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そのようにして狩猟会の準備が整えられた。寝る間もなく駆けずり回った平民の城の使用人たちは言うまでもなく、貴族たちも狩猟服を揃え、馬を手配するために昼夜なく苦労した。
数百人の貴族たちが狩猟会に集まった。通常の狩猟会に比べれば格段に多い。大公の許しを得て騎乗し仮に参加する貴族およびその子息の数はおよそ五十人。だがそれ以上に多かったのが、傭兵たちの騎馬の数だった。
そもそも狩猟会は貴族の権勢を見せびらかすために開催されるもの。実際に獲物を追い詰める勢子、トドメを刺す役目は主催者の土地の者がつとめる。貴族のすることは猟犬とともに馬で鹿や猪を追うこと、怪我をせず戻ることくらいである。貴族のためには休憩の天幕が張られ、一番働く平民は地べたに座って靴を脱ぐことも許されず、貴族の供をしたという名誉とわずかな駄賃が放られて終わり。それが現状だった。
だが現実は貴族たちの予想と常識を覆す。新大公アレクシオンは傭兵や脱走農民を配下に加え、私兵として養った。今は各自ささやかな農地を与えられ自作農として都付近に点在していた彼らのことを、大貴族たちは当然のように侮っていた。しょせん、大公の兵隊遊びの遊び相手である、と。彼らはアレクシオンが自ら陣頭指揮を執って敵陣に突っ込んでいったことの意味を、情景を、いまだに理解できないでいるのだ。
アレクシオンがただの家を追い出された子供だった頃から彼とともに戦い、絆を育んだ出自もあやふやな傭兵たち。アレクシオンは彼らを友人として待遇する。命を守ってくれた礼、この国の民として生きることを選んでくれた礼として。それは貴族たちの常識の範囲外の言動だった。
冬の弱弱しい太陽が完全に昇り切らない早朝、貴族たちの張らせた純白の天幕の群れが陽光を反射して雪原のように光る。その中でひときわ大きな大公の天幕は騒々しかった。招集に応えた平民たち、すなわち元傭兵団や盗賊団に所属していた食い詰め者たちが大公に挨拶するため集まったのだった。かつて瘦せ衰えていた彼らは、土地と家族を得た今となっては打って変わって生き生きとした顔をしている。
「王子様、ははは、来ましたぞ!」
「おお、立派になっておられる」
「やあ陛下。バリモント家よりまかりこしました」
「おいおいニコラ、なんだその頭」
平民らしい砕けたロズアラド語を話す彼らが次々と口を開くと、宮殿務めの貴族出身の侍従などはまず聞き取れない。目を白黒させて取次ぎをしようとするうちに、男たちはどんどん天幕に上がり込んでしまう。
一方の大公も激怒するかと思いきや、
「ボフダン! グリーク! イグナ、ダヌク! おお、ラシーの兄弟も来てくれたか!」
とそれぞれの名前を呼び、両手を広げて歓迎するのだった。年老いた侍従長は首を横に振って嘆息し、若い方は天幕布に張り付かんばかりになって目を見開いている。そこは傭兵たちの独壇場だった。
北方大公国ロズアラドは建国当初からふたつに分かれていた――貴族と農奴、搾取する側とされる側、威張る側とそうではない側、どんな横暴も許される側と……そうではない側。
農奴は大公アレクシオンの名の許に解放されたという。貴族の多くはまだその意味をよく呑み込めていない。彼らにとって領民は農奴である。とうのアレクシオンも友人と呼ぶ彼らのことを愛しても一線は引いている。
アレクシオンにとって平民たちは愛すべき民であり、守るべき子供であった。すなわち対等ではなかった。そしてすべての貴族もまた、彼にとっては自分より下にいるべき者たちだった。
仮に彼の治世において反乱が起これば、大公のすべての権限を用いて彼はそれを潰すだろう。たとえ反乱軍の中に友と呼んだ平民や貴族を見つけても、全員を処刑するだろう。長年の不平等な扱いによって金のない平民が金のなさゆえに不利益をこうむることにも、彼が心寄せることはない。アレクシオンが愛するのは己を助けてくれる実力のあった傭兵たちだけ。死者の名前を覚えているわけでなし、配下の者の家族の名前すらあやふやだ。貴族に横暴にされたと訴えられれば法律に則って裁きを下すだろうが、そこに彼個人の感情が入り込む隙間はない。
だがそんなことは、平民たちにだって分かり切ったことである。それはむしろ彼ら自身が認めた支配者として好ましい態度ですらあった。なんだっていい、土地を逃げ出した元農奴の傭兵に目をかけてくれ、利用価値がなくなった戦傷者にさえ土地を分配してくれ、結婚を祝福してくれたのは大公アレクシオンだけだった!
集まった貴族たちのうち勘のいい者だけが、アレクシオンが天幕に群がる平民どもの冷たい視線に気づいた。周りの貴族がくありとあくびをして大公を待つ間、時代の変遷を悟った。これからの時代の主役は、貴族だけではなくなるだろう。
大貴族の当主とそのお付きが前面に居並び、大貴族がその後ろに付き従う。小貴族、そして位が高くとも金のない貴族は人垣の後ろに追いやられ、城の使用人たちと同じ場所で佇んでいた。着飾った娘たちには気の毒なことだった。分厚い毛皮の外套を通して森の冷気が彼らに平等に吹き付けていたから。
大公が天幕を出て騎乗する。始まりの挨拶は何もなかった。彼は白い礼装軍服姿だった。その黒髪は光に照らされて一層映えた。赤い目は森の入り口と、その先にいる獲物だけを見据えている。――この大公は自らの手で鹿を撃ち、猪の首を短剣で搔き切るだろうと誰もが直感した。
大公の黒駒が合図を受けて走り出すと、当然のように平民どもが続いた。おう、おうと彼らは威勢のいい掛け声を上げる。案内人の猟師が慌ててあとを追いかけようとして、誰かから止められ、脇に避ける。彼は正解だった。大公の一団のあとを貴族の若様たちがどうっと馬を駆り立てて続き、その慣れない手綱さばきに苛立った馬はジグザグに近い走り方をしたからだ。
撥ねられなくてすんだ猟師が小さくなって見送る中、殺気立った一行は森の深くへ消えていった。貴族たちは互いに囁き合う。慣例によれば大公の狩りにおいて身辺に付き従う名誉は大貴族の令息にのみ許される、それを平民どもが破ったのだから、当然お咎めがあるに違いないと。
大貴族の優雅な時間を邪魔するまいと小貴族たちはぞろぞろあたりに散らばり、雪の残る木の根本にショールや絨毯を敷いて休憩する。これからはひたすら大公を待つ時間である。
彼らは他家の貴族と抑えた声で交流し、舞踏会が続くうちに見つけた友達と合流する令嬢もいた。華やかなドレスの裾が外装の裾からちらちら見えて、男たちの目を楽しませる。
その一群の交流の中、一家四人で参加していたカヴリラ伯爵家もリュディアの存在も、誰の目にも止まらないささいな情景の一つである。
やがて太陽がてっぺんに昇った昼も間近な時刻、ようやく大公の一行の帰還を知らせる角笛が鳴る。
そのときリュディアは森の入り口から少し離れた木陰で老婦人の手を擦っていた。どこのなんといったか、西方の少貴族の先々代の妻だった。息子家族は社交に忙しく、凍えた老婆の面倒を見てやる者が誰もいなかったのである。さすがに家族に見捨てられて膝を抱えたおばあちゃんを見捨てることは、リュディアにはできなかった。
「ごめんなさいね、ごめんなさいね……」
とがくがく震える老婆に自分の湯たんぽを抱えさせ、お尻の下に毛織物のショールを敷いてやり、リュディアは甲斐甲斐しく世話をする。
「いいんですよ、私の家族はそれぞれのお友達にご挨拶していますから。――ほら、角笛が聞こえるでしょう? 大公様がお戻りになれば場は解散になります。すぐ馬車に戻れますからね」
「獲物の、獲物のご披露まで場にいなくては……我が家が粛清の対象に……」
「大公様は傭兵の人たちと獲物を捌くと思うわ、だから貴族が見ていなくても関係ないんじゃないかしら。おばあちゃん。さ、お茶を飲んで。あったかいから」
簡易な給茶機を持ってきておいてよかった、とリュディアは思った。片手で持てるサイズの金属製の円筒で、リュディアの数少ない持ち物の一つだ。内部に熾火の炭か泥炭を入れ、外側の沸騰したお湯の温度を保つのだ。蓋のところにはポットとカップが収納できる。
リュディアはそれで老婆にお茶を飲ませ、彼女の震えが止まるまで背中を撫で摩ってやった。だから森から飛び出してきた一団にも、その中心にいるアレクシオンにも気づかなかったし、彼の方も丸々太った牡鹿とその巨大な角にばかり気を取られ、目の端かすることさえなかった娘と老婆の一幕など気づくこともなかったのである。
アレクシオンは草原の最中にどさりと獲物を投げ出した。傭兵崩れたちは歓声を上げ、おのおのの獲物をその後ろに並べた。大公がとった鹿が一番大きかった。
限られた大貴族を除いた大部分の貴族たちは、ここで初めて大公の尊顔を拝見した。その狩りの腕のみごとさも、帽子を取った汗ばんだ顔の秀麗な美しさも。
そもそも軍人と傭兵たち以外、戦争に関わらなかった貴族には顔も知られていなかった大公である。暗殺を避けるためお披露目を遅らせたとも噂されており、多くの貴族が陰険な顔つきのひょろひょろの男を想像していた。
だが実際はそうではなかったので、漏れた感嘆の息は本物だった。アレクシオンは堂々とした体躯の立派な若者だった。吊るした鹿の頭から角を外す手つきも慣れている。傭兵たちと気さくに言葉を交わす横顔は溌剌として若々しい。
おどおどと手を出しかねて遠巻きにする貴族の子息たちはともかく、その手つきを見て彼の地位だけでなく大公自身に改めて恋した令嬢も多かった。
小貴族たちは大公の雄姿を見届けると、誰に言われたわけでもなくぞろぞろと各自の馬車に戻り始めた。大貴族の馬車に先導された大公がリリン城に帰還を果たすまでに道を開けねばならなかったからだ。
今夜の夜会は正餐会の予定だった。大広間に詰め込まれた貴族が立ち話をする立食式ではなく、人が十人も寝転がれる長机を何台も出し、蝋燭と花を飾り、指定された席に座って食事と会話を楽しむ。そしてそこでは大公が仕留めた鹿が提供される。今日の会話は弾むだろう。この場にいる者には狩りを見られなかった者にその様子を伝える義務がある。
――大公の近くの席に座ることを許された大貴族たちはますます花嫁選びを加速させるだろう。
他者の思惑に流されることなどなく、アレクシオンは解体されていく獲物の様子に興奮した。彼は狩猟や戦争の流血、銃弾が風を切る音、泥の味、索敵魔法の魔法陣の起動する音、身体の血のめぐりが速くなる感覚が好きだった。もし自分が大公の子でなければ、十二歳のあのとき他国に逃げて猟師になっていたかもしれないと夢想するくらいには。
口の中に広がる鉄の味を飲み込んだとき、鋭敏になった耳がわずかなその音を捕らえた。
女の悲鳴だった。振り返れば森から少し離れた木立ちの中、若い男が使用人の娘の髪の毛を掴んで引きずっている。誰からも見られないでいると思ったのだろう、男の動きは性急で乱暴だった。事実、誰もが獲物と自分の仕事に熱中しており、彼らに目を留める者はいなかった。
アレクシオンは剣の柄に手をかけ、駆け出した。
「陛下!――っと、失礼!」
ニコラの第一の仕事はアレクシオンの身辺警護である。彼はやりかけの内臓の切り分けを放り出し、小さな狐の死体を飛び越えて主のあとに続いた。気づいた傭兵が数人、彼らに続く。あとの者たちはあえて素知らぬふりを決め込みつつ、不審な動きをする者がいないかお互いを見張る。
アレクシオンは駆けながら剣を抜いた。使用人の娘がいないことに気づいたのだろう、同じお仕着せ姿の中年の女が髪を振り乱して草むらや木陰を探し回っている。その脇を彼はすり抜けた。どやどやと駆けていく男たちに女はぽかんと立ち止まった。
「――俺は法令を布告したはずだぞ」
と、男に静かな声をかけた。中堅どころの貴族の、名前はなんといったか、ともかく長男ではないはずだ。男はどろりと濁った眼でアレクシオンを見、ぎりぎり腕を捕らえて押し倒した娘を見下ろした。足りない脳味噌が頭蓋骨の中でぐるぐる回転するさまが見えるようだった。
「大公様……」
と酒焼けした声で言い、のろのろ娘からどこうとする。娘の方は乳房が半分以上露出した服の前を抑え、声も出せずに震えて泣いている。
「人は奴隷ではない。その身体の権利は当人に帰属する。たとえ平民と主従関係にある貴族家の当主であろうと、人間を正当な理由なしに傷つけた者は罰を受ける」
アレクシオンは剣を振りかぶる。男はまだ状況が飲み込めないようで、ぱちくり瞬きをして緩慢な笑みを浮かべた。
「でも大公様、うちの領地じゃみんなこのくらいやってます――」
「そうか。ではお前の領地には監査が入る」
言いざま、アレクシオンは剣を振り下ろした。その軌跡は戦場に出たこともない者の目には見えないほど速く、男の右腕は切り落とされた。
一瞬ののち、凄まじい悲鳴が周囲に響く。男は肩から先がなくなった腕の断面を抑えてのたうち回った。
「ロズアラドの民はすべからく大公の持ち物である。勝手は貴族といえど許されん」
剣の汚れを払い、アレクシオンはそれを鞘に納める。斜め後ろについたニコラが苦笑を浮かべる。彼らはともに、微笑んでいた。北方大公国ロズアラドの新大公が定めた法が、正しく守られたのだ。喜ばないはずはない。
アレクシオンはもはや男にも娘にも興味を示さず、くるりと踵を返す。泣きながら走ってきた中年の女が娘に飛びつくのも、見えていない。
奴隷という呼称はなくなったが、平民たちの扱いは農奴であった時代とまるで変わらない。他領への引っ越しには危険が伴い、何の保護もないため実質移動の自由はない。重税に喘いでも誰も助けてなどくれず、神殿は沈黙するばかり。民はそれぞれの領地に見えない鎖で繋がれている。
だからこそ民はアレクシオンにとって財産だった。彼らは貴族のものではない。アレクシオンの、ただ彼だけの持ち物だった。
弱い人間を自分の庇護下に入れ、他の強い者の専横から守る。そもそも大公とは元々、そのような存在だった。
大公は国の守護者にして貴族の長であり、民の保護者であった。領主様の搾取から村を救ってくれた若者が実は大公であった、というおとぎ話は掃いて捨てるほどある。親たちから結婚を認められない男女はまず都リリンを目指す。大公様は親より偉いのだから、その祝福によって、結婚を許してもらおうとする。
大公は神々の寵愛を一身に受けた天上に近しい存在であり、だからこそアレクシオンはその座を欲した。彼が制定した新しい法律はすべて、古王国時代の君主が貴族を含め国のすべてを所有し支配する形態に基づいている。国に正しい法を根付かせたのち、彼は大貴族の粛清に取り掛かるつもりだった。
彼の父もそのまた父も貴族の言いなりにならざるを得なかった。だがアレクシオンは違う。
彼には平民出身の傭兵団という武力がある。貴族が従わぬと歯を剥き出すなら、痛めつけて服従させるだけの力がある――。
今日はいい機会だった、と彼は唇を歪めて思った。傭兵たちはおう、おう、と吠え声を上げ、隣の同輩と鞘同士を打ち合わせ、大公の為した正当な神罰代行を褒めたたえる。大貴族の老人どもの苦み走った顔!
アレクシオンは愉快だった。長くはない小道を辿って獲物の死体の元へ戻りながら、愉悦に浸っていた。
その目がリュディアと小さな老婆、老婆の家族らしい貧乏たらしい貴族の一家を捉えたとき、彼の足は止まった。
大公の注意を引いてしまったことに気づいた一家の長、老婆の息子は悲鳴を上げ母親を抱え上げた。妻と子供たちはわあっと走り出し、二人もあとへ続く。老婆だけが首を後ろに伸ばしてリュディアの様子を気にしている。
アレクシオンは男の返り血を浴びた顔で、呆然と、目を見開く。
リュディアは真っ青な顔で彼を見た。恐怖に満ちた紫色の目が丸く磨いた宝石のよう。
そして彼女は音もなく森の中へ走り込んでいった。スカートを両手で持ち上げて、一目散に、わき目もふらず。彼から逃げ出した。
アレクシオンはここがどこかわからなくなった。いや、上も下もわからなくなった。彼は白い軍服を獲物と人間の血に染めて、ただ阿呆のように立っていた――次の瞬間、リュディアを追って走り出した。
「陛下!」
「おい、誰か」
泡食った男たちが色めき立つが、ニコラは彼らの前に出た。
「まあまあ、落ち着いて。なんも心配いりませんよ」
「悠長なことを言ってられるか。森に暗殺者でもいたらどうするつもりだ?」
「そうだぞ。誰かがお供せにゃ……」
「あの娘は? ニコラ、知ってるのか?」
ニコラが見る限り、木の幹に隠れてリュディアの姿は貴族たちから見えなかったはずである。だがアレクシオン配下の男たちにはばっちり見えていたのだから、納得のいく説明をしなければなるまい。
貴族たちの集団から何人かが飛び出して、足早にこちらに向かってきている。時間はなかった。
彼は片目をつぶって小さな声で仲間たちにだけ囁いた。
「実のところ陛下には、春が来ているんですよ」
男たちは顔を見合わせる。さっきの娘が? と訝し気な声がする。リュディアの姿は確かに、大公のお相手を務めるにはいささか地味すぎる。
この噂は平民たちの間を駆け巡り、おそらく一週間ほどで貴族にも出回るだろう。だが許してほしい、とニコラは思う。
アレクシオンは今日でリュディアのことに決着をつけるだろう。ニコラの主はそういう性分の男なのである。