17
マジョリーナが父に鞭打たれていた。そんなことがこの世に起きようとは、リュディアは思ったこともなかった。
くぐもった悲鳴が聞こえる。リュディアは呆然と立ち尽くす。居間として使われている、広間というには少し狭くただの部屋というには広い一室。
時刻は夕刻に差し掛かり、日が沈んだら夕食が始まるだろう。キッチンからは料理人たちのかすかな喧噪と、料理の匂いがする。侍女や女中たちは忙しなく歩き回り、大公がいた名残りを掃除している。離宮と使用人はいつも通りだった。彼らの仕事は仕える相手が誰で、どんな状況にいようと変わらず続いていく。
部屋の壁、リュディアが開いた扉のちょうど隣に母がもたれかかっていた。腕組みをして、憎々し気な顔でマジョリーナを睨みつけている。リュディアに気づくとにっこりして甘い声で言った。逆だ。全部が、いつもと逆だ。
「おや、おかえりリュディア。陛下はお帰りになったの? お父様の官位について、何かおっしゃってた?」
――ぞっとした。
リュディアは父の背中に飛びつき、手首を掴んで鞭を止めた。
「おう? ああ、お前か。どうした」
「どうしたではありません、もう十分です! 十分です、そうでしょうお父様!」
リュディアは叫んだ。
「血が出ています、やめて!」
母がとことこ近づいてきて、不思議そうにリュディアを眺める。父母は顔を見合わせた。
「大公のお妃様がこうおっしゃるんじゃ、仕方ないわねえ」
母は目を三日月の形に細目、甘い声を出した。父は困った顔をした、まるで子供の我儘に手を焼く優しい父親のように。
「粗相をした子供を叱るのは親の役目だ、下がりなさいリュディア」
「あら、いいじゃありませんか。リュディアは大公陛下の奥様になるんですよ。言うこと聞いてあげたら。うふふふふ」
「ふはは、そうだな。じゃあ優しいリュディアに免じてそうしてやるか、感謝しなさいマジョリーナ」
リュディアは足の裏の絨毯が突然泥に変わった気がして、まっすぐ立っていられなかった。思わずソファの背もたれに手をつくと、父母は驚くほどうろたえて、どうしたんだ、どうしたんだと口々に言う。
「結婚の前に倒れては困るぞ、リュディア」
「そうよ、みんなの幸せがあなたにかかってるのよ」
マジョリーナは顔を上げ、まっすぐにリュディアを睨みつけた。彼女は床に引き倒されて、両手首を縛られていた。紐の先端は、重たく到底一人では動かせないマホガニー材の巨大なテーブルに繋がれている。
(あああ――)
リュディアは頭を振り、父母の顔を交互に見つめた。
「マジョリーナは私が注意しますから、お二人は出て行ってください」
我ながら別人のような硬い声である。父母は幸せそうに笑った。もう何十年もそうだったとと錯覚するほど、揃った声だった。
「だあいじょうぶよ、気を遣わないで。食事の前に泡風呂にでも入ってきたら? 大公様のために、玉のお肌に磨き上げるのよ。ささくれひとつ、あってはならないのですからね」
「うんうん、お母様の言う通り、そうしなさい。欲しいものがあればほれ、係の従僕に言えばすぐ届けてもらえるだろう。綺麗になりなさいリュディア。もっと綺麗に」
「――出て行ってください」
リュディアはもう一度いった。ぐらぐら回る視界をそのままに、二本の足で必死に床を踏みしめた。
「出て行って。私は大公陛下の婚約者です。お二人は私の言う通りにしてくださる義務があります」
父母は顔を見合わせ、鼻で笑うと腕を組んで部屋を出て行った。こんなに仲がよさそうで、幸せそうな彼らの姿をリュディアは十年以上見たことがなかった。
彼女は妹の横に跪き、紐の結び目をほどいた。少し爪が欠けたがどうということはない。
「大丈夫?」
「何聖人ぶってるの? おねえさま、勝ったつもり?」
マジョリーナは腫れた瞼をこじ開け、弱弱しく毒づいた。
「負けないから。あたし、負けないから――何よ、大公陛下の婚約者です? 何言ってるの、おねえさまさあ……調子に乗って……」
妹が何を言いたいかはわかっている。それを一番言いたかったのはリュディア本人だから。
「こういう目に遭うのはおねえさまの役目でしょ!? なんであたしが!? なんであたしが鞭で殴られるのよ!」
マジョリーナは泣き叫んだ。血が混じった唾液がだらだらこぼれ、殴られた頬はドス黒く変色する。妹の魔力がぱっと弾け、呪文の助けがないので消えていく。
「大公様の花嫁にふさわしいのはあたしよ! あんたじゃない!! だって、愛されるのはあたしの役目だもの!」
マジョリーナにはカヴリラ伯爵家の血統魔法の素質がない。それは唯一、リュディアにだけ発現した。マジョリーナが仕えるのは一般魔法と呼ばれる五大要素を用いた魔法だけで、それは珍しいことでもない。もしマジョリーナに魅了の魔法があれば、彼女は躊躇わずそれを使ってアレクシオンの心を操っただろう。
「悔しいッ! 悔しい、あんたなんて死んじゃえばいい」
「身体をみるわよ。暴れないで」
リュディアは抑えた声で囁きかける。三つとなりの自室から実家から持ってきた木箱を取ってきて開けた。中には包帯と干した薬草、油、すり鉢、その他手当に必要なものが入っている。
カヴリラで暮らしていたとき、リュディアにはこの箱が必要だった。楽器の練習がなかなか上達しないとき、買ってはいけないとされたものを手に入れようとしたとき、そしてマジョリーナの邪魔をしたとみなされたとき。リュディアを鞭打つのは父の役目であり、それを見て囃し立てるのが母の役目であり、同情を示し己の優位を確認して悦に入るのがマジョリーナの役目だった。
カヴリラ伯爵家は家族全員が自分の役目を果たすことで成り立っていた。
だが状況が変化し、家族の役目もまた変化した。それに気づかなかったのは姉妹どちらも同じ。恋に浮かされアレクのことを考えて家族を頭から締め出したリュディアと、家族から愛されるのだから大公も自分を愛するべきだと考えたマジョリーナと、一体どちらがより愚かだろうか。
マジョリーナはひどい有様だった。豪華な可愛らしいドレスはあちこち破け、ネックレスは弾け飛んでいる。耳朶が裂けていたのは耳飾りを引きちぎられたせい。指輪を強引に抜かれたらしい指の関節が赤くなっていた。リュディアは彼女の全身を検分し、命に係わる怪我がないのを確認すると妹をうつ伏せに寝かせた。
「鞭のあとによく効く湿布薬があるの。染みるけど、我慢して」
「うっ、ううう……」
マジョリーナは絨毯を掻き毟る。
「何故? 何故? 何故? おねえさま、魔法を使ったの? 使ったんでしょ」
「いいえ。彼には魔力のひとすじもかけていないわ。専門の魔法使いに鑑識魔法を使ってもらえばすぐわかることよ。それは彼も、もうとっくに試してみたことでしょう」
「あたしたちの知らないところでこんな陰謀を企んでたなんて、頭がおかしい。血統魔法の使い手だからって見下して」
時折歯ぎしりをまじえながら妹は姉を睨みつける。リュディアはその華奢な背中にそっと湿布を乗せた。ギャア、と悲鳴が上がった。
「痛い痛い痛い! おかあさまァー助けてー! ブスおねえさまがあたしを殺そうとするぅー! おかーあさまーああぁ!!」
誰も来なかった。もしここがカヴリラ伯爵家で、今が舞踏会の前だったら母は飛んできて、リュディアを突き飛ばしマジョリーナを抱きしめただろう。母に言われて父は面倒くさそうにリュディアを鞭打ち、罰しただろうに。
「お父様の鞭は細くてよくしなるから痛いけれど、傷跡は残らないわ。特別製なの。あまり動かないでいればすぐ塞がるからね」
「ううぅーっ」
泣きじゃくる妹にショールをかけて、リュディアは一階上に上がった。三階建ての離宮の建物のうち、リュディアは二階に、他の家族は三階に部屋を与えられた。最初は疑問にも思わなかったけれど、警護の関係で一番守りやすいのは二階なのだということをリュディアは学んだ。
妹の部屋の隣、父母の部屋からボソボソと低い話し声が漏れ聞こえていた。リュディアは一瞬、怒鳴り込もうかと思った。あなたたちはあれほど大切にしていたマジョリーナをいったいどうしてこうも切り捨てることができたのかと――単純に、聞きたかったのかもしれない。
父母はこんなにも簡単に姉妹の序列を入れ替え、マジョリーナを裏切ることができた。つまりリュディアが役立たずになったら簡単に切り捨てるだろう。家名を守り名誉を得るためなら家族さえ踏み台にできるのが、貴族というものである。
(考えちゃだめよ。今はこんなこと考えてる暇なんてないの)
今は妹を優先すべきである。
妹の部屋は今まさに息せき切って飛び出した主を待つように乱雑だった。リュディアは箪笥からなめらかな生地の締め付けの少ないドレスと肌着を選び、それらを抱えてマジョリーナの元へ急いだ。
妹は右の肩を下にした姿勢でぼんやりと天井を見上げていた。場所は変わらず、絨毯の上である。
「立てる? 着替えをしましょう」
マジョリーナが立てないと言ったので、リュディアはその身体を支えてソファに座らせた。幼い頃そうしていたように、一枚ずつ服を着替えさせてやると童心に戻るようだった。
最後にハンカチを濡らして泣き崩れた顔を拭いてやり、汗やぐしゃぐしゃになった化粧や血飛沫のあと、床の埃を拭う。
新しい涙がマジョリーナの頬を伝った。
「なんでおねえさまなの? なんでおかあさま来てくれないの?」
「ごめんね、マジョリーナ。小さなジョリー……」
「あたし、諦めないから。おねえさまが大公様のお妃様で、あたしがあんなクソ田舎の奥さんだなんて間違ってる。あたしの方が可愛いんだから。あたしの方が若いんだから。負けないからね」
マジョリーナはがくんと首をうなだれさせ、一息にそれだけを言った。軽い酸欠状態のようで、ハッハッと肩で息をしている。
リュディアは残酷な決意をした。妹をこのままにしていては……彼女はずっとこのままだ。永遠にこの離宮に魂を囚われてしまう。どうして? と言いながら人生を終える妹なんて想像もしたくない。もっといい幸せがあったのにと思いながら生きるだなんて。
「全部あなたの言う通りだわ。あなたは私より賢くて美しい。でもアレクはあなたを選ぶことはないでしょう」
「何言いきってるのよ? 偉そうに! あんなに助けてあげたのに恩を仇で返すなんて」
「彼は私を愛しているから。私も彼を愛しているから。変わらないの。たとえ私が今死んだら、彼は私を悼んで愛し続けてくれるでしょう」
少なくとも数年は、と心の中で付け加えた。
「それに、もしこの先あなたが彼の愛情を得たのだとしても、私は諦めるつもりはありません。アレクが私だけを見てくれるように戦うわ。たとえ相手があなただとしても、引く気はないの」
マジョリーナは驚愕した。信じられないと何度も口の中で言い、やがて嗚咽し始めた。
これまでの人生でリュディアは常に妹の欲しがるものを譲ってきた。それでいいと思っていた。自分に血統魔法以上の価値がないことはわかっていたから。それで母は半ば確信犯的に、リュディアはドレスや装飾品に興味がないと言い出した……。
過去においてはそうだった。だがこれからは、かつて考えていたような未来とは違う未来が待っている。
「そんなのおかしいよ。あたし、あんたのことあんなに助けてあげたのに」
「ごめんなさいマジョリーナ。これだけは譲れないわ。私はアレクシオンと一緒に幸せになりたいの」
リュディアはきっぱりと言った。マジョリーナは睨んでも叫んでも姉が退かないという初めての経験にうろたえた。それに、姉の方が質素だが丁寧な仕立ての質のいい服を着て、自分の準備した豪華なドレスが父母に破られ床で丸くなっているということも認めがたかった。
リュディアは立ち上がり、部屋から出た。マジョリーナには現実を受け入れる時間が必要だった。
夕闇がやってくる前に使用人が入って来て部屋の壁の燭台に蝋燭を立てて回った。彼女はソファに腰かけ目を見開くばかりのマジョリーナを一瞥することもなく、破れた衣類を回収して部屋から出て行った。




