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第3章37話 白亜の狼煙①

 冷たい風を切って、夜の王都をテルは走った。

 長い時間滞在していたつもりはないが、王城を出た頃には既に太陽の気配はなく、点々とまばらに星が瞬いていた。

 街灯が等間隔で置かれ、まだ人が出歩いている。そんな中を全力疾走するテルは、少なからず不審な目を向けられていたが、それどころではないテルは疲労で重い体に鞭打って、目的地まで急ぐ。


 脳裏に何人もの顔が現れては消えていく。


 国王、そして予見の巫女との会話でレイシアの監禁の理由を知ることはできたが、肝心のレイシアの居場所は最後までわからなかった。狙いを最後まで聞くこともせずにテルは退散したが、おそらく彼らもレイシアを探すであろうことは予想がつく。大戦争のきっかけになり得るレイシアを放置するわけにはいくまい。


「さきに見つけて、すぐにこの国を出る」


 小さく決意を呟くと、急に周りの景色全てが敵になったような、心細さが芽生えた。


 この国は最後までレイシアを自由にするつもりがない、ということはアンとの話から、嫌というほど理解できた。ニアもそれを話せばきっと理解してくれるだろう。ブラックガーデンは、立場上テルたちを追わなくてはいけないのだろうが、なんとなく彼が敵対する場面が想像つかず、悪い想定を首を振って打ち消した。初めから、レイシアを捕らえることができただろうし、そもそも育休中だと言っていたので、大丈夫なはずだ。


 曖昧な希望論に縋るテルは、四番区の外れのブラックガーデン邸にやっとたどり着いた。


 大きな門の前には、純白の少女が不安そうに立っていて、テルの姿を見ると大きく目を見開いた。


「テルっ……!」


「ああ、ニア!」


 ニアの元まで走って近づくと、そのままニアの両肩を持つ。ニアの肩に居座っていたイヴがその揺れで地面に降りた。

 テルとは違って、物騒な戦いには関与していないのでニアに怪我があるはずもないが、体の奥から安心感が込み上げた。

 しかし、ニアはどうかというと、しばらく留守にしていたと思えば、傷だらけで帰ってきたのだから、心中穏やかではないだろう。


「その傷は……」


「いや、大したことないよ。それより、レイシアは帰ってきてる?」


 強がりを言ったテルが、離れ家の方にちらと目をやるが、明かりがついていない。


「帰ってない。セレスも探しに行くって言ってどこかに行っちゃって……」


 ニアはそう言って、不安を押さえつけるように声を小さくして、テルの服の袖を握った。一人で不安だったのに、誰かが返ってきたときにすれ違わないために、この場所に残ってくれていたのだろう。


「わかった、俺ももう一度探しに行く。ニアには寂しい思いをさせちゃうけど、もう少しだけ待ってて…………、ニア?」


「……」


 テルを見上げるようにして話を聞いていたニアだったが、ふと、何かの音を聞いたように王城と逆の方角に視線を向ける。まるで猫のような素振りに、テルは首を傾げたが、ニアからの返事はない。

 何かあるのだろうか。そんな風に、テルも同じ方向を見ようとしたとき、血管に刃物を当てられたような、冷たい感触の嫌な予感が全身を震わせた。


 大砲を打ち出したような、大気の震えは、地獄への蓋を開けたような、おどろおどろしい咆哮だった。

 薄暗い夜の王都で、大きく大地を揺らして現れたのは、白い塔のような巨大な竜だった。


 全身が淡く発光しており、小さな頭が太く長い胴体の先端にある。そのアンバランスさは、竜というより、芋虫と呼んだ方がしっくりくるが、何よりも目につくのは、発行する胴体に幾つも張り付く、卵のような球体だ。テルはそれに見覚えがあった。


「母胎樹……!」


 テルがシャダ村で魔獣との戦争で巻き込まれたとき、まだ剣を握って間もなかったというのに討伐を任された、際限なく魔獣を生み出す規格外に巨大な魔獣だ。


「前よりも、ずっとデカい……」


 前の母胎樹は、全身を川の中に隠しており、全容を見たわけではなかった。それでも、断然大きいと断言できてしまう。あれほどの巨体は、移動するだけで甚大な破壊を生み出すのは想像に易い。


 レイシアの居場所がわからないタイミングで突如現れた母胎樹。それが意味するところを、否応がなく理解させられたテルは、息を飲んだ。王家と『契約』の魔人にまつわる話を知ってしまった今、この状況は最悪に限りなく近い。


「多分、レイシアは魔人と一緒にいる」


「……ッ」


 声も出ない悲鳴とともにニアの顔色が悪くなった。


「俺はレイシアを助けに行く。ニアは安全な場所で待ってるんだ」


「でも、テルも傷が……」


 そう言って、ニアは血と泥で汚れたテルの肩に触れる。


「もう平気だよ。これくらい別に大し……いづッ」


「……」


 ニアが乱暴に触れたわけではないのに、テルの口から呻くがこぼれ、強がっていることがすぐに露見した。

 先ほど王城に向かうまでに、神聖属性の魔石での応急処置はもう済んでいた。なので、自分では大して痛んでいないつもりだったが、一度緊張感が途切れたせいか、痛みが蘇ってきた。そもそも、魔石で治せないような大怪我だった可能性も否めない。


 その悲鳴に手を引っ込めたニアは、口をきつく閉じて、訴えかけるような目をテルに向ける。涙で潤み始めた悲痛な紅の瞳に、テルの胸が掴まれたように痛んだ。


「そんな顔するなよ、心配いらない」


「無理だよ、そんなの……」


 ニアの肩に手を置くと、すぐに首を振られる。我ながら難しいことを言っている自覚はあった。

 魔獣と魔人。リベリオが死んだときに近い条件が整っているのだ。これで心配にならないわけがない。

 どれだけ止めてもテルが行ってしまうと気づいていたのだろう。ニアはテルの手を掴むと、思いを飲み込むように顔を下に向ける。震えるニアの手は、とても冷たい。


「絶対にレイシアを連れて戻ってくる。だから、ニアの治癒をかけてくれないか?」


「……いいの?」


「うん、頼む」


 ニアに恐る恐る聞き返され、テルは真っ直ぐ頷く。

 内心、今更だなと思いつつ、ニアの躊躇いは理解できた。ニアの治癒はおそよ神聖魔法とは呼び難い。邪悪な感覚と無理矢理に肉体の状況を書き換えられるような拒絶感に、被治癒者の精神が耐えられず、吐いてしまうのだ。そう言った理由からニアはいつも相手が眠っているときにしか治癒をかけないし、治癒をかけても何も言わない。


 しかし、正面から頼み込まれれば、それほど断る気もないようで、慎重な様子でニアは手を伸ばし、テルの胸に当てた。

 テルは、いつあの感覚が来てもいいように呼吸を整え、目を瞑る。するとまもなく、おどろおどろしい治癒がテルに流れて込んだ。


「ぅっ……」


 全身を浸す嫌悪感に、テルは思わず荒い息をこぼす。そのまま吐瀉物も口から這い出そうとしたが、それを懸命に飲み込むと、ニアから流れる魔力が止まった。


「終わったよ、大丈夫?」


 覗き込むニアに首の動きだけで答える。体内で沸騰しているような胃液をなんとか堪えきると、全身の痛みがなくなっていることに気づいた。


「……。よし、絶好調。流石ニアだ、ありがとう」


「ごめん、辛かったよね」


 気丈に振舞ったテルだったが、その効果は薄く、申し訳なさそうに視線を低くしたニア。イヴもそんなニアを不安そうに見上げている。


 助けてもらったのに、どうして悪いことをしたような顔をしているのか。まだ抜けきってないニアの過剰な自責意識に、少しだけ呆れつつも、その本質は他者への慮りであることは間違いないのだ。

 ニアが優しい人である限り、きっとこの先も誰かを癒すたびにこうしてニアはニアを責めてしまうのだろう。だったら、その度に自分がニアを励ましてあげれば良いだけだ。


「普通の治癒魔法を使えればよかったのに」


「いや、それは困るよ」


「え?」


「だって、俺はこの治癒がやみつきになっちゃってるからさ。もう普通の神聖魔法じゃ満足できない体になってるんだ」


 恥ずかし気もなく発せられた軽口に、ニアは呆気にとられたように小さく口を開けた。ニアを励まそうと思っての発言は不発に終わり、完全にスベったテルは気まずそうに目を逸らす。しかし、すぐに「ふ、ふふっ」と風船から空気が漏れ出たような笑いが聞こえた。


「……もう、そんな強がりを言わなくてもいいのに」


「本心だよ。戻ってきたらまたお願いする」


 調子に乗るテルに「ふぅん」と口端を上げたニアは、テルの頬に手を伸ばした。不思議そうにしながら頬を差し出すテル。すると、急にさっきと同じ邪悪な魔力が頬を伝って流れ込んだ。


「ひゃんッ!」


 あまりにも予想外な出来事に、テルは肩を飛び上がらせて、珍妙な悲鳴を上げる。

 驚きと恥ずかしさで混乱するテルに、いたずらな笑顔を見せたニア。二人は数秒無言で見つめ合うと、ほとんど同時に噴き出して笑った。


「あんまり怪我はしてほしくないから、無理はしないでね」


「うん。俺にやれることが終わったらすぐに戻るよ」


 テルがそういうと、ニアの足元に控えるイヴが、さっさと行けと言わんばかりに「キュウキュウ」と鳴いた。


「じゃあ、行ってくる」


 短く言い残して、ブラックガーデン邸をあとにしたテルは、走る速度をぐんと上げた。夜の風は冷たく、遠方に見える母胎樹は悍ましい咆哮を上げている。それでもほんの少しニアと話ができた喜びが、テルを悲観的な考えから遠ざけた。



 あっという間に小さくなったテルの背中が見えなくなるまで、ニアは門の前に立っていた。

 イヴはニアの足に手を掛けて、早く家に戻ろうと訴えている。


「ごめん、少し待ってね」


 ニアは、構ってちゃんのイヴを抱き上げるとまた肩に乗せる。機嫌よさげに擦り寄るイヴを「くすぐったいよ」と(たしな)めながら、高くそびえる母胎樹にじっと視線を向け続ける。


 そんなニアを、イヴは心配そうに見ている。帰りを待つのが、大事な役目なのもわかっている。それでも、その役目に甘んじることが、正しい選択なのか。


「今、私に、できること」


 ニアのちいさなつぶやきが響いた。星の少ない夜で、まばらに浮く雲は、すぐに風に流されてしまった。


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