第3章43話 アンの災難②
『獣』の魔人ティヴァという存在を、予見の巫女アンは知っていた。
三カ月前の戦争でその魔人は初めて人前に姿を現した。たしか、テルの過去を探っていたときだっただろうか。残酷で短慮な性格で、極端に人を嫌い、見下している。
そんな視線が今まさに、目の前にいる『獣』の魔人本人から注がれている。
蛇に睨まれた蛙の気分は、きっと今のアンと近いだろう。全身の筋肉が固まって、ゆっくりと迫る自分の死に対し、傍観以外許されていないようだ。
「——————ッ!」
唸り声のような絶叫のような奇妙な音が響く。アンはそれがエイミーの叫び声だと気づいたと同時に、ティヴァとアンの間に砂のカーテンが舞い上がった。
「うわっ」
「エイミー!」
それがエイミーから放たれた魔法であると、すぐにわかった。エイミーは立ち上がってアンの後ろに回ると、そのまま車椅子を押して、横道に駆け込んだ。
エイミーは恐怖で腰を抜かしたようにしていたが、アンとの友情か、使命への忠誠心か、家族を守るための責務か、あるいはそれら全てがエイミーを奮い立たせた。
アンがエイミーの顔を見上げると、見たことがないほど必死の形相だった。衛兵がいるところまでいけば、なんとか逃げ切れるかもしれない。そんな希望を胸に抱いたとき、背後からそれをかき消すような叫び声がした。
「アタシも追いかけっこ大好きだぞ! ほおら、逃げろ逃げろ。捕まったら死ぬより辛い目に遭うぞ!」
間違いなく、ただの脅しでは済まないだろう。そんな恐怖を燃料にしたエイミーが走る。アンは体を倒して後ろを覗き込むと、ティヴァはまだ佇んでいたままで、闇夜に浮かぶ赤い瞳が浮かんでいた。
追いかけてこないティヴァに、アンは決して易い期待を抱かなかった。『獣』の魔人の手の内は知っている。奴は、自ら労力を割くことをしない。
ティヴァはあたりに小さな粉を撒くと、それは途端に膨張し、瞬きの合間に生き物の形をとった。現れたのは三体の狼型の魔獣だった。
王国を苦しめた『獣』の異能が、アンのために使われたのだ。
「権能入りの目ん玉は、お姉さまが欲しがってるから、丁重に殺すんだぞ。ほら、行け」
「エイミー!」
アンは意味がないとわかっていながら叫び声をあげた。エイミーは初めから全力で走っている。しかし、彼女は体を動かすのがそれほど得意ではないうえに、アンを乗せた車椅子を押しているため、魔獣が追いつくのも時間の問題だった。
激しい呼吸で涎を撒き散らしながら、狼の魔獣が迫る。先頭の一匹がエイミーを射程に収め、大きく飛び上がった。
「『炎弾』!」
アンが振り向きざまに指を向けて詠唱を叫ぶと、狼の体が炎に包まれやがて灰になった。エイミーは何が起こったのかを確認することもなく、走ることだけに専念している。残りの二匹は、同胞の死に臆することなく一直線に近づいてくるので、そのまま照準を合わせて魔法を放つ。
「『炎弾』、『炎弾』っ!」
全ての魔物が燃え尽きた。魔人は先ほどのところから一歩も動いていないため、ずっと遠くに見える。
「チッ。大人しく死ねっつたのが聞こえてなかったみたいだぞ。無駄に足掻いてんじゃねえぞッ!」
怒声とともに投げ放たれた砂は、さっきの狼よりもずっと大きく膨張していく。いつまでも際限なく大きくなっていき、膨張が収まると、それは大きく翼を広げた姿だった。
馬車を丸々持ち上げてしまいそうな怪鳥は、金切り声をあげる。あれほど巨大な翼なら、羽ばたくだけで車椅子が横転してしまいそうだ。
「『炎弾』!」
アンが声と魔力を振り絞る。しかし、怪鳥を前にしたアンの魔法は蝋燭の火ほどに頼りなく、羽に当たるとあっけなく霧散した。怪鳥はそれが攻撃だったとさえ思っていないかもしれない。
舞い上がった怪鳥が、月と星の光を遮って、アンとエイミーの足元に陰を落とす。明らかに暗くなったことで、アンは咄嗟に上を向いた。
そのときには、怪鳥が二人を目掛けて急降下を始めていた。怪鳥の鋭い鉤爪でアンだけを攫うのか、それとも怒りで予見の宿る右目の存在を忘れて、巨大な質量で押し潰そうとしているのか。どちらにしても、あの怪鳥を止める術はない。
もう終わりだ。
死を悟ったアンは、何故か酷く穏やかな気持ちになった。首をそのままエイミーのほうに向ける。きっと何を言っても間に合わない。だから最後にせめてお礼を言おう。
「エイミー、いままでありがとう」
独りよがりな感謝に、エイミーは大きく目を見開いた。返事どころか、言葉の意味を飲み込む間もないのだろう。上を向いていないのに怪鳥の姿が視界に映る。もう目を瞑る暇さえない。
大きな衝撃が辺り一帯に響くと、土煙とともに石畳が一斉に捲れ上がった。芝生の上には大きなクレーターが生まれており、その場所にいた者は跡形もなく砕け散っただろう。
————しかし、それは仮定の話だ。
アンとエイミーは、土煙の向こうで、誰かが自分たちに背を向けているのが辛うじてわかった。
そんな誰かと正面に向かい合っているのは、いつの間にか二人に追いついていた魔人ティヴァだった。
「お前、誰だよ」
不機嫌を通り越して殺意に満ち満ちたティヴァの言葉。恐れたように横に流れていく土埃は、魔人に立ちふさがる人物の姿を露わにした。
「僕はパーシィ・ブラックガーデン。我が父アインライブ・ブラックガーデンの名に懸けて、それ以上の狼藉は、僕が許さない」
鋭い視線で睨み返すパーシィに、ティヴァは一度面食らったような表情を浮かべると、やがて鬼さえ震えあがるような、黒々とした激情に染まった。
「その名前、聞くだけで死ぬほど不愉快だぞッ!」




