第3章32話 掌の上
三つ巴の激戦を制したテルは、ゼレットからの頼りない情報を基に二十五番区の喫茶店に向かって走っていた。
四番区での戦いは、公園を更地にしてしまうほどの激しさで、近隣の人までその騒ぎが広がっており、テルがこっそり抜け出したときには、野次馬の人だかりができているほどだった。
しかし、区をいくつか跨いでしまえば、そんな騒がしさもなく、夜の落ち着いた雰囲気が広がっていた。十一番区の繁華街は人通りが多く、明るい照明の店構えのせいか、空に浮かぶ月も輝きが鈍っていた。
魔人が関わった現場なので、喫茶店とその周辺は相当の騒ぎになっているだろう、というテルの予測は大きく外れた。
「普通だ」
誰もが疑いなく日常を過ごしており、そこに平穏を脅かされた気配は一切ない。
「コモレビ通りの喫茶店……」
ゼレットが嘘を吐いていないとすれば、ここには誘拐された王女とその黒幕がいるはずだった。しかし、開店中を伝える吊るし看板も、店内からこぼれるあたたかな照明も含めて、どこにも異変はない。
テルは息を整えると、ドアベルが軽快な音を立てた。
「……誰もいない?」
ただならぬ緊張とともに入った喫茶店。しかし、その店内には客を歓迎する声も、談話もせず、誰一人としてそこにはいなかった。
「開店中って書いてあったよな……」
もぬけの殻になった店で、困惑したテルは周囲を見渡す。
テーブルの上には紅茶の入ったカップや食べかけのケーキの皿が放置されており、つい先ほどまで誰かがここにいたような痕跡が残っている。
まるで全員が突如として失踪したような、そんな不気味な雰囲気にテルは唾を飲んだ。
「ゼレットに騙されたか……?」
最も可能性が高そうな予想を口にする。しかし、何かが起こったような不穏さが店の中に満ちており、あながちゼレットが嘘を吐いているとも思えない。
そんなふうに、腕を組んで、うんうんと唸っていたテルの背後で何かが倒れるような物音がした。
「間に、合ったか……」
驚いて振り向くテル。そこには、ぼろぼろになりながらドアに寄りかかるように立っていたヴァルユートだった。
テルと同様、レイシアを追ってきたであろうヴァルユート。店内はテルしかいないが、「間に合った」と発したことに、テルは引っかかりを覚えた。
「見ての通り、レイシアどころか人っ子一人いない」
「……今は、貴様に用がある」
深刻そうな顔つきのヴァルユートは鋭い視線を突き刺すようにテルに向けている。その言葉に敵意はない。しかし、恨みのような同情のような因縁を思わせるものがあり、そのどちらも身に覚えがない。テルは困惑を隠すように沈黙で返す。
「既に事態は最悪に向けて進んでいる。今はいがみ合っている暇はないのだ」
「お前、何がしたいんだよ」
「俺は大局を、何十万という命を失わないために動いている」
「俺に構うことが、その命に関わるのかよ」
目的が見えないテルは、馬鹿にするような口振りでヴァルユートを見た。しかし鋭い青藍の瞳は、テルを捉えたままピクリともぶれない。
「そうだ」
「……意味がわからない」
冗談を口にしたこともなさそうな人物が、深刻そうに冗談未満のつまらない言葉を並べている。理解が追いつかないテルは不快感を前面に押し出して、拒絶するように首を振った。
「俺についてこい。貴様が知りたがったことも、貴様が知らなくてはいけないことも、全て教えてやる」
言いたいことを一気に言い終えると、ヴァルユートはテルに背を向けて店の外に出た。一人、室内に取り残されたテルは腹の内で火が燃えるような感覚を抑え込んでいた。
空中庭園で、レイシア幽閉の理由を尋ねても慳貪な対応だったというのに、今度は教えてやるからついてこいなどと一方的言われては、苛立ちが募るばかりだった。
しかし、その誘いはテルにとって無視し難いものであった。
両者にとって、レイシアの保護が最優先事項であることは同じだった。しかし、その優先順位が、ここまでのどこかのタイミングで明確に入れ替わった。入れ替わった理由が、レイシアに全く関係のないこととは考えづらく、そうであればテルにも無関係ではない。
そして何よりも、「知りたかったこと、知らなくてはいけないこと」という言葉が、どうしてもシャダ村で会った包帯の男ダダイの言葉と重なった。
ダダイが「王都に向かえ」と告げたその理由が、ヴァルユートにある気がしてならないのだ。
テルが自分の記憶の手掛かりを探していることを、ヴァルユートが知っているわけがない。しかし、この機会を逃したら、二度と真実に近づけなくなるという予感が、テルの中でうるさいほどに主張する。
誰かの思い通りになっていることが、心底気に食わない。しかし、
「こうするしかない」
ヴァルユートに従うことを選んだテルは、怒りを押し殺した言葉を、誰もいない空間に響かせた。
「家族は王都に住んでいるのか」
唐突な質問に、テルは胡乱な顔をして正面に座るヴァルユートを見た。
テルは無人の喫茶店を出たあと、外に停まっていた高級そうな馬車に乗り込み、行き先を聞かされることもないまま馬車に体を揺られていた。
「……家族は、いない」
「故郷はどこだ」
「記憶喪失で何も覚えてない。何の意味があるんだよ、これ」
身の上話を探られる不愉快さにテルが眉を寄せる。しかし、ヴァルユートは記憶喪失という言葉に目を大きく見開くだけだった。
「いいや、もういい」
結局そのあとに質問が続くことも、テルの問いに答えることもなかった。沈んだ声を出して窓の外に視線を戻したヴァルユートは口を閉ざした。
「降りろ」
しばらく走り続けた馬車が止まると、ヴァルユートが身を低くして扉から降りた。馬車は王城の正面門の前に止まっていた。テルは言われるがままに降りると、高く伸びる王城を見上げた。空を貫いたような姿は王都のほとんどの場所から見えるほどに高く、王国の心臓部たる威容があった。
待っていた従者は、丁寧に二人を招き入れた。その対応は客人に対するものに思え、騙し討ちの心配は僅かに薄れた。
「ついてこい」
余計なことも必要なことも口にしないヴァルユートに、溢れ出る文句を抑え込みながら、後に続くテル。長く豪華な廊下と階段の先に、たどり着いたのは、今まで見た中でも特に豪華な赤い扉だった。
「入れ」
「一人で?」
端的に指図したヴァルユートは、廊下の壁に寄りかかっており、先導する意思はなかった。主人に代わり、テルの問いに首肯する従者たちが部屋に入るように促す。テルは違和感を拭えないまま、その大きな扉を、二度叩いた後に手を掛けた。
重々しい音とは反対に、易々と開く赤く厚い扉。
薄暗い明かりが中央に灯るだけの部屋は、想像以上に広く、部屋の隅は暗闇とともにどこまでも伸びているようだった。
テルの視線の先、唯一明かりのある場所には、大きな寝台に老人が一人いるばかりだった。
老人はベッドに横たわることなく体を起こして、何かの書類に目を向けていた。病に罹っているのか、土気色の顔はやせ細っていた。しかしそれでも、弱々しい印象はなく、目を逸らしがたい存在感があった。
「話は聞いている。杜撰な継承の結果、忌々しいことに私が手を煩わせることになったとな」
「……」
一方的な物言いは意味不明でテルは押し黙る。しかし、その言葉の端々から敵意が滲んでおり、テルに緊張が走った。
老人は走らせていたペンを止めて、暗闇の方に力強い紺色の視線を向けた。
「しかし、これもまた尊き務めです。どうかご容赦を」
そんな老人を宥めるのは、その傍らに現れた少女だ。よく見ればその少女は車椅子のようなものに座っていた。吸い込まれるような長く黒い髪、そして同じく黒い瞳をテルに向けて、奇妙な笑みを浮かべている。
「初めまして、テルさん。わたしは当代の語り部にして『予見』の巫女、名前をアンと言います。あなたと同じで家名はありません。以後、お見知りおきを」
当然、テルは彼女に名を乗ったことはない。罪人として身元を明かされているのかもしれない。しかし、この特異な状況は、罪人を裁くという名目にあまりにそぐわない。
困惑するテルを他所に、自己紹介を終えたアンが重々しく声を響かせる。
「そして、この御方こそがこの国を統べる王。第六十四代国王、エルヴァ―ニ・レヴィトロイ・ソニレ王でございます」




