20
国境視察団から報告を受けるだけのはずだったアレクシオンが急遽その国境へ旅立ったのは、翌朝の早朝のことである。戻らぬ夫にはらはらしていたリュディアは起きて刺繍などしていた。ジアのことがあり、自分の行動が正しかったか聞いてみたい気持ちがあって、眠気を逃してしまったのだ。
一晩じゅう自分を待っていたという妻にアレクシオンは嬉しいやら心配やらの顔をしたものの、
「すまない。火急の要件なんだ。どうやら草原の異民族が国境線を侵犯したらしい。街や村が危ないんだ」
「わかりました。お気をつけて」
リュディアは色々なものを飲み下し、唇をすぼめて頷いた。覚悟はしていたことだった。アレクシオンには責任がある。家族の突然の出征、そして別れは貴族階級に生まれた女の人生にかかるありふれた影だ。
北方大公国ロズアラドは熟練の将軍がほとんどいないという問題を抱えていた。偽大公アルクルについた者たちは処刑された。その前の大公フェリュード配下の者たちはまだ存命だが、リュディアの父のように蟄居を命じられた者が多く手駒がいない。仮に彼らを国境に向かわせても従う軍人はいないだろう。どれほど名誉ある騎士、訓練された兵士といえども、自分が忠誠を捧げた主でもない貴族に率いられて戦うなど面子が立たないからだ。
戦う者全員と北方大公国ロズアラドの主、大公であるアレクシオンが出るしかない。大公に対してならば、どんな誇り高い騎士でも従う。
時刻はまだ深夜に近い。アレクシオンは少なくともリュディアの目には悲しそうに見えた。彼の人生はその始まりからずっと血と炎が付き纏う。その身に大公の血が流れる限り、逃げることはできないのだ。
リュディアは寝間着のまま夫に抱き着いた。抱きしめ返してくれる腕は大きくて安心できるのに、これを失うかもしれないなんて?
「国の保護者、真理と神の教えの体現者、善良と慈愛の化身、ロズアラドの光明、アレクシオン大公に栄あれ」
彼女は彼の耳元に囁いた。
「誉がありますように。無事にお戻りになりますように」
瞬間、アレクシオンの頑丈な腕がわなないた。リュディアはさらにきつく抱きすくめられ背骨がしなった。
「なんで君を置いていかなきゃいけないんだろうなあ!」
それは低い呻き声だった。あまりに純粋に言葉の意味そのまますぎる感情が籠められて、世界の不条理に怒る幼児のようにさえ聞こえた。彼はこれまでずっとこうして心を吐き出したかったのだろう、とリュディアは思う。大公の子だから、そして大公と呼ばれる立場になったからと、封じ込めていただけで。
「血は怖かないよ。戦争も、俺は勝つから」
と彼は呻いた。アレクシオンとリュディアはまだ仕事の分担のことでぎくしゃくしていたが、今に至るまでいがみ合う必要はない。
彼女はそっと夫の髪に指をくぐらせて引き寄せた。丸く形のいい頭蓋骨、薄い貝殻のように白い耳、そこから続く角ばった顎の線が嚙み締めた歯のせいで歪んでいる。
「大丈夫。ずっとここで待っていますから」
「……ああ。わかってる」
彼はリュディアを離したが、まだ離れがたく大きな手が細い腰を捕まえている。赤い目がじいっと紫色の目を見つめた。
ふと、リュディアは不安になった。彼女は光が当たると赤く透けるこげ茶色の髪をしていた。暗いところでは黒っぽく、そしてちょうど朝焼けの元では赤黒いと言っていい、ころころ色と印象を変える奇妙な髪の毛だ。
――それを血の色のようだと罵ったのは誰だっけ? 確か家族の誰かだったと思う。血の色だから、不吉だから、武人にとっては凶兆だから、幸せになんかなれないよと言われた。
この髪のせいで夫が戻ってこなかったらどうしよう?
いいえ。彼女は胸の中から意味のない自己否定を切り捨てる。
「あなたがどんな姿になってお戻りでも構いません。たとえ手足がなくても、顔が削れてもいいからお戻りくださいね」
「大げさだよ。異民族は国を持たず氏族同士で対立する。今回現れたのはその中の一氏族に過ぎない。何度か衝突すれば立ち去るだろう」
アレクシオンは微笑んだ。悲しく、寂しそうな笑顔だった。幼い頃、きっと何度もこんな笑い方をしたのだろう。母親から顧みられることなく育った孤独な頃には。
二人は朝の光が差し込む寝室で強く抱き合い、口づけ合った。アレクシオンは旅立ち、リュディアは宮殿に残された。
大公がいないままでも厳寒は続き、領地に帰れない貴族も多い。華やかな夜会はいくつかが取りやめになり、またいくつかが規模を縮小して開催された。遠い国境といえど戦争中に踊っている場合ではない、とアレクシオンの後見役だった神官長マカリオスが提言し、リュディアが了承したのだった。彼女は彼がいなくても過不足なく宮廷の面倒を見なければならない。心配していても何もできることはないのだから。
最初の一週間が過ぎると、宮殿は元のような静けさを取り戻したように見えた。
リュディアは忙しい時期にはどうしてもおざなりになる、宮殿内の細かい訴えを捌いて過ごした。下働きの使用人をいじめる下官への注意、第三厨房の料理人一派がどうやら食材を市井に横流ししているようであること、大聖堂に潜り込んで寝泊まりする貴族を居残りの騎士たちに追い出させ、内宮と巫女たちとの季節の贈り物のやり取りはしばらく絶えていたのだがこれを復活させ、とやることはいくらでもある。忙しくしている方が気が紛れてよかった。
リュディアは少しずつ、いつかやりたいことをまとめ始めた。あくまで頭の中だけで。誰にも覗かれないように。
傍目にはのんびりとくつろいでいるように見える大公妃の頭の中ではいくつかの目標が目まぐるしく乱立し、生涯においていくつを達成できるか見えない未来を見晴るかしている。
各地の宗教儀礼が独自化しているのを一本化したい。怪しい呪術師や占い師が貴婦人の居間、下手すると神殿内部にまで入り込んでいらないことを吹き込む、これも排除したい。打ち捨てられた神殿を修復し、ひとつの村に一つの神殿と学校を建てる。都で教育された人材を派遣して、みんなが文字を読める国にするのだ。
見果てぬ夢だ。アレクシオンにさえ話していない。だが彼女はいつか実現できるはずだと信じているし、しなくてはならないとも思っているのだった。アレクシオンと一緒に。
訪問者が現れたのはとある日の昼下がりのことで、リュディアは曇りガラスごしに聞こえる雷鳴を無視して暖炉の火にあたっていた。室内は相変わらず暑いくらいに暖められており、窓の外の吹雪を連れてきそうな曇天とは無関係に見えた。
「お母様が?」
「ご家族皆々様でございます。お母上様が最初の馬車でいらっしゃいます、お父上様と妹君があとの馬車でいらっしゃいます」
と侍女は淡々と告げる。リュディアはため息を飲み込んだ。母がまた暴走したのだろう。そして勝手に馬車を出して宮廷に上がったのだ。残りの二人はそれを追いかけてきた。
カヴリラ伯爵領なら平民から笑われるだけで済んでいた話だが、ここでは貴族の目もある。
「会いましょう。ここにお通しして」
と告げたのは、ここが内宮のさらに奥まったところにある大公妃のための部屋であり、人目が届きにくいからだった。外がこんな天気でなければ、曇りガラスから差し込む太陽の熱を一身に受けることができる南向きのいい部屋のはずだった。だが今日のような日、ここはほとんど真っ暗な密室に変わる。
リュディアは自分の姿を見下ろした。ワンピースドレスの上に仕立てのいいチュニックを重ね着し、ショールを肩に巻き、貝殻ボタンの室内履きを履いている。髪の毛は一本のお下げに編んで胸の下まで垂らしていた。アレクシオンがくれた指輪と、シンプルな金のネックレスがひとつ。もう母のお下がりのドレスを普段着にしておらず、妹の使い古しのアクセサリーを付けていない。
(おかしなところはないはず。これなら侮られないですむかしら?)
と考えた。なんといっても今、リュディアは大公妃なのだから。だが現実は無常だった。
先導する侍従を押しのける勢いで部屋に飛び込んできた母は、火に照らされたリュディアの姿を見つけると眦を吊り上げた。
「メンパルロのお姫様に失礼を働いたそうね!? お前という娘はなんて――」
と叫び出し、始めた。後ろからやってきた父がその腕を掴んで強引に引き戻す。痛そうに骨が鳴る音が聞こえた。母は憤怒の形相をしたが、夫には逆らわない人であるからとりあえず引き下がる。
父母の後ろには美しい妹が控えており、不気味なほど落ち着いた様子で座ったまなざしを姉に投げかけた。さらに、部屋の外では母の侍女ローズが身の置き所がない様子で立っている。
「大公妃様におかれましてはご機嫌麗しゅうございます。カヴリラ伯爵家よりご挨拶に参りました」
「ご苦労様ですこと。皆様ご健勝そうで何よりです」
リュディアは頷いた。正式な挨拶をかけ終えると、父は長女を見つめて何かを無言の内に催促する。リュディアは侍女たちに手を振った。
「あなたたちはお下がりなさい」
さやさやと衣擦れの音を響かせながら立ち去る彼女たちのたてる音と薪の爆ぜるだけが、室内に響く。
「メンパルロ公爵家の先代はかつて私にたいへんよくしてくれた。ロズアラドにおいてもっとも古い家系の一つであり、中小の貴族にはその傍流も多い。つまり一大派閥を築いているということだ」
前置きもなく、父は話し始めた。ずかずか歩いてリュディアの目の前に椅子を持ってきて、座った。久しぶりに見る父は驚くほど老け込んでいたが、肌がてらてら輝いていた。
椅子の背もたれに両手をかけた母は、長女が夫から叱られるのを期待して目をらんらんとさせた。
マジョリーナは興味なさそうに窓に近づき、手で曇りガラスを拭いて外を眺めようとする。しかしそこにあるのはどんどん漆黒の闇に近づいていく吹雪だけである。
カヴリラ伯爵家は相変わらずあの離宮で贅沢に暮らしていた。彼らはアレクシオンの真意を見抜けなかった。つまり物質的な面で満足させておけばそれ以上を要求しないだろう、と笑った夫の顔がリュディアの脳裏に翻る。
(違ったわね)
記憶の中の夫の顔が悲しそうに崩れた。
(やっぱり父も貴族なんだわ。武人だってなんだって、もっとたくさんの名誉と地位を欲しがるものなんだわ)
アレクシオンにすまないとリュディアは思った。彼が彼女に期待する中に、物わかりの良い家族というものがあるのは自覚していた。
大公妃の父親は代々宰相に任命され、国政を牛耳ることができる。早くもカヴリラ伯爵家に取り入ろうとする者の相手で母はてんてこ舞いだったと聞く。山ほどの贈り物がもたらされ、辺境の貧乏伯爵は一気に金持ちになったと噂されていた。
だが大公アレクシオンはその道を選ばないのだ。何があっても。
自分に力がないことでひどい目にあった者は、一度力と地位を手に入れたら決して決して手放さない。
「我らを大公様から遠ざけ、メンパルロ家に喧嘩を売り、お前はいったい何がしたいのだ?」
父はいっそ不思議そうに言った。母はフンフン鼻息を荒くして足踏みする。
「あなた、もっと言ってやって。貴族の娘の務めもわからぬこの無学な娘を躾てやらなきゃいけませんよっ」
「私はどの位に就くのだ? 何故いつまでも発表がないのだ。大公は戦にかまけていると聞くが、ならばその間国政を見張る者が必要ではないか。早く布告していただけるよう進言しないか。いつまでも新婚気分で遊び惚けているなど、聞いて呆れる。申し開きがあるなら言え、許す」
カヴリラ伯爵家をアレクシオンから遠ざけたのは大公その人である。リュディアは理由も知っている。だが彼女はそれには触れず、静かに言った。
「アレクシオン様はカヴリラ伯爵をいかなる役職にも推薦なさいません」
父母の時が止まったようだった。窓際の妹が振り返った。分厚い絨毯とカーテンが、沈黙さえ吸い込んでいく。
リュディアは続ける、手も肩も首も緊張することはなかった。こうなることを前から予想していたし……いつかは家族に告げるべきだとわかっていた。夫が何を考えているのかを。そして、自分はその希望をすべて叶えるためにいるのだということを。
「それどころか、大公様はこのたびの治世で宰相を置くことを考えておられません。すべてご自分の手で統治されるおつもりです」
「馬鹿な」
「ありえないでしょ、そんなこと」
父母は同時に言った。父は肘置きを掴んで身を乗り出した。
「この広いロズアラドを大公お一人で? 絵空事だ。貴族一族の協力なくして親政などできるものか!」
「いいえ、できます。大公自らが権力を振るい、官僚たちがその手足となる形で。陛下は官僚制度の改革を考えておられます。大貴族の身内を言われたままに雇用するのではなく、大公ご自身で選んだ信用の置ける優秀な官僚を使って親政なさろうというのです。いずれ布告があるでしょう。国は、大公は、カヴリラ伯爵家の力を必要としていないということをすべての民が知るでしょう」
リュディアは手を叩いた。衛兵と侍従を先頭に、侍女たちまでもが一群となって部屋の中に雪崩込んだ。巻き込まれかけたローズがきゃっと声を上げ、それがカヴリラ伯爵領でよく聞いた平民の女たちの言い方によく似ていて、束の間、懐かしさの波がリュディアを襲った。
人が増えたので温度と湿度が一気に上がった。酸欠じみた頭痛がする頭を押さえながらリュディアは立ち上がる。
自分は今、堂々と見えているだろうか? 父母と相対しても気遅れしていないだろうか?
二人の衛兵がその前に立ちふさがり父母との間を塞ぐ。残りの衛兵が二人を取り囲み、剣を抜いてこそいないものの無表情でじりじりと距離を詰めた。
「さようならお父様、お母様。私はもうカヴリラ家の娘ではありません。大公の妻です。あの方と同じ夢を見て、同じだけ頑張ると誓ったの」
「この――この! 親不孝者めが!」
父と母は顔を同じドス黒い色に変色させ、長女を睨みつけた。ついこの前まで彼女を富と権力の源泉と見做して、次女を鞭打ったことなど忘れたように。いや、本当に忘れているのだろう。
「我らはお前に命を与えてやったのだぞ! 生みの親に逆らうか、不信心者め!」
「そうよそうよ! あたくしが産んでやったのに。こんなことなら産まなきゃよかった!」
彼らはとても典型的な貴族だった。愛情はなく、互いに憎み合いながらも自家を栄え富ませる目的のために団結し、自分の名誉のために生きている貴族の夫婦だった。
華奢な腕で自分を抱えるようにして、妹が動いたのはそのときである。にわかに緊張がみなぎる中、だがマジョリーナは暴れ出したりしなかった。彼女はただふさふさした金の巻き毛を揺らし、青い目でリュディアを一瞥すると部屋の扉へ向かって歩き出した。その何の感情も浮かんでいない目に、ぞっとしたのはどうしてだろう。
「もう行きましょ、おとうさま、おかあさま。おねえさまは何言っても聞かないわ。だって自分は何も間違ってないって信じてるんだもの。自分のしていることだけが最善で、真実だと信じているの」
妹はくるりと振り返って姉を見つめる。スカートが踝のところでくるくる回った。
「おねえさまが何をしたか、いずれ大公様は知るでしょう。あたしたち、あなたを許さないわ」
そしてかたつむりのようにゆっくりと彼らは部屋から出て行った。カヴリラ伯爵家の面々の後ろに付き従う侍女のローズが、最後にちらりとリュディアを見た。それで終わり。
宮廷の使用人たちがついたため息が一つになり、ほうっと弛緩した雰囲気が漂う。
リュディアは椅子に座り込んで黙りこくった。恥ずかしさ、みじめさ、それから計算が頭の中をぐるぐる飛び回る。家族は――そういうつもりだろう? まるでもう大公の外戚として権力を奮っているような振る舞いをするなんて?
堂々たる態度だった妹のことが一番胸を苦しくさせた。あの子は昔から、こうだったと決めつけて記憶を改竄してしまうところがあった。
マジョリーナの心の中でリュディアは魅了魔法を使って大公を誑かした悪女になっているのだろう。妹は姉の陰謀を打ち破る聖女の役どころといったところか。
「ご心配なさいますな、大公妃様」
と声がかかり、ぱっと扉の方を見るとふうふう肩で息をするマカリオスがいた。傍らには銀の髪の少年が太った老人を支えるように足を踏ん張り、心配そうに見上げている。神官長は汗を拭いながらよろよろ入室すると、リュディアに一礼した。
「ご家族のことは我が間諜どもが見張っておりますゆえ。ふう、アレクシオン、あいや、大公陛下よりお妃様の身辺の守りを強化するようにと仰せつかっております。滅多なことはできません」
マカリオスは少年の肩に手を置き、胸を張った。この男の弱々しくいかにも小物然とした見掛けは人を侮らせるが、その情報収集は見事なものである、とリュディアは夫から聞いていた。太った男は小さな目を瞬かせ、抑えた声で囁いた。
「ここだけの話、私の使う間諜どもは皆、元は平民や小貴族など虐げられた者が多うございます。たとえ捕らえられ拷問されようとも大貴族に情報を漏らすことはありません」
「あなたのような方が夫の傍にいてくださることを嬉しく思います、神官長。どうぞ私にできることがあったら、協力させてくださいませ」
リュディアは微笑み、マカリオスは誇らしげに贅肉を揺らして笑った。侍女たちもくすくす含み笑いをしていた。侍従や衛兵たちも。
室内は仲間内の一体感に満ちている。この中にいられることがリュディアは嬉しかった。これまでどの集団にも、本当の意味で所属していたことなどなかったから。アレクシオンのために生きる味方がいることが、こんなにも誇らしい。
大公アレクシオンは遠く、国境地帯の空の下にいる。
(心配しないで、帰って来てください)
リュディアは窓ごしの空を眺め、静かな祈りを唱えた。
***
半月も経たないうちにリュディアは高熱を出して倒れた。毒見係がこと切れているのが見つかって、毒だと分かった。解毒のためあらゆる方法が試されたが、効果はなかった。
カヴリラ伯爵家の面々は、雪の雲間をついて都リリンを立ち去っていた。
アレクシオンの知らないところで彼の妻はゆるやかに死の坂を下っていた。




