転
少しだけ陽の傾きかけたスラム街の路地裏で、槍を肩に乗せて不敵に笑う男。その圧倒的な存在感に気圧される。抗いようない強者だと思っていても自然と口角が上がる。
どんなに拳や蹴りを振るっても届かなかった。
けれど、此処で引くことだけは絶対にできない。
「数多の神々が創りだし世界の一つ。そんなありふれた世界でも犯してはならないルールは存在する。
神の定めたバランスを人が犯してはならないと。
なのに彼女は誤った道を選択した。
誰もがあの美しさと強さに焦がれ、誰もが彼女を欲した。
そう、誰もが彼女の圧倒的な力が欲しかった!
神々の万の軍勢を相手にも、誰にも靡かず、誰にも屈せず。ただひたすら己の道を一人突き進む。
誰よりも人に甘く優しく、不遇な人の世を嘆き、溢す涙は黄金となり、その黄金は無垢なる人々を救う。
更には神々に見捨てられた枯れた大地を歩めば、そこは豊穣の大地と化す!
誰よりも優しく、誰よりも不徳を嫌う。
人々の無垢なる真摯なその願いを、誰よりも叶うことを願う!
そんな孤高の女神に選ばれた君は、本当にその資格があるのか!」
「資格だあ、そんなの知ったことじゃねぇんだよ! ああ、確かに出会いは最悪だ。だってそうだろう。死んだと思ったら暇つぶしの駒になれってよ!
けどよ、あいつの気持ち、あいつの想いを受け入れたんだよ! 今更、否定なんて出来ないだろうが!」
全ての力を振り絞り、俺は立ち上がると血の混じった唾を吐く。
左足を前に踏み込み、震える右手を引いて、男の顔面目掛けて拳を振るう。
「僕にここまで抗い、拳一つで挑んできたのは、君が初めてだ。けれど、その拳は僕には届かない」
気力を振り絞った、想いをのせた拳は、その想いを否定されたように空を切る。
逆に男は完璧なタイミングで踏み込み、拳を突き上げるように小さく鳩尾に振るった。その強烈な衝撃は全身に広がる。
振るわれた拳で少し体が持ち上げられ、男が拳を引くと、俺はそのまま前に倒れた。
「どうした、本気出しなよ。狂気に満ちた人を殺すための技を。君が幼い頃から血反吐を吐きながら仕込まれた技をさ。己の意思とは関係なく人の命を刈り、ただ命じられるがままに人を殺す、道具としての技を。さあ、立てよ。そのくらいの痛みで、倒れる君じゃないだろう」
くそがっ、好き勝手言いやがって。
ああ、そうだよ。これくらいで倒れることなんて許されなかったよ。けどな。爺さんはだからこそ、大切なことを俺の魂に刻んだ。
「勘違いしてんじゃねぇよ。俺が仕込まれたのは己の意思で、己の信念を突き進む為の技だ」
ゆっくりと腰を上げ、両手で踏ん張りながら両膝を曲げて起こす。最後の気力を振り絞り、ゆっくりと立ち上がる。
「なあ、おまえ馬鹿なのか。倒れてる時に殺さなかった事を後悔すんじゃねぇぞ」
腰を折ったまま、体を揺らしながら、ゆっくりと上半身を起こす。
ああ、もう力が入んねぇ。視界もぼやける。
あと一発か。でもあと一回も拳を振るえる。拳を一回当てるだけでいいんだからよ。
「最高だ! こんなに心が躍ったのは君が初めてだ。彼女が君を選んだ意味が僕にもわかったよ!」
互いに避けることなく、渾身の拳を全力で叩き込む。
けれど、俺の拳は男の頬を掠めただけに終わり、逆に俺は拳を斜め上から振り下ろされて地べたに叩きつけられた。
意識が遠ざかりかける。それでも必死に立ちあがろうと抗う。
「僕の名はアレースだ。いずれ最強となった君の命を刈り取る者だ。今は安心するがいい。僕がこの世界にいる限り、誰にも君に手だしはさせない」
地を伝う音で男が去っていくのを感じる。
負けたことなのか。それとも、見逃されたことからなのか、悔しさで強く歯噛みした。
いつの間にか降り始めた雨が背中を打つ。
雨で身体中の熱が奪われていく。
最後に心に浮かんだのは雪乃の笑顔。
そんな雪乃に向けて、何度も何度も謝った。
去ってゆく男に、一人の女が寄り添うように歩み寄る。
「本当にこれで良かったの。あなた、彼女に殺されるかもよ。私が彼女の立場ならそうするし」
「だよなぁ。僕も本当はこんな役目引き受けたくなかったけどさぁ。僕以外の奴等なら問答無用で彼殺しちゃうじゃん。そうなったら、あれだろ」
「まあ、大変なことになるよね。でもだよ。アレースもお役目失敗。または叛逆の疑いありって処罰されるよね」
「じゃあ君はさ。彼女と他の奴等。どちらを敵にまわしたくないと思う」
「そんなの決まってるじゃない。フレイヤの敵になるなんて、絶対に嫌よ」
「さすがは僕の愛しのアフロディーテ。僕も全く君と同じ意見だよ。そしてね。フレイヤは彼に人の範囲でしか力を与えていない。だから僕は彼の味方をしようと思う」
アフロディーテが疑いの眼差しを向ける。
「正直に言ってごらんなさいよ。怒らないからさ」
「いやぁ、彼が強くなったら遊ぼうかと」
アレースは頭を掻きながら答えた。
「楽しそうだったもんね」
「ああ、楽しかった。だってさ。勝てないと分かっていても立ち向かってくるんだよ。好きな女性の為だけにさ。そんなの同じ男として共感するし、好感が持てるだろ」
「結局、あなたも男の子なのよね。良かったね。気の合いそうな友人候補が見つかって」
「なんだよ。男の子って」
「棒切れ振りまわしてばっかりの、クソガキってことよ」
「酷くない」
「的を射てるでしょ」
「……はい」
雨に煙る中で、二人は霧に包まれるように消えていった。




