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一章『嘘吐き』

目の前で、記憶を失った君が、花瓶に飾られた小さな野花に顔を近づけ、無邪気に笑っていた。その屈託のない笑顔を見るたび、俺の胸はちくりと痛む。だって、この穏やかな日々も、君のこの笑顔も、俺が積み重ねた嘘の上に成り立っているからだ。

あれは、夏の終わりの、少し肌寒い雨の日だった。

「ねえ、明日、七時。いつもの公園の桜の木の下で会おうね。どんなことがあっても、絶対だよ」

そう言って、傘の中で君が俺の小指に絡ませた指は、ひどく冷たかったのを覚えている。あの夜、俺たちは些細なことで口喧嘩をして、結局、仲直りしないまま電話を切った。そして、翌朝、俺は熱を出して約束の場所には行けなかった。ベッドでうなされながら、俺は何度もスマホを手に取ろうとしたが、体は鉛のように重かった。あとで連絡すればいい。そう言い聞かせた、たった数時間の猶予が、俺たちの日常を粉々に砕いた。

そうして雨の中、来るはずもない俺を待ち続けた君は傘も刺さずに公園に向かう途中にトラックに跳ねられた。

病院で目覚めた君は俺の顔を不思議そうに見つめて、「どちら様ですか?」といった。医者は一時的な記憶障害だといった。混乱する君を前に俺は咄嗟に心の中にあった邪な考えを口にした「俺は君の幼馴染で、婚約者だ。」

これが俺が君についた最初の、1番大きな嘘だった。

プロローグ『偽りの始まり』

俺の名前は新庄新シンジョウ アラタ

目の前で花をじっと見つめているのは橘美咲タチバナ ミサキ

事故から四ヶ月、美咲は驚く程に回復した。最初は歩くのもままならないような状態だったのが、今では元気に歩いて会話もなんの不自由もない。ただ、彼女の頭の中は事故以前の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。特に俺たちの関係性については完全に。

「この花きれいだね、正人。名前なんて言うのかな?」

美咲の声にハッと我に返った。もちろん俺の名前は正人なんかじゃない。そして幼馴染でも、ましては婚約者でもない。ほんとの俺たちの関係は今ここでみさきに言えるようなものではなかった。

「ああ、それはね、確か『エゾフウロ』って言うんだ。小さいけど、花言葉は『変わらぬ心』だよ」

俺は、また一つ、嘘を紡ぎ始める。そう、君の「婚約者」である「()」として。俺は美咲の隣に腰を下ろし、彼女が摘んできた小さな野花をそっと撫でた。美咲は嬉しそうに俺を見上げた。その瞳には、何の疑いも、過去の陰りもない。

この三ヶ月間、俺は完璧な「正人」を演じ続けてきた。美咲の好きだったもの、嫌いなもの、口癖、思い出の場所。全てを調べ上げ、まるで何十年も前から知っていたかのように振る舞った。本当の正人が、今どこで何をしているのか、俺には知る由もない。ただ、もし彼がここに現れてしまったら、この脆い日常は一瞬にして崩れ去るだろう。

「正人って花に詳しいんだね。昔から?」

「まあね。君がよく摘んでくるから、自然と覚えちゃったんだ」

俺は適当に言葉を濁す。美咲は「そっか」と納得する。

窓から差し込む光がやけに眩しく感じる。そんな俺の視界は偽りの色に染まっている。この幸せで残酷な偽りの日々がいつまで続くのかは俺には分からない。

ただ君が笑顔で過ごせるなら、俺は何度でも嘘をつくと決めている。

これは嘘から始まった偽りの恋の物語。そしていつか暴かれるであろう残酷な真実までのプロローグ。

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