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虐げられ魅了乙女は孤独な大公と恋をする  作者: 重田いの


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「皆さま、本日はおいでくださりありがとうございます」

 とだけ、なんとか、言い終えた。言葉はかすれておらず、発音は正しかったはずだ。笑顔も浮かべていた。

 彼女たちは美しい微笑みを浮かべて鈴の音のような声で応えた。


「本日はお招きいただきまして……まあ、素敵なお召し物」

「温かいおもてなしに感謝致しますわ」

「なんて美しい毛皮でしょう」

「お招き、ありがとうございます。心より楽しみにしてまいりましたのよ」

「使用人の心遣いが丁寧ですこと。さすが宮殿ですわね」

「お妃様に拝謁できて光栄でございます」


 どこかぎこちなく、お茶会は始まった。銀盆に乗せられた白磁の陶器の上に焼き菓子が並べられ、瓶詰のジャムが各自に配られる。卓上の給湯器にはたっぷりのお湯が常に湯気を上げ、棚には多種多様な茶葉が並び好きに選ぶことができる。


 蜂蜜と木の実と茶葉、香水と女の肌の匂いが立ち込め、室内には薄い霧がかかったようだった。ソファに座った面々は大公妃と他の参加者たちに贈り物を持参していた。小さな絹のピンクッション、腰に巻く上質な皮のベルト、銀の指輪、小さな大理石の神の像……。どれもこれもリュディアが見たことがないほど精巧で愛らしいものだったが、彼女たちはなんでもないもののように受け取っては傍付きの侍女に手渡してしまう。

 絹の衣装と頭に戴くティアラ、指と首に控え目につけた装飾品のおかげでリュディアは表面上、落ち着いていたが、そのうちぼろを出しそうだった。


(平民なら一家で一年暮らせそうなものばかり)

 この国の富の源泉に近しいところで生を受けた彼女たちは、やはりリュディアとは毛並みが違うのだった。


 会話はおっとりと緩やかに始まり、話す順番を乱す者は一人もいなかった。出しゃばる者もいない。まるで高位の学者か神官が持ち回りの議題を論じているようだ。笑い声はくすくすと上品で、誰かを嘲笑うことはなく、むしろ彼女たちはそうした黒い感情の存在を知らないのではないかとさえ思えた。


 リュディアは意見を求められたときだけ微笑んで答えた。大抵は、質問者に賛同したと取れる言葉を。それからあなたはどう思いますか、と別の者に話題を渡し、次の者は大公妃に敬意を示して賛同した。移ろっていく会話の本質は同意と同情と共感であり、実質的な対話になっていなくても構わなかった。侍女たちと練習させてもらった通りだ。

 カヴリラ伯爵家は貧乏といえど腐っても貴族だから、宮廷で話される正しい発音のロズアラド語をリュディアは習得している。それがなかったら話のゆっくりさについていけなかったかもしれない。これは幅広く水深の浅い河を、ぬかるみと滑りやすいところに気を付けながら渡るような会話だった。


 小一時間ほど話は続き、リュディアは知りようもなかった宮廷内の人間関係についてやや詳しくなった。ここで身を乗り出すようでは笑われてしまっただろうが、彼女はなんとか自制し、受け身の姿勢を怠らなかった。――これでなんとか、控え目で穏やかな大公妃という評判になってくれれば成功である。

 今回の目的はあくまで顔見せであって、アレクシオンがリュディアに与えた地位や財産をひけらかすことではない。また、それらのものは将来夫の気分次第でいかようにも変質する、というのを、リュディアは絶対に忘れてはならないし、忘れていないと内外に示さねばならない。身分の差がある婚姻というのはそういうものである。


(たぶんこれが興味深いのは最初だけで、そのうち退屈になりそう)

 とリュディアは思う。これからはお返しにと開かれる貴婦人たちのお茶会に招かれ、こちらも招き返し……と、社交が続いていく。それが大公妃の『お友達』と、そこから生じる派閥を作る第一歩である。

 ほんの少しだけ、リュディアは油断したのだ思う。大貴族の女性たちは本当に、無害な……愛らしいばかりの、小動物のようだったから。


「あ」


 と小さな声を上げて侍従の一人がお茶をこぼした。ほんの数滴。誰の膝にもかからず、家足の長い絨毯に吸い込まれて消えたのでリュディアは目をやりもしなかった。そのとき話す順番だった令嬢がぴたっと話止め、それから、

「あら……」


 という声が聞こえた。参加者の中でもっとも身分の高い、メンパルロ公爵令嬢だった。失敗したのは彼女の侍従であり、彼女が所望していたお代わりのお茶が零れた。

「誰か、助けて差し上げて」

 とリュディアは声を上げた。宮殿の侍女たちが動き出す前に、

「いいえ大公妃様。申し訳ございません。皆様も、失礼いたしました」


 と公爵令嬢は恥ずかしそうに微笑んで頭を下げる。いえいえ、と全員が和やかに応じた。

 失敗した男、まだ男の子と呼ぶにふさわしい若さの侍従は言葉もなく絨毯の外に額づいている。

 令嬢は残りの侍従たちに頷いた。彼らは土下座の状態の男の子を部屋の外に引きずり出すと、取り囲んで殴り始めた。


「それでね、その奥様ったらおかしくって……」

 と、順番がきていた若い夫人が話を続ける。誰も、何も、気にしていなかった。

 リュディアは自分の笑顔がひきつるのを感じた。手がぎゅっと組み合わさって肩が緊張した。大公妃の様子に気づいた者も、まだ気づかない者もいる。

(ああ――)

 逡巡は一瞬だった。


「メンパルロ公爵令嬢様。あれを止めてくださいな」

「はい?」


 突然、場の支配者たる大公妃が、とはいってもどうやら都の流儀に慣れずまだ立ち居振る舞いもぎくしゃくとして、あまり恐れなくてもよさそうだわと解釈が共有されつつあった田舎娘が、青ざめた真顔で声を上げたので、公爵令嬢はきょとんとした。周りの貴婦人たちも皆、同じような顔をして小首を傾げた。


「おうるさくございまして? ごめんなさい。――これお前たち、お外でおやり」

「いいえ、どうか罰ならそれまでに。それ以上はやりすぎですわ」

 リュディアはきっぱりと言った。貴婦人たちは水を打ったように静まり返り、ただ暖炉の音ばかりがパチパチ響く。使用人たちもまた息をひそめた。


「大公妃様」

 戸惑った声を、もっとも年長のディアルコフ夫人があげた。彼女が芯から困惑しているのが全身に現れていた。


「奴隷へ罰を与えるのは主の義務でございますれば。たとえお妃様といえど、メンパルロ公爵令嬢をお諫めすることはなりませぬ」

「越権行為だとおっしゃるのですね」

 リュディアは目をつむる。息を整えようとする。緊張した身体を早く動くようにしたくて、だがちっとも上手くいかない。声は乱れ、ひどい発音だった。けれどリュディアは言わなければならなかった。


「ですがそれは間違っておりますわ。この国にはもはや奴隷は存在しない。我が夫がそう宣言したのです。あなたが今奴隷と呼んだのは、北方大公国ロズアラドの平民です。平民を殴った平民は、同じ個所を同じだけ殴られると法律にあります。あなたの侍従たちは、あなたの命令により朋輩を殴ったことになる。責任はご自身に及びますよ、メンパルロ公爵令嬢」


 もはや室内に、息をしている者はいないのではないか――それほどの沈黙、であった。

 リュディアはどうしてアレクシオンがあれほどしつこく、民は大公の持ち物であると宣言するのかを理解した。


 貴族たちは、わからないのだ。平民と奴隷の違いが。

 リュディアは沈黙を突き破ろうと声を張り上げた。それが滑稽と見做されることは分かっていたが、どうしても止められなかった。

「この国の民はすべて大公陛下のものですわ。貴族といえど、好きにできるものではありません。大公の目が届かないところでは、法律に則って治められるべきです」


 奴隷が平民と呼ばれるようになっても彼らになんの権利もないことには変わりない。貴族による民への支配の在り方は少しも変わらなかった。

 アレクシオンの言いたいことが貴族に、民に浸透するまではおそらく何十年もかかるだろう。

 リュディアにはこの事情が痛いほどよくわかる。カヴリラ伯爵領は貴族と平民の距離が比較的近い、小さな領地だった。平民たちの世界の狭さと迷信深さ、その根深さを知っている。


 もしアレクシオンが不用意にもこれから民は自由に生きよ、などと布告していたら、保護者である貴族に見捨てられたのかと民はパニックになったに違いない。何かを勘違いして、保護者がいなくなったなら罰もないはずだと隣村を襲うような村もあったはずだ。

 ――お前たちは今日から貴族より偉い大公のものになったのだ、と言われたから平民ははあそうですか、と受け入れ、また貴族たちも渋々ながら頷いたのだ。実質的な支配権は貴族にあることを、誰もが理解していたから。


「彼は確かに他の貴婦人の前であなたに恥をかかせました、メンパルロ公爵令嬢。けれどもう十分でしょう。過ぎたる罰を与えてよいとは法のどこにも書かれておりません。あなたは貴族です。貴族らしく、法に従ってください」


 リュディアは静かに言い終えた。メンパルロ公爵令嬢は目を丸くして大公妃を眺める。

「あたくしがあたくしのものをどうにかするのに、大公様の許可がいるとおっしゃるの……?」


「いいえ。あなたに仕える平民は大公のものだということです」

「でも、あたくしに仕えさせてやってるのはあたくしの父上だわ?」

 公爵令嬢はくすっと吹き出した。

「あたくしに仕えて、彼らは貴婦人の侍従という名誉を得たのに。あたくしのものなのに」


 部屋の中、リュディアと控える侍女たちを除く全員が美しい笑い声を立て、それらは響き合ってまるで旋律のように聞こえた。大貴族の当然の権利に口を出すなんて……やっぱり田舎の、――だから……そうね、わかった気になって……でも従ってあげましょ。だってこの人――大公妃様だもの!

 やがて公爵令嬢は風に煽られた羽根が浮き上がるようにそうっと優美に立ち上がった。愛らしいさくらんぼ色の唇を小さくすぼめ、リュディアに微笑んだ。


「ご鞭撻ありがとうございますわ、大公妃様。少し、体調が優れませんの。屋敷に戻り風に当たりたいと思います。本日はこれにて失礼いたしますわ」

「まあ大変。でしたらわたくしも同行いたしましょう」

「あたくしも」

「あたくしもですわ、メンパルロ公爵令嬢」

 そうして数人の貴婦人が三々五々に、だがしとやかな動きで挨拶をする。リュディアはなんとか微笑んで頷いた。

「わかりましたわ。また遊びましょうね」


 それで、大公妃の許可が下りたことになる。

 だが退出しようとする面々の背中へ、リュディアはひとつだけ声をかけた。


「メンパルロ公爵令嬢、一つだけお願いしてもよろしいでしょうか?」

「なんなりと、大公妃様」

 振り返った令嬢は従順に目を伏せて、思うところなどなにもありませんよという様子である。


「その侍従、置いていってくださいませんか? 私にくださいまし」

「粗相をしたようなものをご所望とは」

 メンパルロ公爵令嬢はますます驚いて、扇で口元を覆う。もしリュディアが飼育業者が掛け合わせたとびきりの子犬ではなく汚い野良犬を洗って飼い始めたと聞いたら、同じ顔をするのだろう。


「ええ、よろしゅうございますことよ。いくらでもお持ちになって」

「ありがとうございます」


 リュディアは丁寧に、相手の目を見て礼をした。

 会話の回転は急速に悪くなり、お茶会はその後、お開きとなった。立場上メンパルロ公爵令嬢に続くことはできなくても、明らかに居心地悪そうにしていた貴婦人たちはそそくさと立ち去っていった。


 あとに残るのはリュディアと侍女たちばかり、部屋の外に控える衛兵も侍従たちも物音ひとつ立てやしない。あの侍従は大丈夫だろうか? メンパルロ公爵令嬢はきちんと彼を置いていってくれただろうか。

 ……暖炉がごうごう燃え、陽の光が差し込む『泉の間』がこれほど冷え冷えと見えるとは。リュディアはぐったり背もたれに身体を預ける。するり、家庭教師が控え室から現れた。彼女は他ならぬアレクシオンの幼少期の初期教育を担当したこともあったのだと、最近知った。

(叱られるわね)

 リュディアはなるべくきちんと見えるよう背筋を伸ばし、彼女の皺が刻まれた顔を見上げた。何を言われても仕方ないと腹をくくっていた。だが返ってきたのは意外な言葉だった。


「及第点でございます、お妃様」

「えっ……」


「それはなりません。大公妃たる者、え、だのう、だの感情を出してはなりませぬ。返事は一言のみ。聞き取りやすいはっきりした声で。高すぎてはなりません。大公妃の威厳を損ないます」

「はい。忠告ありがとう――その、及第点というのは?」


「宮廷の者たちは皆、アレクシオン陛下やマカリオス様に集められた中小の貴族出身者でございます。わたくしもリリン近郊に領地を持ちます伯爵家の出身です。ご存じの通り、貴族といえども称号ばかり立派でその実領地は飢えている家も多うございます、我が家もそうでございました。皆、口減らしにと親に捨てられ宮廷に仕えた者ばかりでございますよ」


「そうだったの。苦労したでしょう」

 侍女たちは静かに首肯したり、何かを思い出したのか手が止まる者もいた。家庭教師は頷き、左右の足に均等に体重を乗せた綺麗な立ち姿のまま続けた。


「宮廷に来られたからと言って上げ膳据え膳の生活が待っているわけではございません。早朝から深夜までの過酷な仕事に身体を壊す者もおりました。領地から連れてこられた平民出身者と、わたくしどもの扱いも彼らと似たようなものでした」


 なんとなく、話が見えてきた。リュディアは先を促した。

「とくに大貴族の坊ちゃんたちは、」

 ハ、と家庭教師は鼻で笑った。部屋の外で抑えられた男たちの話し声が近づいてくる。


「時折、いいえしばしば、わたくしどもでうっぷん晴らしをなさいました。そんなとき庇ってくれた大人たちは皆、奴隷と呼ばれていた平民たちでした。彼らは少ない配給の中から食料を恵んでくれました。アレクシオン大公陛下が即位なさって以来です、貴族出身者も平民出身者も、分け隔てなく食事ができるようになったのは。宮廷の使用人たちは皆、陛下に感謝しております」


 家庭教師は洗練された宮廷仕込みの動きでリュディアに礼をする。

「お妃様が大公陛下のお考えをよくご理解され、ともに目的を果たそうとしてくださる方でよかったと――僭越ながらわたくしめはそう浅慮いたしております」

「話してくれてありがとう、夫人。あなたのお話を聞けてよかった。……他の方々も同じ考えだと言うのなら、ええ、私もまた同じです。夫とともに、この国のためになる大公妃になりたいと考えています」


 リュディアの背筋は震えた。『泉の間』は蒸し風呂の中のように暑く、だが彼女は暑さを感じなかった。武者震い、というのはこれのことだろうか、手が小刻みに震えた。アレクシオンが目指しているもの、彼が変えようとしているもの。そして彼女がそのために行えるかもしれない何もかものことを考えるほど、あまりの責任の重大さにぞっとする。

 だが止まる気はなかったし、責任を放棄する気もなかった。彼女はアレクシオンのためになりたかったし、人々から名実ともに彼にふさわしい妻であるとみとめられたかったから。


 奇妙で静かな連帯感が、リュディアと侍女たちを繋いだ。

 外で衛兵が入室の許可を問う声が聞こえた。侍女が返事すると、

「新しい侍従が大公妃様にお目通り願っております」


 という。リュディアは顔を輝かせて入りなさいと声を上げた。

 宮廷の侍従の群れから押し出されるようにして彼は入室した。まだ若い亜麻色の髪には血のかたまりがこびりつき、丸い頬の顔には拭いたばかりの鼻血のあと、身体を庇っていた両腕は服の上からもわかるほどパンパンに腫れあがっている。彼はリュディアを見つけると、両膝をついて挨拶した。

 たまらず、礼儀を忘れて彼女は聞いた。


「骨は?」

「問題ありません。念のため、衛生兵だった者が確認いたしましたが捻挫だということです」

 と答えたのは傍らに兄のように寄り添う宮廷の侍従である。


「そう、よかった。名前は?」

「ジアです、大公妃様――ああ、命を助けてくださりありがとうございました、大公妃様」


 ジアは額を絨毯にこすり付ける。腕の動きはぎこちなく、リュディアは痛ましさに眉をひそめた。

 メンパルロ公爵家に一度でも戻ったらジアは殺されていただろう。貴族は恥をかかされたら決して忘れない。ましてや大公妃の前で粗相をした使用人のことなど、決して決して許さない。


「身柄を引き受けてくださった御恩は一生忘れません。これから一生懸命お仕えいたします」

「お前、家族は?」

「いません。孤児……でした」

「わかったわ。数日は身体を休めなさい」


 リュディアは侍従長を呼んでジアを引き渡した。これで彼は宮殿付きの使用人ということになる。

(もっとたくさん……知らないと。もっとたくさん、助けられるようにならないと)

 とリュディアは思った。

 おそらくこの国は自分たちが生きているうちに変わることはできないだろうけれど、いつか来る変革の時代のため、少しでも種を撒けるように。

 


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