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「おねえさまあ、お湯がこぼれてるわ」
とマジョリーナは長椅子に寝そべりながら暖炉を指さした。火にかけられた琺瑯のポットは吹きこぼれている。リュディアは身をかがめてポットを取り上げ、飛び散った灰や濡れた薪を始末した。
「あなた人を動かすんじゃなく自分でもおやりなさい」
「はあい、はあい」
妹はくすくす笑って薄い冊子に目を通し、姉には目もくれないのだった。この子はいつもこうである。リュディアはため息を飲み込んだ。
「どこ行ってたの? おかあさま怒ってたわ」
「そのお母様とお父様はどこに?」
「おとうさまのご友人と再会したんだって。お宅へお呼ばれしてるの」
「そう」
「マジョリーナも行きたいって言ったのに置いてかれたのよ! ひどくない?」
リュディアは外套を脱いで壁の釘にかける。二つの部屋がある客室は上等なものだったが、さすがに四人で二つの寝台を分け合うような生活は息が詰まった。
「おねえさまと一緒にお散歩行けばよかった」
「とても寒かったから、また咳が出たかもしれないわ。来なくて正解だったわよ」
と妹を宥める口調が、早口にならないようリュディアは緊張する。本当は――気晴らしに散歩に行くと言って数時間だけ宿を開けたリュディアは、アレクと会っていたのだった。
都リリンは人の往来が激しい都市なので、主に貧困層の少年たちがメッセンジャーとして活躍している。情報が命の商人や目ざとい貴族が、港の管理人や隣国の友人から送られた一枚のメモのため金を払うのである。
リュディアの元に訪れたのはそんな少年たちのうち一人で、裏にアレクとだけ署名されたその手紙を見たとき、歯が欠けた裸足の少年にリュディアは抱き着いてキスしてやりたかった。人目がなければそうしていただろう。代わりに駄賃を弾んでやり、帽子を脱いで深々と頭を下げられた。
父母に見つからないようにこっそり物陰で見た走り書きは、昼頃に城壁広場で待っていると書かれていた。嬉しくて嬉しくて、天にも昇りそうだった。
城壁広場は文字通り、城壁の傍にある。城壁といっても都の果てというわけではない。
都リリンの範囲は実のところ、定まっていなかった。まず中心に大小の城壁で幾重にも囲まれたリリン宮殿があり、そのすぐ周りに貴族の住む区画が広がる。あとは商人や平民が住む区画にもならない区画、村や町が寄り集まったようなまとまりのない集落が群れとなって街を形成していた。
国が引いた馬車がすれ違えるほど大きな街道が五本、宮殿から東西南北と港へ続く南西に向けて伸びている。そしてあらゆる階層の人々がその街道にむけて勝手気ままに引いた小道が蜘蛛の巣のように絡み合い、人々の集落同士をつないでいた。
アレクはリュディアを城壁の南方に延びる街道沿いの市場に連れ出し、それは楽しい時間だった……。
彼女が見たことのない東から掘り出された宝玉、西からやってきた毛織物。南の国から来た果物、そして北の果てからやってきたカヴリラのそれに似た氷のかたまり。
氷は冬でも食べ物を冷やす氷室のために必要とされていた。リリンの気候は北方大公国ロズアラドにしては温暖な方だし、人々が多く集まればそのぶん備蓄が傷むのも早い。
「見たことないものばかり。楽しいわ」
と彼女は呟き、アレクはそれは嬉しそうに笑った。
「そうやって砕けた物言いをしてくれよ。俺に対して敬語なんて使うなよ」
「行儀が悪いって叱らない?」
「気にしないよ。周りを見てみろよ。誰も気にしてない」
そうして彼は踊るように彼女をリードして、市場の隅々まで見て回った。珍しい鉢植えとその種、全長より長い尾を持つにわとり、金や銀の鎖に下げられた宝石、翡翠のバックルのベルト。
アレクはあれは偽物だ、こっちも偽物、とけちをつけては笑い、それはちっとも嫌味な言い方ではなかった。
「本当にいいものは宮殿に入る前に貴族の懐に入る。ここらには出回らないさ」
「構わないわ。全部綺麗だわ」
「全部買ってやろうか」
「いらないわよ。やめて、やめて」
いつの間にか手を繋いで歩いていたと、誰かが見たら怒るだろうか? いいや、決してそうはなるまい。
宮殿にあれほど多くの貴族が詰めかけただけあって、連日の舞踏会のおこぼれをもらおうと平民もまたリリンに集結していた。仕事を探しにやってきた出稼ぎ者、物乞い、親のいない子供たち、日雇い人足、船乗り、兵隊崩れ、それから娼婦たち。修行の旅をする神官や、予言を売る巫女もいる。魔法使いのローブをかぶった怪しい人影がある。勝手に出店を開くなと怒って怒鳴り込む男はこの市場の商人たちの元締めを務める座長の息子らしい。
「親の威を借るしか能がないいくじなしの男さ」
アレクはリュディアの肘を抑え、騒動から彼女を遠ざけようと身体で庇いながら耳に囁いた。彼の吐息にリュディアはぽうっとなってしまって、話の半分も理解できたか自信がない。
「えーっと、でも、一歩も引いていないわ。勇気があるわ」
「仮にもリリンで市場を開くなら、あのくらいはできてもらわねば困る」
「詳しいのね。よく来るの?」
赤い目の端をポッと赤らめて、アレクはリュディアを見つめた。過去を想起する者の表情だった。彼は過去を思い出していた。
「昔、小さい頃。少しだけこのあたりに住んでいた。ここは変わらない」
「ずっとこんなに賑やかだった?」
「ああ。ずっと。あらゆる民とその生活があった」
「じゃああなたが守ってあげないとね。次の子供たちのために」
「――ん?」
間近を通ったロバが跳ね上げた馬糞混じりの泥を、リュディアは必死に飛びのいて避ける。アレクの胸に肩が当たって、その頑強さにくらくらする。
「あなたは戦う人でしょう? 国も、この街も、守るのが使命だわ」
アレクはリュディアの腰を掴んでひょいと持ち上げた。まるで子供をそうするような扱いにさすがに抗議しようと思ったけれど、彼がはにかんだ、あまりに浮かれた様子なので言葉を飲み込んだ。
「そうだ、そうだとも。俺はロズアラドのために存在しているんだ!」
何かがふっきれたようなあの顔と声。芯から嬉しそうで、幸せそうで、そう、まるで長患いの苦しみから解放された病人の家族のような様子だった。
――宿に戻って椅子に座り込み、リュディアは動けないでいる。脳裏には彼のすべてがぐるぐる回っている。赤ん坊の頭の上に吊るす玩具みたいに。笑った顔、りんごを齧った口元、滴る果汁をぬぐった手、リュディアの手を握る手の湿った感触。
(彼が欲しい)
そしてあわよくば。
(彼に欲しがられたい)
それはリュディアが経験したことのない強い衝動と感情だった。彼女は諦める方は得意だったが、その反対のことはまるきり知らなかった。
(でももし、彼に奥さんか恋人がいたら?)
自分はだめになってしまうかもしれない。かつてなく差し迫った恐怖として、リュディアはそう思う。
(血統魔法を使ってしまうかもしれない)
今まで一度も人に向かって使ったことはない。そもそも貴婦人の大半は生まれ持った血統魔法も一般魔法も使うことなく生涯を終える。
(私の魔法は――凶器。絶対使ってはいけないのに。どうしてこんな怖いことばかり思いつくの?)
物思いにふけりながらリュディアはカップをぐいっと煽ってぬるいお茶を啜った。
(どうしてこんな気持ちになるの? リュディア・カヴリラはこんな娘ではなかったはずなのに、いるかもわからない女性に嫉妬したりして。最近あなたはおかしいわ、リュディア)
魔法を暴走させて修道院に入れられる娘はこんな気持ちなのだろうか。もしそうなら、手が付けられない衝動をこれまでリュディアは抑え込んできてのではなくて、ただそれがあることを知らなかったのだということになる。
カップを戻して目を上げると、目の前ににやにやしたマジョリーナが立っていたので驚いた。
「な、なに?」
「おねえさま、恋してるのね」
「んっ、んんん」
げほ。不自然な咳をして沈黙する。だが妹の目を誤魔化せるものではない。
マジョリーナはふわりとシフォン生地のスカートをはためかせ、リュディアの隣の席に腰かけた。
「聞かせて? お相手は誰かしら。どこかの貴族? それともまさか、平民?」
「マジョリーナ」
「きゃああ。平民の男と貴族の女が。しかもこの都で!? どこに誰の目があるかわからないってのに。スキャンダルだわ。カヴリラ伯爵家の名を傷つけたら、お父様はきっとお許しにならないわよ!」
「ジョリー……」
リュディアはしおしお俯いた。昔から、母に辛く当たられるたび姉はこうなって図書室のカーテンの後ろに隠れ、妹が見つけ出して連れ出してくれるまでそうしていた。
「私だったら、恋した相手のためならどんな敵にも立ち向かうわ」




