第3章36話 赤錆色
場面は数時間前まで遡る。
時刻は夕暮れ。
誰もが満足感と疲労感を表情に湛え、それぞれの帰路についていたような、休日の終わり。
そんな平凡な一幕に身を置くべきではない、非凡な人物二人が西日に照らされていた。
眠り心地の悪い揺れに目を覚ますと、今この瞬間、自分は何者かに背負われているのだとすぐに気づいた。生憎、重ねるべき父に幼少期の思い出はないので、それがすぐに異常事態の延長線にあると理解する。
「ちょ、どういうこと!?」
「あ、起きた」
レイシアが勢いよく体を起こすと、紫髪の青年が顔をこちらに向けた。自分を背負っていたのが、思い寄せる少年ではないことに小さくない絶望感を覚えたあと、この人物は自分を誘拐すると宣言した魔人であったことで、レイシアの胸にさらなる絶望が襲う。
「軽すぎじゃない。もっとご飯食べたほうがいいよ」
レイシアの逃走のための身じろぎを完全に封じながら、親戚のような軽口を述べる魔人。どこか悠長に見える魔人を前に、レイシアは努めて冷静になった。
魔人を前に意識を失ったとき、レイシアは二度と故郷の地を踏むことはできないと思っていた。しかし、実際は今日と同じ明日があることを疑わない人々のど真ん中。しかも王城が見えるので、まだ王都カナンさえ出ていないことがわかる。
「どういうつもりなの!?」
「どういうって、何が?」
純朴な目で聞き返すゼレット。間の抜けた魔人の受け答えに苛立ちを覚えながらも、レイシアは声を張り上げ続ける。
「私を攫ってどこにいくつもりなの!? どうしてこんな場所で……って、あれ?」
癇癪を起したように大声を出すレイシアは、周囲の違和感に首を傾げた。注目を集めて危機を脱しようと目論んで、精一杯に声を上げていたのに道行く人はまるでこちらを見ていない。
「残念だけど、今の君の威圧感じゃ、誰も君を意識しないよ。器用でしょボクの異能」
得意げに語るゼレットを前に、レイシアはここから逃走することが困難であると悟った。引きこもりだったお姫様は、敏捷さでも腕力でも太刀打ちできるわけがない。
「どこに向かうの・・・・・・?」
「この先の喫茶店だよ」
「はあ?」
聞き間違いかと思ったがゼレットには他者を陥れ弄ぶ際に見られる嫌な表情の歪みもない。
「本気で言ってるの?」
「あくまで指示されただけだからね。でもボクも同感。何考えてるんだろ」
そう言った魔人が立ち止まったのは、本当にただの喫茶店の入り口の前だった。
いつだったか読んだ小説にあった挿絵通りのありきたりな店構えを前にし、レイシアの困惑は積もるばかりだ。
「じゃ、君がその店に入るのを確認したらボク行くから」
レイシアから目線を逸らさないゼレットは、仕事に対して真剣なのか投げやりなのか最後まで判断ができなかった。このまま、レイシアがこの店に入れば魔人の監視から解放されると考えれば、そうしない手はない。
そう考えたレイシアはしなやかなカーブの持ち手を掴むとドアを押した。
「いらっしゃい」
そう言って出迎えたのは、やはり何の変哲もない喫茶店と身長は低いがどこか大人びた女性の店員だ。喫茶店は小さいが賑わっていて、全ての席が埋まっている。小柄の女性はレイシアを見ると、とても明るい笑顔を見せた。
血が乾いたような赤錆色の髪の鮮やかさが嫌に目を引く。
「ああ、やっと来たんだね。そうだな……、そこの奥の席が空いているから座っていて」
明るい口調の女性の言葉に、レイシアは違和感を覚えた。
店の内装はこじんまりしていて、それほど席も多くない。なので、レイシアは入ってすぐ満席だったことを確認していた。だが、女性が指さしたほうの席は確かに空席になっていた。
さきほどのあそこに座っていた老夫婦はどこにいったのだろう。
そんなことを訊けるはずもなく、レイシアは自分が呼吸をしていなかったことに気が付いた。
ああ、いやだ。今すぐここから逃げ出したい。
魔人ゼレットとの繋がりうんぬんという理屈よりも先に、直感が「こいつと関わってはいけない」と警鐘を鳴らしている。今すぐこの恐ろしい場所から逃げろ。
すぐさま踵を返し、喫茶店を飛び出そうとレイシアは考えた。しかし、そうしようと足に力を入れるが、何故だか動かすことができず、悟った。弱者は怪物を前に、逃げ出すことさえ許されないのだと。
「ほら、ぼおっとしてないで」
そう言った赤錆色の女性は、レイシアの手を優しく引いて、彼女の言う奥の席に連れていく。言われるままに椅子に座らされたレイシアは、全身の震えを懸命に堪える。周りを見ても、レイシアのように今際の際を自覚している人間は誰もいない。
赤錆色の女性が、客と客の間にある狭い隙間を通り抜け、厨房にいる店主と思われる男性に声をかけると、多くの人が魅力を覚えるであろう笑みを浮かべ、レイシアの元に戻ってきた。
「はいこれ、サービス。ブラックだけど飲める?」
赤錆色の女性からコーヒーが差し出され、辛うじて僅かに頷く。すると、赤錆の女が頬杖をついて、窓から見える景色に目を向けた。
「この席いいでしょ。ここが一番人気の場所なんだよ。この店は私と私の主人の二人で切り盛りしていて、ちいさなお店だから生活していくには大変でね。だけど、毎日賑やかで、お客さんは親切だから、ここまでやってこれているんだ」
そう語る赤錆色の女性は、今にも鼻歌を歌い出しそうなほどに上機嫌だ。
「ロッチーは、ああ、主人の名前ね。それでロッチーは凄く善良な人なんだ。身寄りのない私を、邪険に扱うこともなく、結婚してからも威張ったりしない。きっと誰から見ても素敵な“旦那様”なんだと思う」
赤錆の女が結婚している、という事実にレイシアは一瞬目を見張り、あからさまな反応をしてしまったことに後悔する。しかし、赤錆の女はそんなレイシアの反応を楽しむように、じっと視線を外さないまま、話を続ける。
「私は、彼が私の結婚相手という役割を全うしてくれる限り、私も妻として彼を愛そうと思っている。結婚という契約は、そういうものだから。そして、私は従業員という役割もあるから、余り長い時間こうしてお喋りを続けることもできない」
「……何の話をしているの?」
レイシアが震えた声を絞り出すと、「契約でこの世界は成り立っているって話だよ」と赤錆の女が指を立てて言う。
「人が人を殺してはいけない、という誰もが了承している道徳的規律は、人間の善性が維持しているものじゃない。本当は、『私が誰かを殺さないのは、私が誰かに殺されないため』、なんていう誰も口にしないし文字にも表さないような暗黙の了解があるから。全ての人が誰との間に持つ、見えない契約に基づいて人々は生活しているってこと」
「だからね」と言った赤錆の女の口元から、凶気が溢れ出す。
「私は、彼の唯一の欠点に対して、どんな罰を科すべきか頭を悩ませているんだ。彼が何をしたかわかる?」
怒ってもいるし悲しんでもいるし、それ以上に嬉しそうな女の顔が、人間から程遠いものに思え、レイシアは動くことができない。女はレイシアの反応を、質問の答えがわからないものと判断して、「人生経験を積むことも叶わなかったから仕方ないね」と言って笑った。
「あの人、浮気していたんだ。私のことを『キュートで守ってあげたくなる』なんて言っておきながら、隣の区の若くて胸と尻の大きい女。あーあ、って思ったよ。それでしばらく泳がせてみたら、なんと三股をしていたよ。流石にこれは私もびっくり。こんなこと初めてだから、笑っちゃったね。もしかしたら私の知らないところで子どもを作っているのかも」
そう口にして女が指を鳴らす。レイシアは初め、何かをされたのだと身構えたが、自分の身には何も起きず薄目を開く。
そして、すぐに気づいた。満員だった店内から、誰もいなくなっている。
何が起きたのかわからない。自分は一歩も移動していないのに、部屋から目の前にいる女を除いて、跡形もなくいなくなってしまった。
「……ぅっ」
悲鳴を押し堪える。しかし、漏れ出た小さい声ですら、空っぽな空間に反射した。
差し込む夕日が、急に禍々しい色で室内を照らしているような気がした。血の一滴もないまま、誰もが姿を消した。しかし、レイシアには、あの誰もがまだ生きているとは思えなかった。
「彼は子供を欲しがってたからね。私との間じゃ子供ができるわけないし、情状酌量の余地はあるかもしれない。だけど、結婚という契約を交わしていたんだから、これは紛れもない契約違反だと思うんだよ」
店の奥、旦那がいた方向を、ぼんやりと眺めながら机の上を指で撫でる女。おもむろに視線を上げると、また笑った。
「君もそう思うでしょ、レイシア・L・ソニレちゃん?」
「……っ!」
レイシアはもはや声を出すこともできない。考えることを避けていた最悪な展開が、あるはずがないと思っていた絶望的な予感が、今、現実となって目の前に広がっている。
「反故にした契約は、いずれ何かしらの代償となって帰ってくる。それが世界の摂理であり、私はその体現者だ。……ああ、そういえば名乗ってなかったね。今更必要はないかもしれないが、それが私の規律なんだ」
ねっとりとした視線でこちらを絡めとる。害意、敵意、殺意。どの名前も当てはまらないような、邪悪な赤錆色の視線は、この世の全てを飲み込んでしまいそうなほど、あかい。
「ソニレ王国の旧くからの契約者にして、十三魔人議会が一席。『契約』の魔人、クォーツ」
魔人の髪と同じ色で、世界が染まっていく。レイシアもまたあかに飲まれているが、色に反して全身が凍えるように冷たい。
「短い付き合いだと思うけど、どうかよろしく」
魔人クォーツが、レイシアに手を伸ばす。ぼんやりとあかく染まっていた視界は、クォーツの手で顔を覆われたときに、完全にあかくなった。
悍ましいほどのあかの中で、耳鳴りだけが響いていたが、しばらくして暗転した。




