16
ホールの真ん中で二人は抱き合った。すぐ、リュディアは自分のはしたなさに赤面した。壁際には大公を出迎えるため使用人たちがずらりと並んでいるのに、何をしているのやら。
彼は両腕をつっぱって距離を取ろうとする彼女の様子にけらけら笑い、細いウエストを掴んで子供にするように彼女を抱き上げた。コルセットごしに感じる強い指の感触にリュディアはますます硬直した。
「あはははは!」
嬉しそうにアレクシオンは笑う。芯から嬉しそうにリュディアには見える。つられて笑い声が小さな唇から転げ出た。
「不自由はなかったか? 使用人たちは過不足なかったか」
「何もありません。とてもよくしてもらいました」
「設備は? 古い離宮だから、少し不安だったんだ。配管工事は済ませたんだが」
「いいえ、本当に何も。お湯も使えますし布も衣類も何もかも新しいです。庭も見事なものです」
彼は安心したようだった。と、階段の上に誰かが出てきた。見上げると父だった。
「お父様」
父は無言のまま降りてきて、大公の前で礼儀正しく跪いた臣下の礼を取る。アレクシオンは頷いた。やんわりとリュディアの身体を離し、彼は父に向き直った。惚れ惚れするほど優美な仕草だった。
「急な婚約でカヴリラ伯爵には不便をかけた」
「我が家には過ぎた幸運に恵まれ、僥倖にございます。大公陛下におかれましては……」
「――陛下あ! いらっしゃいませ!!」
リュディアは息を呑んだ。何が起こったかわからなかった。
妹が、マジョリーナが驚くほど華美に着飾って、階段を駆け下りてくる。何重にもなったフリルとレースまみれのスカート、上半身は乳房が半分以上露出して、金のネックレスが光る。何もしなくても巻き毛の金髪を高すぎるくらいに結い上げ、髪粉をちりばめている。ぷんと香る香水の匂い。顔には丸い頬紅をつけ、青い目の周りにはきらきらする粉がついていて、まばたきのたびに剥がれ落ちた。
父が低い呻き声を上げた。アレクシオンはかすかな微笑みを浮かべながら妹に向き直るが、その内心はどうなっていることやら。玄関口でニコラが半笑いになり、その後ろに知らない顔の男たちが室内を覗き込んでいるのが見える。まるきり見世物だった。リュディアは立ちすくむ。恥のあまり呼吸を忘れた。
誰もが驚愕しながら見つめるうちに、白い泡の中から生まれたばかりの精霊のように無邪気な妹は思いっきりアレクシオンに抱き着いた。リュディアは悲鳴を押し殺した。許可も得ず大公の身体に手をかけた……殺されても文句は言えないほどの不敬だった。
「お会いしたかったですぅ! ずっと憧れておりました!」
だがアレクシオンはやはり優しかった。彼はマジョリーナをやんわりと受け止めると、父に顔を向ける。父は素早く進み出てマジョリーナを強引に引き剥がす。
「とんだことをいたしました。お怪我はございませんか」
「あん、おとうさまったらなんでジャマするのぉ? おねえさまが頼んだの!?」
マジョリーナはぎろりとリュディアを睨みつけた。こんな顔の妹を見るのは初めてだった。驚くほどに歪んだ表情、どろりと顔の周りを取り囲む化粧と香水のぷんとした匂い。愛憎のどちらであれ、彼女はこれほど感情を剥き出しにして姉に対峙したことは一度もない。姉は常に妹より劣っていて、庇われるべき失態を犯すのはリュディアの役目と決まっていたから。
リュディアは半分泣きそうになりながら、父に両腕を掴まれたマジョリーナの横に立った。スカートを広げて膝を折る。
「許してください、アレク――大公陛下。妹はまだ宮廷の勝手がわからぬ年頃なのです」
「娘の申す通りでございます。母親が甘やかしまして、このような。きつく言って聞かせますゆえなにとぞご寛恕ください」
暴れようとするマジョリーナの口を押え、父も同様に膝を折って最敬礼をした。
大公といえど男が婚約者を訪ねるための私的な訪問ならば、家族皆で出迎えるのは逆に失礼にあたる。だからリュディアの他の家族は奥に控えて、頃合いを見て挨拶に行こうと話し合ったはずだった。まさかこんなことになるなんて。
もう終わりかもしれない、とリュディアは思った。掴みかけたと思った希望が霧散していく。カヴリラに戻ってにきびだらけの商人の息子と結婚すると考えると怖気が立った。
どうして、マジョリーナ? 確かに若い娘らしいはすっぱなところのある妹だけれど、こんなことをするなんて?
母が走り出てきた。こちらも見たことがないほど真っ白な顔をして、さっと夫と娘たちの横に並び頭を下げる。彼女にこんな素早い動きができるなど、家族は誰も知らなかった。
「私は怒っていない。気にするな」
アレクシオンは大公の顔で寛大に頷き、カヴリラ伯爵家の面々と使用人たちは細い息を吐き出す。
「リュディア、庭が見ごろだと言ったな? 案内してくれないか」
と彼が腕を差し出すので、リュディアはひきつれた肺を無理に膨らませて微笑んだ。
「はい、アレク」
それで二人はそのようにした。
庭園が素晴らしいというのは嘘ではなかった。そこは魔法の結界に守られて一年中花が絶えない場所である。どこまでも続く薔薇の垣根。蔓薔薇がアーチを這い、金木犀の小さな花が散った小道があり、その周辺では色とりどりの花壇が足元に色を添える。
リュディアはアレクの手を取って小さな丸太の階段を降りた。その先には人工の湖と、せり出すように造られた東屋がある。使用人たちは気が利くので、先回りしてお茶の用意がしてあった。水面では睡蓮が満開である。
「いいところだな」
東屋のささやかなベンチに腰を据えて、アレクは湖を見渡した。ここから見たとき一番華やかに見えるだろう計算されて、白や黄色の花々が咲き誇っている。中でも目立つ場所に植えられているのは赤と紫の花だった。二人の目の色だということに、アレクは気づくだろうか?
「この離宮の前の持ち主の方が、造園に興味があったのでしょう。花壇の手入れなども庭師が欠かさずやってくれていたようで、私たちが入居したときにはこのように華やかでした」
「ああ――叔母上だ」
「叔母上様?」
「ここに前住んでいたのは父上の姉だ。病弱でどこにも嫁がれず、終生ここで花を愛でて過ごされた」
「ひょっとして、子供のあなたはその方に可愛がっていただいた?」
アレクはひょいと片方の眉を上げた。
「どうして知ってるんだ?」
「お声が懐かしそうだったもの」
「くく」
彼は子供っぽい笑い声を立てた。
「そうだよ。――君は俺のことならなんでもわかるみたいだね」
くすくす笑いながらリュディアは誤魔化すようにカップを傾ける。ちらり、アレクの頭越しに見上げた離宮は、不気味なほど静まり返っていた。
「ばあやが礼儀をお伝えしたというのはその方だったかしら」
「ばあや? 君の?」
リュディアは亡くなった乳母の話をした。彼女が宮廷にいたかもしれないということ。自分とアレクシオンの間に知らないうちにあったか細い縁の話である。彼は興味深そうにその話を聞いてくれた。それが嬉しくて、安心した。妹の無体を彼は本当に気にしていないようだったが、いたたまれない思いは消えない。
だがアレクはマジョリーナのことを話題に出さなかった。彼は代わりに、リュディアの生活について聞きたがった。朝、起きたら何をして、何を考えどう暮らしているか。
リュディアの答えを聞きながら、どこか陶然とした顔付きで彼は想像をめぐらしているようだった。二人で暮らし始めたらどうなるかについて。
「それと、外国語を勉強しています。ゼルフィア語やアムネシオンの言葉を」
「外国語? 何故また」
「何故って……大公妃であれば外国の大使や使節を対応することもあるでしょう?」
「俺は君にそんな仕事任せる気はないよ」
アレクは侮辱を受けたように肩で息をした。
「君には安全な内宮で、着飾って暮らしていてほしい。真珠のついたドレスを用意するからそれを着て俺を出迎えて。なんでも用意してやるよ。背丈より高い鏡に自分を映して、好きな色の宝石を身に着けるといい」
リュディアはぎょっとした。アレクシオンは真面目な顔で本音を語っていた。
「そんな。大公妃には仕事があるはずよ。孤児院や廃兵院への慈善活動とか」
「財務には専門の官僚がいる。援助の物資は大公妃の名前でやりとりされる決まりだから、君の名誉は最初から守られている。何も心配しなくていい」
アレクはどこか痛みを感じさせる赤い目でリュディアを見つめた。
「君には変わってほしくない。俺の母のようにはなってほしくないんだ。わかってくれ」
リュディアは俯く。アレクシオンの母が摂政だった時代といえば彼女はまだ子供だったが、どうやら都はひどい状況らしいという噂は伝え聞いていた。大公子様のお母上が愛人の言いなりになっているせいで。
彼は話題を変え、気づまりな空気がなくなるまで二人はお茶と神話と星の話をした。リュディアは楽しかったけれど、胸のふさがりが消えることはないだろうと思った。
彼は彼女に慎ましい妻であることだけを求めていると、言葉と態度で示した。
それは愛情からくる態度だった。彼女を失うことを恐れるからだった。けれど。
(何もできないですることといったら子供を産むだけ? それじゃ、いずれ飽きられてしまう。いつか年老いて子供が産めなくなったとき、もっと若い娘に彼をとられてしまう)
恐怖がじわじわとリュディアを包み込んだ。マジョリーナのように美しい娘ならまだしも、リュディアはこれからどんどん老いる。かろうじて持っている若さという財産を失えば、残るものがはたしてどれだけ、ある。子供を産めるか分からないし、その子が息子であるかもわからない。そんな不確定な要素に己の人生全部を託すことはできないとリュディアは苦しむ。
だって家族は、いつ憎み合うようになるかわからないのだから。
アレクシオンは手を振って帰っていった。離宮から本宮へ戻るにも馬がいるくらいにリリン城は広いのだ。彼はだから、リュディアでは管理しきれないと思ったのだろうか?
まだ結婚もしていないのに、すでに彼女の心の中は悪い考えでいっぱいだった。
恐怖は彼を見送って離宮の中に戻り、思い出したように響いた母の金切り声を耳にするまで続いた。リュディアは階段を駆け上がった。