がやるわ。ローズは荷物を見ておいて」
「はいお嬢様」
父母はああだこうだと言い合いながら寝室と居間、一続きの客室を忙しなく検分した。やれカーテンが古い、これは我々にふさわしいものではないと言いつつ、調度品を交換させたり部屋を変えさせることはできないのだった。カヴリラ伯爵家にそこまでの権限も権力もない。
「ねえおねえさま、大公様ってどんな方だと思う?」
リュディアが差し出した紅茶にたっぷりのジャムを入れ、マジョリーナはわくわくした瞳で問いかけた。
「とても恐ろしい方だと聞いているけれど」
「そんなのはどうだっていいわ。騎士なのですもの、女には優しくしてくださるでしょうよ。そうじゃなくて、とても格好いい方だというのは? ほんとかしら?」
「どうかしら。戦場に出ていたのだから日焼けはしているでしょう」
リュディアはマジョリーナの前の椅子に腰かける。リュディアはお茶だけ入れたカップをスプーンでかき回した。どっと疲れがやってきた。
実際、新大公の戦争の手腕は大したものだった。叔父を殺すため国じゅうを回って支援と援軍をつのり、なにも持たない口だけの大公子がみごと連戦連勝を飾った。また彼は戦の閑散期には自ら数騎の部下を率いて魔物狩りに出向き、違法な奴隷商人に売買された人々を助け、寒村に出向けば井戸を掘り当てと大活躍したらしい。その甲斐あって、即位した彼の人気は平民や小貴族の間で根強かった。
「はあ……大公様、早くご挨拶したいわ」
とマジョリーナはカップを抱きしめてうっとりする。
「マジョリーナはお妃様になりたいの?」
「当然! だって大公様ってこの国一番の権力者だわ。騎士たちを従える強い男。ジョリーはね、強い男の花嫁になるのが夢だもん」
新大公アレクシオンは先々代の大公フェリュードラに遅く生まれた待望の男児だった。生まれつき一族の魔法を受け継ぎ、ごく幼いうちから剣術に才能を発揮する自慢の跡取り息子。
フェリュードラの弟、大公補佐アルクルはそれが気に入らなかった。
フェリュードラが死んでしまうとアルクルは部下たちと共謀して大公妃の宮殿を襲撃、幼いアレクシオンは命からがら逃げだしたが母后は助からなかった。それから十年、復讐鬼と化したアレクシオンはロズアラドの各地から反乱軍をまとめ上げ、みごとアルクルを打ち負かした。それが今年の春のお話。
マジョリーナはすでに大公の横に並ぶ自分を想像しているのか、うっとりした目でとうとうと語った。
「あたしねえ、大公妃になったら黄金の馬車を仕立ててもらうわ。あたしただ一人のために。それでものすごく細かい刺繍の靴を履いて、毎日違う色のドレスを着て。もちろん宮殿に住むわ。大公様のお傍にずっといるの」
「さすがの大公様だってそんなにお金持ちかしら?」
「わかってないわねえ、おねえさま。これは夢のお話よ。そのくらい贅沢して暮らしたいってこと!」
マジョリーナは焼き菓子を齧り、反対の手で指折り数える。
「反逆者が偽大公を名乗ったのが十年前で、大公様がそのとき十二歳くらいだったらしいから、今は二十二歳くらい? あたしは十七。うん、ちょうどよく釣り合いが取れるわ」
「そうねえ」
「若くて綺麗なお嫁さんって言われたいわ。あ、もちろん大公様だけ狙ってるわけじゃないのよ、あたし?」
母の声がますますカン高くなった。それに紛れるようにマジョリーナは机の上に身を乗り出し、こそこそとリュディアに囁く。
「大公様じゃなくても、そこそこ稼げる貴族や、いっそお金持ちなら平民の商人か官僚でもいいわ。少なくともおとうさまより稼げる男の花嫁になってやるから、あたし」
「まあ」
リュディアは目を見開いた。妹の上昇志向が強いことは分かっていたが、ここまで具体的に道筋を決めているとは思わなかった。少し、見直した。マジョリーナだっていつまでも夢見ているだけの女の子ではないのだ。
「だから……ごめんねおねえさま」
「何が?」
「うちは男の子がいない。おかあさまたちもあのご様子じゃ次の子は無理でしょ? するとおねえさまは跡取り娘だから、お婿さんを取るでしょ。カヴリラで未来がない将来を過ごすなんて、つらいだろうけど頑張ってね」
リュディアは吹き出した。喉にお菓子のかけらが入り込んでこほこほ噎せた。
「きゃあ。おねえさまったら!」
「ご、ごめん。うふふ」
リュディアはカヴリラのことをそんなふうに考えたことはなかった。確かに実りの少ない土地だし、民は寡黙でとっつきにくい。北方大公国の北のどん詰まりにある寂れた土地で、経済の流通の果ての果て。大した特産品もないからこの先発展も見込めないだろう。
だがそのぶん春に山から流れてくる冷たい雪解け水は何より清らかだ。短い夏には鹿や小鳥が山で恋をする声に満ち溢れ、秋の収穫期に女たちが身分の別なく集まってジャムを煮たり肉をベーコンに燻したりするのはちょっとしたお祭り。長い厳寒の家に籠る生活だって、たくさん本を読み刺繍をして暮らすのは楽しいことだった、リュディアにとっては。
母は農奴(と、彼女は頑なに彼らをそう呼ぶ)――とにかく自分と身分の違う女たちと同じ仕事をすることを蛇蝎のごとく嫌っていた。お気に入りのマジョリーナにも当然、同じ考えを吹き込んだ。
母といつも一緒のマジョリーナと違い、幼いリュディアの遊び相手は農奴の子供たちだった。そのとき培った友情らしきものは、彼女たちの呼び名が平民と変わっても変わらなかったと、少なくともリュディア自身はそう考えている。ばあやも領民を毛嫌いする人ではなかった。ある意味、母の偏った思考から逃れることができたのでカヴリラとそこに住む人々が好きになったともいえる。
「大丈夫よ、私はカヴリラが好きだから」
マジョリーナはため息をついた。リュディアの胸元ハンカチでぽんぽん拭き、困り切ったように唇を尖らせる。
「おねえさまってほんとヘン。大公様の花嫁になりたくないみたい。あんな田舎のことが好きだなんて、女を捨ててる。だからおかあさまだっておねえさまのドレスのこと忘れてたのよ」
リュディアはただ微笑んだ。この美しい妹に気持ちを分かってもらえることはおそらくこの先もないだろう。それでも彼女はマジョリーナを愛していたし、決して分かり合えないことさえ愛おしかったのだ。




