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虐げられ魅了乙女は孤独な大公と恋をする  作者: 重田いの


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 アレクシオンの黒髪は日に焼けやすく、すぐ茶色になってパサパサに乾燥する。彼は鎧の首当ての隙間に手を入れて首筋をかいた。襟足が伸びてきたのと埃と泥と汚れで痒い。だがあまりかきすぎては腹が気になるしその次は足の裏、ときりがないのもわかっていたので、少しだけ引っかいて手を下した。


 小高い丘の上、はるか果てまで続く草原が大海原のようにざわめいていた。国境はそのさなかに流れる一本の河である。空は夕焼けに赤く焼けていた。彼女の髪の毛のようだ、とアレクシオンはぼんやり思う。冬の分厚い雲が沈みゆく太陽の色を反射して黒く赤く燃える。その雲の中で雷がチカチカ点滅する。


「今夜あたりまた吹雪くでしょうねえ」

 彼に後ろから声をかけて許されるのはニコラしかいない。大公は苦笑して振り返った。

「諸侯の機嫌は」

「損ねてます、損ねてます。自分たちじゃどうにもならなくて陛下にお出まし願ったんだったのに、自立権がどうのとかしましい」

 ニコラはにこやかに毒を吐く。彼もまた内面に苛烈なものを秘めている。


 異民族は収奪の民である。小規模な略奪は日常茶飯事で、住民は軍に依存する形で怯えながら生活していた。畑を耕してできたものは軍が買い取り、襲撃から守ってもらい、また大規模な襲撃があれば避難するのは司令官が暮らす安全な城である。

 もっとも農奴に移住の自由がなかった時代ならいざ知らず、現在この地域に居住するのは追放令を受けた犯罪者か流れ者くらいだった。まともな民は死ぬほど働いて金を貯め、この危険な土地を見限ってもっと豊かな土地へ移り住む。放棄された廃屋に、よそからあぶれた者が住むようになる。


 現在、司令官としてこの土地を守っているのは偽大公アルクルの配下であった罰を受ける形で都リリンを放逐された軍人で、シャビロン公という。さかのぼれば古王国に血筋がいきつく名門の出で名声も功績もあったが、寄る年波には勝てず耄碌し、血気盛んな兵を抑えきれずにいた。

 アレクシオンは戦闘を配下に任せ、主に会議において貴族たちを抑える役目を自らに任じた。戦好きの大公と仇名されているが、実際のところ自制もできなくもない方だ。大公そっちのけでいがみ合ういい年したおっさんたちをまあまあと宥めるのも、仕事と思えば、まあ耐えられる。


 リュディアに会いたかった。彼女はどうしているだろう? 早くあの髪に触れたい。くるくると渦巻いて彼をたまらなくさせる薔薇の香りの髪。アレクシオンは彼女の髪を見る旅に炎を思う。暖炉の火だ。その気になればいくらでも強大になれるのに、人間のため小さな煉瓦の中に縮こまっていてくれる優しい光。

 マカリオスに任せておけば安心できるが、あの男は平民に寄り添いすぎるきらいがある。手ずから育てた平民出身の間諜を、まるで家族のように優遇するのだ。上からの優しさは、下の物に道を誤らせやすい。心配は尽きない。


 だが今は仕事の時間だった。すべては帰ってからのことである。気を揉むのも、ぐっすり眠るのも。

「さて、仕方ない。そろそろ出向くとしよう。シャビロン公が天幕を引き裂いてしまう」

 冗談を言いながら踵を返したときだった。これから夜中まで続くだろう貴族会議の段取りを頭の中でおさらいしながら。

 絶叫と馬のいななきが聞こえたのはそのときである。彼が振り返ると、煙を立てる軍団の一つが民を追い立てていた。あれは――異民族と血縁関係のある村の面々だ。これほど長く国境線を接していれば混血も生まれる。異民族は女を攫うが、攫わず嬲り者にしてそのまま置いておく場合もあるからだ。


「ニコラ、あれは」

「近隣の男爵家の家臣です。あ、いえ。先頭で全員を率いているのが男爵本人です。家臣団とともに軍勢に助力すると申し出てきたので許可したのですが。なるほど陛下の道理にはそぐわぬようです」

「連れてこい」

「はい」

 それでそのようになった。


 アレクシオンが丘の上から見守る間にも、男爵とその家臣の男たちはげらげら笑いながらまるで牛にするように民を追い立てる。泣きわめく男が剣の鞘で頭を殴られ、血を流して倒れる。それに縋った老人を馬蹄が踏み潰す。男が、女が、剣と松明に追われて逃げ場を探している。

 ――どうやら彼らが目指していたのは軍旗らしかった。大公アレクシオンと、北方大公国ロズアラドの国旗の真ん中に位置する赤い旗。民が彼に助けを求めているのだ。アレクシオンは剣の柄を強く握っている自分に気づいた。顔が険しく、まるで悪鬼のように歪むのも。


 事態に気づいた彼直属の兵士たちが素早く集まり、ニコラの後に続く者と大公の身辺を固める者とで別れた。そうしている間にも男爵たちは民をかたまりになるように追い込み、自分たちで囲った。

 囲いから剣を突き出して斬るふりをしては怯えるのを楽しんでいる。一人が身を乗り出して、庇う父親と命乞いする若い母親の手から赤ん坊が取り上げられた。


 ニコラの剣がその男を斬り、馬から落とす。赤ん坊は青年の手に抱き上げらると、母親に戻された。怒声と混乱がいっとき場を支配しかけたが、すぐに数を増した大公側の手勢とともにアレクシオンの姿が確認され、男爵側は武器をしまった。

 ニコラが馬に乗った男爵に何かを話しかける。あくまで見た目は穏やかだが、アレクシオンにはその内心の嵐が手に取るようにわかった。

 彼らは連れ立ってアレクシオンの膝元へやってきた。にやにやする若い男爵が兜を取ると、金髪のお下げが背中に垂れ落ちた。


「これは、大公陛下! お見苦しいところをお見せいたしました。平にご容赦ください」

 と男爵は仰々しく跪く。大公に話しかけることができて舞い上がっているのが見てわかり、見苦しかった。アレクシオンは感情を乗せない声で朗々と怒鳴った。周囲のすべての兵に聞こえるように。

「布告にある通り、ロズアラドの民はすべからく我がものである。お前は戦場で軍律に背き大公のものに手を出した。よって処刑する」

 配下たちが頷き合い、手早く準備が整えられた。手ごろな椅子が首切り台にされ、腕のいい兵が念のため諸刃の剣を研ぐ。


「は? えっ? ええー?」

 男爵はまだ状況が飲み込めない様子でにやにやし、家臣たちを振り返った。な? と目でも口でも彼らに問いかけながら、

「でも、ただの農奴ですよ!」

「ロズアラドに農奴はいない。戦場での略奪は許可されていない」

「ああ、そうでした。ええ? 陛下、落ち着いてくださいよ。ただの平民ですよ。俺らは楽しんでただけですってえ」

「整いました、陛下」

 と兵が告げるので、アレクシオンは頷いた。

「やれ」

「は? は? ちょ、俺を誰だと思ってんだ! 触るな!」


 二名の兵士が男爵の小脇を抱える。彼は足掻いたが、筋肉というより筋張っているだけの腕では抵抗らしい抵抗もできない。鎧の首当てが外され、シャツの襟が引きちぎられてようやく彼の濁った目に恐怖が浮かんだが、すでに逃げることはできなかった。頼みの綱といば家臣団だったが、男爵に負けず劣らず若い彼らはキョロキョロと視線を彷徨わせるばかりでなんの覚悟も見せず、ぽかんと口を開けるばかり。

 首の後ろの骨がぽっこり突き出た首を台の上に固定されると、男爵は悲鳴を上げた。兵士の剣が振り上げられ、振り下ろされた。血と首が飛んだ。それで終わりだった。

 アレクシオンはすたすたと男爵の家臣団の前まで出向いた。青年たちは身を縮め、冷や汗をかいて顔を俯けた。


「お前たちは大公直属の兵団に召し上げる。明日の戦闘では先陣隊に入れ。せいぜい命を危険に晒し、意味なく追われ命を散らされた民に報いよ」

 ヒュッと息を呑む複数の音が集団から漏れ出た。アレクシオンはそれ以上興味を示さず、外套を翻して愚かな貴族の家臣どもの前から立ち去った。

 彼が丘を下りて向かったのは先ほど追い詰められていた民の一団だった。すでに治療魔法使いたちが必要な治療を施しており、毛布とお湯が配られ行き渡ったところだった。


 子供がカン高い声で叫んだ、大公様だ! 恐れのようなどよめきが広がり、彼らはばたばた地面に膝をついた。殺されかけた恐怖で目を見開いたままの者でさえ同じようにした。

「気にせずともよい。代表者はいるか」

 とアレクシオンは声をかけ、ざわざわとせわしない相談の末、おずおず進み出てきたのは白髪頭の老人だった。茹でエビより急な角度で曲がった背中のせいでひどく小さく見える体躯を折り曲げ、彼は深々と礼をする。


 アレクシオンは彼に合わせて膝をつき、目線を合わせた。どよめきは周囲の兵士たちからも巻き起こり、すでに地鳴りに近い。新しい時代の大公と、その治世のありようを目の前にして誰もが興奮していた。

「どうして追われていたのだ? いや、責めているのではない。申せ」

 老人は聞き取りにくい訛りの強い声で必死にアレクシオンに語った。彼はうんうんと頷きながらその言葉を最後まで聞いた。異民族の発音と単語が多分に含まれたどっちつかずの言語を。

「ラステリア伯、中隊を率いて彼らの村の跡を見に行ってくれ。昼日中に突然の略奪が起こったらしく、着の身着のまま逃げてきたと言っている。途中で置き去りにされた者たちが多くいるそうだ。生存者を保護して連れてこい。それから、死者を見たらできる限り弔ってやれ」


 老人は雪の上につっぷし、啜り泣き始めた。指名された伯爵が速やかに去っていくのを見届けると、アレクシオンは彼のぼろに近い衣服をまとう背中を撫でてやった。彼の仕草に感銘を受ける兵もいれば、さすがに人気取りがすぎると鼻白む者もいた。とくに貴族出身の士官の中には魔物を見るような目をした者もいる。


 貴族たちは病は平民が納屋で行う淫らなたわむれから発生し、国じゅうに広がると考えている。平民に直接触れることは貴族の血の純粋さを自ら下げる行為だった。

 アレクシオンは周囲の反応のすべてを無視し、再び丘を登った。さて、世の中とは稀にこういったことがあるものだが、そのとき風が鳴りやみ雲が晴れた。すでにあたりは夕闇に包まれはじめ、松明がちらほら灯るのが地上の灯りの全てだった、そこに。


 退いていく雲に乱反射した最後の夕焼けが、あらゆる階層の人間が持つ金属に照り返った。鍋やフライパンやベルトのバックル、そして鎧、槍の穂先、抜き身の剣。樽の帯鉄から馬の轡に至るまで。輝かない鉄はなかった。赤より黒が近い方の時間帯だったはずなのに、すべてが赤く燃えるように輝く一瞬。どうしてそんなことが起こったのか、それは誰にもわからない。


 ただ、奇跡のように黄金の輝きが草原を支配し、そのさなかに大公アレクシオンが堂々と立っていたということだけが事実である。

 彼は夕日を背にしていたので、他の人間たちのように眩しさに目を細めはしなかった。赤い目はむしろ光を受けてけだもののようにちかちか光った。ここが好機であることを本能が告げた。彼は演技がかった聞えよがしな声を張り上げた。

「大公国のすべての民は大公と法律の庇護の元にある。どのような血筋にあろうと、過去に何を仕出かそうと、諸君は常に一定に守られる権利を有する。そして法律に基づき裁かれる義務も。法を犯さぬ限り私は諸君を守る。それを覚えておくといい。以上だ」


 ――大歓声が上がった。地を轟かし天に響き渡るひとつのうねりだった。

 平民も、貴族も。すべて軍人は武器を振り上げて振り回し、叫んだ。人心がひとつに統一されていくこの瞬間を、アレクシオンは何度か経験したことがある。そして自分にそれを引き起こす能力があるということにも気づいていた。天候は思惑の外だったが、使えるものはなんでも使うが信条だ。うまくいってよかった。


「お見事でした」

 少し後ろについたニコラが囁いた。アレクシオンは頷いた。目は貴族階級の司令官たちが会議をするための天幕に向けられている。

「この戦は勝てる。だが貴族どもが手柄欲しさに陣頭に立とうとするだろうな。止めねばならん」

「やれやれ。せっかくの演説も無駄にされるかもしれませんね。貴族の坊ちゃんに無茶苦茶な指示をされちゃ」

「俺がそれを許すと思うか?」

「思いませんとも」

「ならば、そうはならんだろう」

 アレクシオンは薄く笑った。


 それからの数週間ときたら。彼にとっては一度習ったことをもう一度おさらいするようなものだった。素早く逃げる敵の各部隊を数の力で押し潰し、民を保護し、村々の被害を調べ必要であれば再建か移住に担当者を残す。

 異民族の方もそこまで本格的に侵攻したいわけでもなく、そこまでの気力もないのだろう。奴らはただロズアラドの民を奴隷にし、倉庫の食糧と神殿の金の装飾を略奪したいだけだ。

 本格的な全面衝突は一度も起きず、むしろアレクシオンはロズアラド貴族の自分本位への対応に翻弄された。


 アレクシオンとともに偽大公アルクルと戦ったわけでもない軍人たちは前時代の考えが凝り固まっている。異民族の死体から衣服や持ち物を剥ぎ取り、保護した民を脅して財産を毟ろうとする兵士を見つけ次第、彼はその多くを軍紀に基づいて処罰した。貴族出身といえども容赦はしなかった。


 見かけの上では大公に従いつつも内心で不満を募らせる者どもが、急速に増えていくのを彼は感じていた。獅子身中の虫というわけだ。

 貴族にとって平民は奴隷であり、殺しても相手を所有する領主に罰金を支払えばそれで終わりだったはずなのに、横入りしてきた大公が勝手に民の所有権を主張して譲らない。罰金さえ受け取ってくれず処刑しようとしてくる。どうしてこれほど話が通じないのだと彼らは歯ぎしりする。

 リュディアが彼の言うことの意味を理解して、共感を示してくれたことがどれほどありがたいことだったかアレクシオンは噛み締める。


 出会えたことは幸運だった。本当に、思いがけない幸運だったのだ。

 日を追うごとにアレクシオンの想いは募った。彼は自分の将来をこのように考えていた。大貴族のいずれかの娘を娶り、互いに本当に考えていることをおくびにも出さないまま尊重し合い、子供を作るのだと。むしろ本題は大公妃の父親をどうやって制御するかだと。


 まさか自分が一人の女性の紫色の目が脳裏に居座り、その微笑みや髪が揺れる様子、スカートの皺やお茶を淹れるたおやかな手つきを愛することになるとは。病弱で癇癪持ちの大公と淫売大公妃の息子であり、宮廷を追い出された捨て子同然の彼が?

 すでに彼はリュディアとの間に生まれる子供の性別や顔を想像しては心待ちにしていた。赤ん坊はどれほど可愛いだろう。彼女に似た娘だったら物心つく前から溺れるほどの贅沢でくるんでやるし、息子だったら彼には支配するに何の心配もいらない大公国をくれてやるのだ。


 いずれにせよ、今が頑張りどきだった。

 身体は戦場にあったが、彼の心は満ち足りていた。

 そのとき、時刻は昼日中で、貴族会議が行われる天幕の中は殺気立っていた。頑として前線に出る、と主張する若い伯爵の顔にはひたすら親に顔を立てたいとだけ書いてある。アレクシオンは淡々とその主張を却下する。

「そもそも戦功は貴族の家名に寄与するためにあるのではない。実際に身体を張る軍人の評価基準である。そなたを指揮官にしたところで名誉は期待できまい」

 貴族はむっとした顔をした。


「そもそも我らがアルクルの軍と戦っているときにリリンに籠って祈禱していたお若い若君に何ができる?」

「しかし――」

「弁えよ。私はこの戦で貴族の指揮官を使うつもりはない」

 貴族は黙りこくった。老シャビロン公はこっくりこっくり居眠りをしていた。補給担当者のダキオン伯が指名され、報告を始めた。次にアレクシオン配下の平民出のドラグが作戦説明をはじめ、貴族たちはますます面白くなさそうである。

 ニコラが垂れ幕を跳ね上げ入ってくると、静かにアレクシオンを差し招く。彼にしては焦った様子であることに大公はかすかな不安を覚えた。

「ドラグ、続けよ。反対意見がなければそれでいこう」

「はい、陛下」


 彼はニコラについて天幕の裏手へ出た。

「どうした? 何か報告か」


 ニコラは青ざめた顔をしていた。拳を握り身をかがめ低い声で囁く。

「大公妃様がお倒れに。毒です」

 アレクシオンの世界は崩壊した。


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