第3章11話 日常の在り方とその終わり
レイシアの正体を知ったテルは、結局その夜は碌に眠ることができず悶々と出口のない迷路を彷徨っていた。
睡眠に適していないソファで横になっていたのも原因かもしれない。寝返りを打っては眠れないと呟いたり、一度体を起こして深呼吸をしてみたり、そんな風にしていると、気づけば窓の外が明るくなっていた。
その後、セレスがいち早く起きてきて、まもなくレイシアもリビングに顔を出した。最終的にセレスに手を引かれて、まだ半分寝ているニアも起きてくる。
「それじゃあ私たち、二人で出かけるから。ほんとごめんね、レイシア」
ニアの分の支度まで終わらせたセレスに、テルはきょとんとした顔で見送る。どうやら、二人で劇を見に行くそうで、昨日の晩にその話をしていたらしい。
レイシアの事で気もそぞろだったせいで聞き逃していたのだろう、通りで見透かされてしまうのだと、内心で自嘲するテル。
劇のチケットはもともとセレスが、ニアと二人で観に行くために購入したもので、その使用期限が迫っていたらしい。出会ったばかりのレイシアのことは当然考慮に入れているわけもなく、レイシアとニアに譲ろうとしたセレスだったが、レイシアは辞退し、予定通りの二人で行くことになったのだという。
「お土産買ってくるからー!」
そう叫んで手を振るセレスとニアを見送ると、二人だけが取り残された。突然静かになった空間は、逆に落ち着かない。
昨日のレイシアとの密会が脳裏にちらつき、どんな声で話せばいいか戸惑っているテルに、なんでもないような顔のレイシアが「ほらほら」と声をかけた。
「なにぼおっとしてるの、私たちも出かけよう」
「出かけるってどこに?」
首を傾げたテルに、レイシアは得意げな顔をして懐からノートを取り出した。表紙には『やりたいことノート』と書かれている。
「やるべきことはいくらでもあるんだから、考えるのはそれから」
「実は俺、寝不足なんだよね」
「だからって、家でだらだらするなんて許さないからね」
テルの冗談を、喜々として一蹴するレイシア。
昨日のことを考えすぎて、臆病な態度になってしまうのをお互いに嫌った軽口は、実際二人を囲む空気を軽くさせた。
その気丈な姿は、昨日の出来事をなかったことにしているのか、それとも吹っ切れて、やりたいことしか視界に入っていないのか。不意にテルは考えてしまった。
――・――・――・――
「ニア、すごいのね。王都の観光地に凄い詳しいの」
「ガイドブック何冊も読みこんでたからなぁ、でもまさかそんなニッチな場所まで網羅してるとは」
レイシアとテルは、王都の外壁区へと向かう馬車に乗っていた。二人の目的は、外壁区のなかでも最も外側に位置する三十八番区であり、その場所には、知る人ぞ知る花畑が広がっているらしい。そんな、穴場をニアが知っていたとは驚きである。
大型の馬車には大勢の乗客がおり、目的の場所には何度か別の馬車に乗り変える必要があって、移動に多くの時間を取られることは確定していたが、既に別の場所でお弁当を買っているので、準備は完璧である。
「でも、なんでそんなところに行きたいんだ?」
「あー、うん。ニアには物語の舞台って言ったんだけどね」
嘘を吐いた罪悪感を誤魔化す笑いと、含みのある言い方にテルは次の言葉を待った。
「昔に行ったことあるんだ。本当に、ずっと昔に」
「それって……」
「そう、一歳の頃の話。憶えてるんだ、すごいでしょ」
つまり、レイシアが死んだことになるまでに訪れた場所ということだ。
「母さまに抱っこされてて、隣に父さまもいた。馬車から一緒に下りると、一面花畑の景色が広がっていて、父さまも母さまもしばらくその景色を見ていたから、少し退屈だったけど、二人が満足するのを待っていたんだ」
レイシアは外にその光景が映っているかのように、懐かしむ眼差しを窓の外に向けていた。
「思い出がそれしかないから、ずっと憶えているのかもしれないし、親の愛情を欲しがった私が捏造しただけのものかもしれないけどね」
「でも、その場所は本当にあったんだろ?」
「一度絵で見ただけの景色が夢に出てくることってあるでしょ? そんな風に、思い込もうとしたのは否めないから」
簡単には否定しがたいレイシアの言葉に、テルは開きかけた口を閉じた。「そんなことはない」なんて言葉を言ってあげられたらよかったのかもしれない。しかし、僅かな思い出に縋って、不安に駆られる気持ちは、痛いほど理解できてしまった。
嫌なことを思い出させてしまっただろうか。テルはそんな不安に駆られたが、ふと顔を上げたとき、レイシアは口元を綻ばせながら、
「楽しみだなあ」
誰に聞かせるためでもない、ひとりごとをこぼしたのが聞こえた。テルは、レイシアを真似て、流れる景色をぼんやりと眺めた。
馬車で三時間ほど揺られていただろうか。御者に声を掛けられたときには、既に昼過ぎだった。
三十八番区で馬車から降りると、そこは全体が廃墟になったような場所だった。集落や繁華街のような場所もありはしたが、それも別の壁区に寄った、往来がある場所に密集しており、少し歩いただけで静寂が際立つようだった。
この場所は大昔、魔獣との戦いが活発になる前、隣国との戦争のために建てられた何重もの防壁や施設の残骸が放置されている、入り組んだ廃墟だった。住民からすれば、この廃墟のせいで畑を作れず、厄介なものらしい。しかし、見方を変えれば遺跡群のようでもあり、テルは幻想的な雰囲気を勝手に見出していた。
目的の花畑は、迷路のような防壁をいくつも抜けた先にあった。
年代物の石壁にも見飽きて、疲労を感じ始めていたとき、防壁が取り払われたように視界が開けた。
「わ、わあ! すごいよ、ほんとに全部花畑だ!」
そう歓声を上げたのは、ついさっきまで「疲れた、もう十分だよ。戻ろうよぉ」と泣き言を言っていたレイシアだった。
もう歩けないなんて言っていたのが嘘のように花畑へと走り出すと、子供のように無邪気な声をあげる。
淡い黄色をした背の低い花は、少し斜面のある平坦な地面を覆いつくすように咲いている。遠ざかるレイシアの金色の髪が舞うと、彼女もその一部だと錯覚してしまいそうになる。
「ほら、こっちこっち」
テルは、その声に呼ばれて、レイシアの方へと歩き出した。
「昔のことは、思い出せた?」
テルはふと馬車の中での話を思い出し、問いかけてみると、レイシアはきょとんとした顔でテルの顔をまじまじと見た。
「え、一歳の頃なんて思い出せるわけがないじゃない」
「た、たしかに」
水を差してしまったことで、ぎこちなく答えるテル。そんな様子を見ていたレイシアは笑みを浮かべた口を手で隠した。
「まさか、ずっと気にしていてくれたの?」
「いや、それは、そうだけど」
「テルって意外とナイーブよね」
思わぬ指摘を受けたテルはきまりが悪そうに頭を掻く。
「あんなこと言われたら誰だって気にするだろ。……レイシアにとって、大事なことだろ」
「うふふっ、別にいいのに」
考えすぎのお節介だろうな、と心の内で反省したテルはふてくされるように、そっぽを向く。
レイシアは「いじけてるの?」と今度こそ揶揄ってテルの顔を覗きこんだ。
「放っとけ」
「私を心配しようだなんて、生意気になっちゃって」
いつものように調子に乗って、尊大な物言いをするレイシア。
またすぐに怯えた子犬のように「ごめんね、ほんとはそんなこと思ってないから……」なんて言い出すのだろうと考えていると、
「でも、ありがとね」
予想外にも真剣で少し照れた顔を向けられたテルは、驚きで声を出すのを忘れてしまった。
「十五年前にこの場所に来ていたかどうかも気になるけど、それ以上に今日あなたとここにいることが、私にとって何よりも大切なことだから」
むず痒くなったテルが視線を逸らすと、それを見たレイシアは、はにかむように笑った。
———私ね、今が人生で一番幸せ。
昨晩のレイシアの言葉を聞いたとき、テルはレイシアの境遇の残酷さに言葉を失った。
それもそうだろう、あのときに至るまでの二日間、レイシアとは一緒に買い物をして、食事をして、お菓子を食べながら雑談をしただけだ。たったそれだけだったのだ。
それしきのことが、レイシアの人生で最も彩のある時間であったという事実が、テルには何よりも悲しいことに思えていた。
しかし、それは悲観的すぎる考え方だったのかもしれない。
レイシアの言う“幸せ”を否定するつもりはない。
ただ、いまレイシアが感じている幸せが、ありふれた日常になればいい。
テルは、レイシアの背中を見て、そんなことを思うのだった。
花畑を歩いていると、遮蔽物がなにもなくなった場所に出た。周りより少しだけ高い位置のようで、今まで歩いてきた場所を見渡すことができた。
何重にも並ぶ防壁は、壮観だったが、テルはそれよりも、遠くに見える王城に目を奪われた。
「ここからでもお城は見えるんだ。お花畑なんてあの部屋からはぜんぜん見えなかったのに」
「こうして見るとほんとに大きいんだな、あの城って」
「遠くから見る分には、悪くないのかもね」
そう口にするレイシアは、じっとその景色を見つめていた。その横顔はどこか清々しさがあり、邪魔してはいけないと感じたテルは、何も言わずに隣で立っていた。
「そろそろ、帰ろっか」
「そうだな」
レイシアの表情は来るときと特に変化はなかった。思い出の景色も因縁の象徴も、それ以上、思い詰めさせることがなければ、吹っ切れる要因になることもなかった。
本当に、この場所に来たくて来たのだと、今更ながらに実感したテルは、少し肩の荷が下りたような気持ちになった。
「今から帰れば、なんとか日暮れまでに間に合うかも」
「思ってたより遠かったからな」
二人は程よい疲労感を携えて、花畑を後にしようとしていた。
初めは不気味さがあった防壁の迷路も、一度踏破しているので少しの不安も感じなかった。
「レイシア」
唐突に、力強くその名前を呼んだのは、テルではなかった。
驚いて振り向くと、長めの金髪の青年が立っていた。身なりのよい恰好と整った顔立ちは目を引くが、その表情は険しい。
一体誰なのだろうか。小さな疑問が芽生えた瞬間、テルは事態の異常性に気づく。
レイシアを知る存在が、目の前に迫っているという事実に。
「兄さま……」
そして、レイシアの発した言葉にテルは目を丸くした。
目の前にいる青年こそが、ソニレ王国皇太子、ヴァルユート・L・ソニレであり、彼が目の前に現れた理由は至って単純、レイシアを連れ戻しにきたのだ。
「探したぞ。自分がどれほどのことをしているのか、わかっているのか?」
有無を言わせない威圧感を放つヴァルユートに、レイシアは瞳を震わせて怯えるばかりで、何も答えない。
「お前一人の身勝手が与える影響を、考えられないほど子供でもあるまい」
一歩一歩、ゆっくりとした足取りで迫るヴァルユート。一方的に発せられる言葉は、自分に正義があるのだと確信している。
「これ以上、手間を掛けさせてくれるな。王家の人間である自覚をもて」
「……っ」
「さあ、部屋に戻るんだ」
ヴァルユートが、レイシアに手を伸ばしたそのとき、テルが二人の間に割って入った。
「貴様……」
ヴァルユートに鋭い視線を向けられるが、テルは初めから目の前の皇太子を睨みつけていた。
「強引すぎるんじゃないか。妹がこんなに怯えてるのにお構いなしかよ」
「失せよ、貴様のような賊が知った口をきくな」
剥き出しの敵意は紛れもない宣戦布告であり、両者は同時に魔力を練り上げると同時に距離をとった。
レイシアを背後に立たせたテルは、即座に剣を握る。ヴァルユートもまた剣を引き抜いていた。目を引くのは、その手にある宝剣だろう。
ただの飾りとは思えない宝石が埋め込まれたそれは業物というだけにはとどまらないであろう予感がある。そして何よりテルの警戒心を高めたのは、ヴァルユートの纏う魔力の気配だ。その総量もさることながら、今まで遭遇したことのない異質な魔力に、テルは息を飲む。
先に仕掛けようとしたヴァルユートに、構えを取ったテル。しかし、二人に降りかかったのは想定外の声だ。
「おや、随分の賑やかじゃないか」
突如として現れた何者かに、テルとヴァルユートの表情が凍り付いた。
対峙する二人の中間に位置に陣取った青年は、声を上げるその瞬間まで、一切の気配を感知させなかった。だというのに、姿を見せたその瞬間、誰よりも黒々とした強大な魔力を放っている。
青年は紫色の髪をかき上げるように撫でると、わざとらしい口調で声を上げる。
「我が名はゼレット。世界屈指のエリートにして魔人十三議会ファミリアが一席、『圧力』の魔人、ゼレット」
冗長でどこか緊張感に欠けた名乗りを終えた魔人は、余裕たっぷりの笑みを浮かべ、高らかに宣言する。
「レイシア姫の身柄を頂戴する」




