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「宮殿で舞踏会……でございますか」


「そうとも。新大公の花嫁選びの宴だ。来週、雪が降る前に立つ。支度をしておけ。話は以上だ」


「はあ……」


 リュディアは慎ましく揃えた両手をピクリと動かし、うろうろ目線をさまよわせながら返事をした。

 父はすでに娘を見てもいない。

 用事は済んだといわんばかりに書類をめくってなにごとかを書きつける。

 そわそわした様子のリュディアに気づいて顔を上げた。


「まだ何かあるのか?」


 彼は書類を放ると、面倒そうに息を吐いてリュディアの顔を見つめた。


 父のパサパサした黒髪と男らしい巨体、鋭い目を見るたび、リュディアはものも言えなくなる。

 それは自分の赤茶けたこげ茶の髪に紫色の目、青白いばかりの肌が気おくれさせるのかもしれなかった。


 リュディアはなんとか勇気をかき集めて、言った。


「ドレスがありません」


「何?」


「大公様の舞踏会で踊るための、その、夜会用ドレスが。持っておりません」


「何?」


「成人の時に仕立てていただいたのが一着ございますが、それきりです」


「仮にもカヴリラ伯爵家の長女がなんたることか! 乳母は何をしておった!?」


 バァン、と机を叩いて父は怒鳴った。

 リュディアはひゃっと首をすくめた。


「一昨年、肺炎で亡くなりましたよ……」


 そしてこの家の中にリュディアの味方は一人もいなくなったのだ。


 父は唸り声を上げると椅子を蹴って立ち上がった。

 手を振って娘を呼ぶので、リュディアは慌ててついていった。

 廊下を彼らは無言で歩いた。

 いつもそうだ。

 リュディアは父と個人的な会話を交わした覚えがない。

 ごく幼い頃は違ったかもしれないが、記憶にない。


 ゾルゲイ・カヴリラは厳格な貴族の男であり、領主であり、父親だった。

 今は亡き大公フェリュードラに永遠の忠誠を誓っていた。

 偽大公アルクルが処刑され、新しく即位した若き大公アレクシオンに形の上では服従したが、彼の心は先の大公にあることを誰もが知っていた。


 石畳の床は冷たく、リュディアの爪先は室内履きの中であっという間に氷のように冷たくなった。

 季節は短い秋の終わり。

 北方大公国ロズアラドはこれから一年の半分を占める厳寒へ向かおうとしている。

 石造りの城というより要塞のようなカヴリラ城は、背後にそびえるロゼアル山と前方に広がる雪原によってより堅牢に守られるだろう。


(お父様も都へ上るおつもりなのだろうか……)

 無表情に父の後を追いながら、リュディアは忙しなく考えた。


(新大公は残酷な男だと聞くのに、舞踏会だなんて華やかな催しを急に開催するなんて。

 おかしいわ。

 ひょっとして……)

 リュディアはぶるりと身震いした。

 それは明り取りの天窓から吹き込む冷気のせいばかりではない。


(舞踏会に集めた反対派や気に食わない中立派の貴族を一斉に殺してしまうつもり、なのかも)

 それはありえない妄想ではなかった。


 新大公アレクシオンの半生は血にまみれていた。

 剣術に秀で、反対する者は容赦なく斬り捨て、癇癪持ちで気まぐれに行動し楽しみのために村ひとつを滅ぼすことさえもあった。

 彼が退屈すると開催される魔物狩りや大規模な巻狩りにより、ひとつの山から小型の魔物や鹿や猪が消え失せることもあった。


 非常に背が高く、体格もよく、そして顔の方もはっと見とれるほど美形だという話だったがこれは誇張されている可能性がある。

 新しい国の主人を悪く言う必要などないのだから。


 リュディアが事実として知っているのは、アレクシオンが農奴たちの呼び方を平民と言い換えると宣言したこと、簒奪者の叔父を殺して大公位を取り戻したこと、大貴族の一部はいまだにアレクシオンを認めずその治世にはいまだに血が流れていることだけだ。


 そんな彼がよりによって舞踏会?

 冬季に催すということは、非常に長期な大パーティーになるはずだ。

 都に集められた貴族たち全員を十分満足させるだけの財力があることを示すのだろうか?

 ほんとうに、それだけ?


 リュディアは身を縮めて父の後にしずしずと従う。

 彼女にできるのはとにかく従順に、怒鳴られず殴られないよう過ごすだけ。

 それだけだった。


 父は廊下を渡り切り、母と妹が過ごす奥棟の扉を開いた。

 カヴリラでは使用人はほとんどが武人で、他の貴族家のようにただ扉を開ける役目のためにいる美少年や、銀の杯を捧げ持つだけの美女がいるわけではない。


 短い廊下を父はずかずか歩く。

 足の先は外側に向き、膝もがくがくしている。

 父の歩き方も動き方もまるで戦場にいるようだった。

 彼は長い年月を戦場で過ごした男だったので、言動は粗野で荒々しい。


 母の部屋からは軽やかな笑い声が響いている。

 母と妹だ。

 リュディアは自分の背筋が強張るのを感じた。

 父はこの世の全ては俺のものだと言わんばかりの勢いで扉を開けた。


「――あら、どうしたことかしら」


 母は氷のように冷たい目を父娘に向け、横を向いて憎々し気に顔を歪めた。


 リュディアの母タミア・カヴリラは美しい人だった。

 くるくると渦巻く金髪、青い目、ほっそりとした身体つき。

 王都で生まれ育ち、政略結婚によって父と夫婦になり、田舎のカヴリラに住み着かざるを得なかったことを未だに恨んでいる。

 母のことを言い表すにはそれだけで十分だった。


 母の足元には彼女に瓜二つの美貌の妹マジョリーナがしどけなく座り込んでいた。

 どうやら二人して刺繍に興じていたようだ。


 母は夫に似たリュディアを遠ざけ、自分に似たマジョリーナと一緒にいることを好んだ。

 それももっともだとリュディアは思う。

 彼女だって自分よりマジョリーナを傍に置きたい。


「あ、おねえさま」


 とふんわりマジョリーナは笑う。

 母に似た金髪をいじりながら立ち上がり、たたっとリュディアに駆け寄ってきた。


「お前、リュディアの世話をしていないのか? 家族はそれぞれが犠牲を払い、役目を果たすから成立する。それをお前は怠ったのか?」


 父は低い唸るような声で言う。

 母はしゅうしゅう言う蛇のように冷ややかに応戦した。


「いきなり人聞きの悪い。あたくしが悪いと決めつけているかのよう……」


 父はくるりと首だけを後ろに動かす。


「二人とも、出ていけ」


「はい」


「はあい、おとうさま。おかあさまをあんまり怒っちゃいやよ」


 マジョリーナがくすくす笑いながら手を振るので、リュディアは本当に心臓が止まるかと思った。

 リュディアが同じことをしたら怒鳴りつけられるだろうことも、マジョリーナはひょいひょいとできてしまう。

 物心ついて以来ずっとそうだったので、驚く必要はないと頭では分かっているのだが。


「いこっ、おねえさま」


「……ええ」


 妹に手を引かれてリュディアは部屋から逃げ出した。

 胃がしくしく痛んでいた。


 庭園は冬季ともあって寂れ果てている。

 冷たい空気を吸い込むと鼻の奥がつんとした。


 カヴリラで冬に育つのは高地に生息する雪割草と、室内に置いておけば花をつけてくれるランの一種くらいだった。

 雪が降れば一面が銀世界になり、それは夏が間近になるまで溶けることがない。

 カヴリラは北方大公国ロズアラドの、もっとも北の領地だった。


「もうっ。おとうさまったらああいう言い方しなくってもいいのにね? おかあさまもガンコなんだから」


 マジョリーナは美しい金髪を肩に跳ね上げて笑う。

 きらきらと輝く鱗粉を振りまく蝶の妖精のようだ、とリュディアは思う。

 母と妹はつくづく似ていた。


 かつてリュディアは愚かなことを考えたことがある。

 母がこんなにも自分を嫌うのは――マジョリーナばかり可愛がり、二人を比較してリュディアが俯かざるを得なくなるような物言いをするのは、リュディアの母が別にいるからではないか?

 と。


 父が結婚前に手を付けた平民から生まれたのが自分だとすれば、母の言動にも納得がいく。

 むしろそうあってくれと思っていたのかもしれない。

 その可能性に彼女は縋り、ある日とうとう父におずおずと尋ねた。


 愚かなことをしたものだった。

 本当に愚かな。

 馬鹿なことをいうなと鞭打たれた跡は長く背中に残った。


 あのときからリュディアは期待することをやめた。

 何かをしたいと思うことも、妹のように憧れる騎士の英雄譚に胸をときめかせることもやめた。

 そうしてみるとカヴリラはいいところだった。

 静寂と雪の土地。

 父母の機嫌を損ねなければ日々は平穏だった。


 だから、日光に照らされて背の低い並木の間を歩くマジョリーナの流れる黄金の髪、華奢な手足や踊るように優美な足取り、たっぷりとした凹凸のある体つきを見てもリュディアは柔らかく微笑むことができた。

 自分の背が高いばかりで瘦せぎすの身体だとか、夕日や暖炉の火に照らされると血だまりみたいに真っ赤にさえ見えるこげ茶の髪だとか、そういう不器量さと妹を比べなくてすんだ。


 ――自分はここで生きて死んでいくのだ、と受け入れたら、全部が楽になった。


 それに、マジョリーナは本当にいい子で愛らしい。

 何一つとして鬱屈としたところがない。

 どんよりと曇った冬がこれからも続くカヴリラで、彼女の笑顔は太陽そのものだった。


「ねえ、おねえさま? おとうさまなんで怒ってたの?」


「私がドレスを持っていないと言ったら、怒ってしまわれたの」


「ふうん? でもおねえさまドレスもレースもフリルも嫌いだし、刺繍もお嫌いじゃないの。おかあさまはおねえさまのお好みに合わせてあげてるだけなのに、怒るなんておとうさまがヘン! おとうさま、すぐ怒る」


 ――リュディアは挙げられた全部が好きだし、綺麗な恰好をするのも好きである。

 だが彼女は何も言わず、小さなつぼみのまま越冬する薔薇の垣根に手を入れた。


「見て、マジョリーナ。あなたの好きなピンクの薔薇のつぼみがあるわよ」


「どれどれ? あっ、ほんと。うふふ! かーあわいい」


「少し摘んで、砂糖と煮てジャムにしましょうか。あなたとお母様はジャムを入れてお茶を飲むものね」


「やあよ。薔薇がかわいそう。植物に優しくしてよ、おねえさま!」


 マジョリーナは嬉しそうに笑った。

 零れるような笑顔にリュディアは嬉しくなった。

 妹の笑みはまるきり、赤ちゃんのときと同じ笑い方だったのだ。


(この子は昔から変わらない。

 素直で愛される性格をしている)

 胸に沸き上がりそうになった黒い何かを、リュディアは押さえつける。


(この子がいてくれるから、お母様とお父様は決定的な衝突をしなくてすんでいるのよ)

 リュディアではだめだった。

 最初の子供が男児ではなかったことが、夫婦の不和のもっとも深刻な断裂の原因だった。

 その後生まれたマジョリーナも女児だったことに父は怒り狂ったと聞く。

 だがマジョリーナがあまりに愛らしい子供で、母もリュディアはともかくマジョリーナの世話は屈託なく行ったので、父は母を許したのだった。


 記憶の中の一家団欒といえば、父と母とマジョリーナが三人で暖炉火に当たっている光景が思い浮かぶ。

 リュディアは少し離れたところで絵本を読んでいる。

 マジョリーナが話すと二人は笑う。

 リュディアが話すと母が鼻に皺をよせ、話し続けると部屋を出ていってしまう。

 だから話さないし、反抗しないし、主張もしない。

 したくない。


 リュディアは家族を愛している。

 決して理想的なかたちではないけれど、それでも彼らは家族なのだから。


 冷たい空気を切り裂いて、母の怒声が響いた。

 じゃあどうしろと言うんですか?

 これ以上あたくしから何か奪うんですか!

 父の声は今は宥める調子だが、そのうち妻以上に大音量になるだろう。

 二人は……失敗した夫婦だった。


 姉妹は顔を見合わせてため息をつき、家の中へ戻った。



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