表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

97/118

第3章47話 シャナレア・ワンズ④

 シャナレアが実家に帰ってからの日々は、起伏も色彩もなく淡々と流れるようだった。


 突然、手紙一枚を残してリベリオのもとを去り、二度と戻らないつもりだった貴族らしい大きな屋敷に帰ったシャナレア。両親は、そんな彼女を奇妙なほど優しく迎え入れた。

 一度として罵声を浴びせることはなく、涙を浮かべた父と母だったが、シャナレアはその涙が自分のために流されたものでないことを知っていた。


 婚姻の式は一週間後に迫っており、帰ってからのシャナレアはそのための決まり事や作法の練習など、結婚式の準備で、忙しくしていた。しかし、当日まで貴族の老人と会うことはなく、少なくともその事実に、シャナレアは安堵していた。

 兄は一度だけ顔を合わせたが、シャナレアに対する失望を隠さず、一言も言葉を交わさなかった。



 結婚式当日。

 多くの人に祝福を送られたが、心の底から言を紡ぐものは誰一人としておらず、全員が心の内で栄華のための人柱として売られるシャナレアに憐憫を浮かべていた。


 純白の花嫁衣裳は、現実感がなかった。

 この神聖な服装は、もっと大人になってから着るものだと、ずっと思っていた。十一歳のシャナレアがこんな服を身に(まと)ってみても、おままごとのように滑稽だった。

 

 バージンロードの先に立っていた老人は、以前と何の変わりもなく、嫌悪感を煽る視線をじっと向けていた。シャナレアが隣に立つと、細々とした腕を肩に回した。もう逃げられないぞと言われているようだった。

 結婚式は、貴族が主催しているとは考えられないほどの小規模な形で行われた。老人自身も五十以上年の離れた少女との婚姻は体裁が悪い自覚はあったのか、あまり公にはなっておらず、指輪の交換も誓いのキスも省略された。


 式が進められる最中、シャナレアは、リベリオが乱暴に聖堂の扉を開ける場面を、ずっと夢想していた。しかし、滞りなく式が終わったとき、その権利を自分から放棄したのだと気づいた。最後まで扉は開かれることなかった。



 こうして、姓を改め、シャナレア・ワンズとなった。


 そして、結婚初夜を迎えた。

 式を終えたシャナレアは、そのままワンズ家の屋敷に行き、小さな宴会が開かれたが、それもすぐにお開きになった。シャナレアは、ワンズ家の従者に命じられるがまま、体を清め、そのまま寝室へ通された。部屋に入るとすぐに扉が施錠された。

 当然一人用の寝室ではない。広い幅のベッドは、広々とした部屋の中央に置かれていた。部屋には、他に幾つかにクローゼットがあるだけで、寝台以外は何もなかった。

 

 「しばらくお待ちください」と言われ、一人になったシャナレアは、違和感を覚えた。中央のベッドが目立ちすぎるせいで、初めは気づけなかったが、この部屋にはクローゼットが多すぎる。

 シャナレアは、一番近いクローゼットを恐る恐る開けた。

 すると、そこには大量の工具が入っていた。頭に疑問符を浮かべたシャナレアは、その後幾つかのクローゼットを開けて理解した。他にも鞭やら拘束具やらが、それぞれのクローゼットに仕舞われていた。何か薬品のようなものもあった。


「……本当に、悪趣味」

 

 それらの器具たちは、過去に老人の手に渡った少女たちの行方を雄弁に物語っていた。

 とぼとぼと、力なくベッドの端まで歩き、腰を下ろすと、ベッドは深く沈んだ。きっとこの寝室は、多くの少女たちの苦しみと絶望で満たされている。そしてシャナレアはその行列の最後尾に加わろうとしているのだ。


 ふと、自分の来ている服に意識がいった。レースを上から被せた下着のような服は、ほとんど肌が透けて見えていた。これらすべてがあの老人の趣味で、今の自分は紛れもなく老人のための玩具なのだと納得がいった。


 ドアが開き、シャナレアの肩がびくりと強張った。


 老人は薄いバスローブだけの姿で現れた。開いた胸元から見える肌は、シミが多く黒々としており、酷く不健康で汚らわしいものを体に蓄えているように見えた。


 のしのしと歩く老人は、シャナレアの隣に腰を下ろす。


「君が家出をしたと聞いたときは、どうなるかと心配したよ」


 男がこちらを凝視して、肩に腕を回す。逃げようとしたシャナレアは身を(よじ)らせるが、簡単に体を捕まえられ、身を寄せられた。老人の体臭がぐっと強くなる。


「私は君を気に入っているんだ。その様子だと聞いているだろう、私の悪趣味を」


 老人はシャナレアの肩にあった手をゆっくりと撫でおろす。最後にはシャナレアの手を掴み、それに顔を寄せた。


「君たちのような未成熟な体が発するが全てが、私の神経を過敏にさせる」


 呼気が、シャナレアの皮膚に触れて、吐き気に近い不快感が湧き上がった。


「この肌の透明感は、熟れた女たちは持ち合わせていない。匂いもそうだ。汗と、もともとの肌が持ち合わせる乳のような甘い香りが混ざった匂いは、欲情を煽る。格別だよ」


 じっくりとシャナレアの腕を見回すと、手の甲に舌を這わせた。気味の悪い温度が、ねっとりと皮膚の上の残った。


「声もいい。破瓜の瞬間の呻きも、肌を裂いた瞬間の悲鳴も、薬で狂い恍惚に喘ぐ声も、どれも熟れた女より、ずっと素晴らしい」


 シャナレアは恐怖のあまり、声も出なかった。老人はシャナレアをベッドに押し倒すと、そのまま右足首を掴んで持ち上げる。レースが捲れて、腹部から太ももにかけての細いラインが露わになった。老人は満足そうな顔で、太ももに接吻し、そのまま歯を立てた。シャナレアからか弱い悲鳴が上がる。


「私が不潔に見えるだろう、私が臭いだろう。それはお前が清潔で、お前がいい匂いをしているからだ」


 太ももから流れる血を舐めとった老人が覆いかぶさるように迫る。老人を拒もうとするが、肩を強く押さえつけられて身動きが取れなかった。


「安心しろ。私に汚されることで、お前の美しさが損なわれていくことで、徐々に慣れていく。だが簡単に慣れてくれるなよ。少しでも長く藻掻き足掻いて、自分の美しさを守ろうとしろ。私の悪趣味が終わったとき、お前はお前が思っているよりもずっと汚れた存在になるだろう。だから、少しでも長く私を楽しませろ」


 老人が、シャナレアにぐっと顔を寄せた。首筋の匂いを深く吸い込むと、ニヤリと口元を吊り上げ口端に溜まった唾が強調された。一度、顔を離した老人は、シャナレアの潤んだ唇を、汚い唾液と臭気で汚し貪るために、迫った。


 真一文字に引き締められたシャナレアの口と、老人の舌が触れそうになったとき、ポンッと水中で何かが弾けたような音が響いた。


 シャナレアの間近にあった老人の顔が、大きく目を見開いた状態で停止した。しばらく硬直していた老人を、シャナレアが足で押しやると、そのまま力なく地面に倒れた。


 目と鼻と耳から血を滴らせて、二度と動くことはなかった。老人は死んでいた。─────否、シャナレアが魔法を以って殺したのだ。


 シャナレアの風魔法の才能が開花したのは、紛れもなくこの瞬間だった。


 シャナレアはまだ力の入らない足で、老人の倒れている逆側のベッドから抜け出す。しなびたように床にへたり込んだシャナレアは、まだ正常な呼吸ができない状態で、自分の掌を見やった。


 空気を弾けさせた感触、脳髄を内側から破壊した感触、老人を殺した感触。


 そのときは言葉にできなかった。だた、とても不愉快な感触が掌に残っていた。


 ああ、私は汚れてしまったのだろう。


 シャナレアは長い時間、その場所で自らの手を眺めていた。




 ――・――・――・――




 そこから、シャナレアにとって淡々として面白みのない日々が始まった。

 十一歳の若さで結婚。その直後に夫が他界し、ワンズ家の家督を継いだシャナレアの元には、多くの大人が押し寄せた。


 知恵の足りない子供に付け込んで、ワンズ家の財産と利権を掠めとろうとした者が大半だった。

 しかし、そんな悪い大人たちから、財産を守れたのは、法律家の兄の協力と、シャナレアのずば抜けた風魔法の才能があったからだった。


 シャナレアの元を訪れた貴族に、居場所を常に把握し、声を拾い続ける『風印』をつけ、口に出す悪巧みを全て盗聴したシャナレアは、兄の助言をもとに罠を仕掛け、その貴族たちを次々に手中に収めた。味方が増えるほど、貴族に必要な知識が増え、今の立場を盤石なものにしていった。


 裏切りや謀略などの汚れ仕事に躊躇いはなかった。自分の手は、結婚式の晩に汚れてしまっていたからだ。


 シャナレアの両親たちは、ワンズ家との借金の約束が無効になり、あらゆる金回りが破綻した結果、没落した。

 個人的な雇用契約にあった兄も、それなりに両親に恨みを募らせていたようで、既に縁を切って、今は所在さえ知らないらしかった。



 自分の用いる魔法が、『風詠み』と呼ばれ、国に重宝されていることを知ったシャナレアは、ワンズ家の運営を全て兄に譲渡し、騎士庁に入庁した。


 家柄と能力を買われたシャナレアは、異例の速さでの出世をしていった。


 このときには、軍部省からの誘いもあったが、全く関心を示さずに騎士庁に残り続けた。



 ————俺と対等な関係でいてくれる相手がいい。



 シャナレアは心の中で、リベリオの語った言葉を何度も反芻した。



 ————戦っているときに、後ろにそいつがいると心強くなれるような、そいつを守るために俺も強くあれるような、そんな人が俺の好みだよ。



 あの日の酒屋で、酔った二人をあしらうようなリベリオの覗かせた、わずかな本音。シャナレアは、そんなリベリオの好みに近づくために、懸命に努力した。


 シャナレアが一人で出て行ったあと、リベリオは騎士として王都に残り、目まぐるしく活躍した。魔獣の騒ぎが起きるたびにリベリオが新聞に載り、気づけば新たな特位騎士の有力候補となっていた。


 シャナレアの目標は、特位騎士につきっきりになって仕事の補助をする、特位仕官という役職だった。

 そうすれば、特位騎士となったリベリオの隣に立って、今度こそ彼と共に生きることができる。それだけが、シャナレアの生きる理由だった。




 シャナレアが十五歳になったとき、シタン地方という、王都カナンから南方にずっと下った場所で事件が起こった。

 過去に幾度と凄惨な被害を生みだした、最低最悪の魔人や魔王という呼び名で恐れられた『血』の魔人ダンテによる魔人災害だった。地方の小規模な街のほとんどの人が亡くなり、次代の予見の巫女候補とされていた少女も命を落とす凄惨な事件だった。


 その場所に赴いて、ダンテを退けたリベリオは、その功績から正式に特位騎士に任命された。この出来事は大きな被害を生んだ事件で沈んだ国民の心に活力を与えるために、大々的に報じられ、凄惨な出来事を洗い流そうと多くの人が盛り上がった。


 このときのために根回しを済ませていたシャナレアは、特位騎士リベリオの特位仕官として任命された。


 遂に願いが叶う日が訪れようとしていた。



 国王による特位叙勲式には、多くの人が訪れた。他の特位騎士である、『千剣』ロンドと『万世氷山』ブラックガーデン。そして生まれたばかりのヴァルユート皇太子もアシュリー王妃も参列し、国全体がお祭り騒ぎだった。


 こうして、リベリオは特位騎士となり、見事に夢を叶えた。多くの人がリベリオのもとに押し寄せ、それぞれに祝福の言葉を送った。

 特位騎士としての任務も、仕官のシャナレアとの顔合わせも次の日に予定されていた。明日、衝撃の再会を果たすのだと胸に決めていたシャナレアは、そっとその場を離れ、明日に期待を膨らませていた。



 朝一番で聞いたのは、リベリオが特位騎士を辞任したという報告だった。


 明朝、騎士庁総監の机にリベリオの書いた辞任表が置かれており、その後、騎士庁総監はリベリオとの連絡を図ったが、本人は行方を眩ませており、事情は何もわからなかったという。


 シャナレアは理解できず、しばらく頭が真っ白になっていた。

 担当の特位騎士が失踪したことから、特位仕官就任は一度見送りになった。だが、それら一連の出来事をシャナレアは何も覚えていなかった。

 心のどこかで仕方ないと思う部分があった。だってそうだろう、私は汚れてしまっているのだから。そんな脳の中で何度も響く声を、頭を振って打ち消した。



 仕事を辞めて探してもよかったが、いまのこの仕事が最も情報が入ってくると踏んだシャナレアは、騎士庁で風詠みをする傍ら、リベリオの行方を追った。


 風詠みとして王国中の情報に目を通しては、休みの日もリベリオを探して王都を歩き回った。そんな日々が五年も続いた。




 そんなある日、リベリオとの唐突な再会を果たした。


「……よお、懐かしいな」


 そう口にしたリベリオは、雨に濡れた捨て猫のようにボロボロだったことを覚えている。シャナレアは衝動的に体が動くことはなく、少しの逡巡のあとでリベリオを抱きしめた。案の定、リベリオは決して抱きしめ返すことなく、「すまない、やっぱり期待には応えられない」と言うだけだった。


 シャナレアは便宜を図って、騎士として復帰を望むリベリオを準特位騎士として再登録をした。

 コーレル地方での仕事を望むリベリオの要望を叶え、シャナレアもそれについていくように、コーレル地方の騎士庁舎の所長の座に就いた。こうして七年の歳月を経て、リベリオと同じ立場で仕事をするという夢を叶えた。


 しかし、リベリオは昔と違って、他者に対して完全に心を閉ざしていた。



 それから八年ほど、リベリオとシャナレアは仕事仲間であった。最後までリベリオはシャナレアの恋心に振り向いてくれることはなかった。しかし、付き合いが長かった分、リベリオの過去を知ることはできた。

 それでも共犯者どまりで、結局リベリオからの信頼を得ることができていたか怪しい。


 リベリオに届かないと思うたびに、自分の汚れた手を眺めた。今思えば、そんなことはあまり関係がなかったのだと思う。



 少なくとも、最後に彼の心を救ったのは、ニアという少女だった気がする。




 ――・――・――・――




 ああ、どうして私はこんなことを思い出しているのだろう。


 結局、リベリオも死んでしまったし、今になっては余計な責任と期待ばかりが両肩にのしかかっている。

 ほんとうは、もう勘弁してほしいのだが、まわりはなかなかこの気持ちを汲み取ってくれないのだ。

 もう、何もかもから解放されて、楽になってしまいたい。

 

 そんなことが過ったとき、シャナレアは、自分が今どうなっているのかを思い出した。



 騎士庁本部に集まった風詠みたちの焼死体がそこら中に転がっている。

 シャナレアの耳には、王都全体を包囲するように魔獣が迫っていることを告げる声が届いている。しかし、シャナレアにもそれを他の誰かに届ける気力はなかった。


 胸に深々と刺さる、魔獣の刃。口からむせ返るほどの鉄の匂いがして、周囲は燃えているのに、体は寒い。

 シャナレアは白み始めた視界に、諸悪の根源と言えるその存在を捉えた。


 そう、全てこいつが悪い。こいつさえいなければ、リベリオも死ななかった。


「ああ、怖い怖い。死に体なんだから、もっとゆっくり走馬灯でも見ていればいいものを。よくもそんな恐ろしい顔ができたものだ。流石はシャナレア・ワンズ局長だ。……ああ、今は情報本部長だったね」


 沢山の魔獣を従えた『契約』の魔人クォーツは、そう煽情的にシャナレアを見下していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ