第3章7話 予見
誰もいないはずの廊下のなか、不機嫌そうな人物が、大きな歩幅で進んでいく。
無駄に高い天井と、必要のない壁の装飾。それらすべてが、そうそう人目に触れることはないのは、この場所に高度な人除けの結界が張られているからだった。
そして、その結界を潜り抜けられる数少ない青年は、少し長い金髪を邪魔そうに靡かせると、鋭く青い瞳で正面の扉を睨んだ。
青年の名は、ヴァルユート・レヴィトロイ・ソニレ。国王エルヴァーニ・レヴィトロイ・ソニレの嫡男である皇太子殿下は、執務も何もかもを放り出して向かう先は、ほんの一握りの者しか入場を許されない『星見の間』だ。
「アン」
ヴァルユートが扉を軋ませると、その名を呼ぶと、部屋の中央で座る漆黒の髪の人物が反応する。
「あれ、ユートじゃないか」
アンと呼ばれた人物は、振り返ると愉快げに皇太子を馴れ馴れしい綽名で呼び返す。漆黒の髪は長く伸ばされ、前髪は顔が全て隠れてしまうほどに伸びている。しかし、とてもその長さの割には、とても綺麗に整えられており、左側だけ露わになっている黒い瞳はどこか腕白さを感じさせた。
足の悪いアンは、車輪のついた椅子に腰かけており、一人で移動することができないので、部屋の隅には付添人のエイミーがひっそりと立っている。
本来なら、不敬罪は免れないように思えるような発言だったが、ヴァルユートが気に掛ける様子はない。
「どうしたの、眉間の皺がいつもより三割増しで深いけれど。何か面倒事でも?」
「ああ、察しがよくて助かる。しかし、事態は面倒事では済まないほどに深刻だ」
ヴァルユートはアンの軽口を聞き流すと、さっそく本題に入るために部屋の中央に向かおうとしたところで、部屋にいたもう一人の人物に気が付いた。
アンの我儘と国王の気まぐれで、星見の間に出入りを許された一般人を、ヴァルユートは一瞥した。酷く不機嫌な少女は、いまにも第一皇太子に食ってかかりそうな雰囲気を醸している。
「そういうわけだからごめんね、セレス。話の続きはまた今度聞かせて」
「えぇ、今日だって一か月振りだったのにぃ!」
涙で目を潤ませるセレスは、アンの足に縋りつくと、獣のような唸り声をあげて、意地でもその場に居座ろうという意思を見せた。
「埋め合わせは必ずするから」
アンは膝の上にある頭を優しく撫でると、唸り声のようだった泣き声は止む。セレスは膝に顔を何度か擦りつけると、渋々といった様子で立ち上がると、既に椅子に座っているヴァルユートに細めた目を向けた。
「……はあ、今回だけ許してあげる。でもユートは許さないから、バーカバーカ」
「この部屋は治外法権だから大目に見るが、うっかり部屋の外で口走ってみろ。即牢獄行だ」
侮辱を意に介さない皇太子は腕を組んで、招かれざる客を脅かすように言い返す。言われたセレスは口を一文字に引き締めると、足音を鳴らして出口に向かった。そして、扉を開け、一歩外に出たところで、また振り返ると、
「ユートの大バカ!」
と言い捨てて、勢いよく扉を閉めた。
「……」
「まあ、怒らないで。今回悪いのはそっちなんだから」
躾がなってないと苦言を呈する余地もないようで、ヴァルユートはため息をつくだけでその場を収める。今は時間を空費している余地はないのだ。
「本題だ。……人探しを願いたい」
「ふぅん」
「城から脱走した痕跡もなく、幸か不幸か目撃者もいない。手掛かりなしだ」
「そうじゃないと、わたしのところには来ないだろうね」
アンが肩を竦めて椅子にもたれる。「全く、仕方ないなぁ」と小馬鹿にするような言い草は、彼女が重苦しい空気を嫌うからだろう。
「ああ、権能を借りたい」
ヴァルユートが神妙な顔で告げる。アンはため息をついた。
「わかった」
権能。
それは、異能と同じく、火水土風神聖の五大魔法から逸脱した、魔力的行為である。どの属性にも当てはまることのない、特有の理を司る点において、異能とも共通している。
権能と異能、その違いは起源にある。
五大魔法とは、神の使徒から賜った技術であるが故に、異能は背信的な意味合いが強かった。しかし、権能は神、あるいは使徒から直接与えられたものであり、それだけあってその規模も作用も大きい。
そして、アンは『予見の巫女』と呼ばれる、権能の行使者である。
予見とはまさしく未来を見通す力であり、古い時代からこの『予見』の権能はソニレ王国で重宝されてきた。
未来が見える、という力はあまりにも強大でその使い方を誤れば、大きな被害が生まれる。
それ故に、ほとんどの人間は『予見』の存在を知ることもなく、知っているものでさえ、私的に利用させないため一切の接触が許されない。
つまるところ、『星見の間』とは、予見の巫女を生涯、外界へと逃がさないための、牢獄そのものだった。
「ほらほら、頑張れ頑張れ!」
真っ黒なドレスを着た麗人を、強引に担ぎ上げたヴァルユートが階段を一歩ずつ上がっていく。近衛騎士団の第二隊の隊長を務めており、この程度のことで涼しげな顔を崩すことのない。しかし、抱きかかえられているアンには、その呼吸が荒くなっていることは筒抜けだった。
「まさか、隠し部屋までの道がこんなに不便だとは、碌でもないお城だねぇ」
肩に担ぎ上げられているアンは、後方から音もなくついてくるエイミーに話しかける。エイミーはにっこりと笑い返すだけだったが、アンにはそれで十分なようで「でしょう?」と楽しげだ。
やがて階段を登りきるとドアが現れ、その前には一人の侍女が申し訳なさそうな顔で控えていた。こちらに気づくとはっと顔を上げた。しかし、言葉を発することはなく、すぐにまた視線を低くする。
「ご苦労様」
「……そうだな、見かけほど軽くはなかった」
部屋に入ると、ヴァルユートはアンを椅子に座らせた。
「君ねえ、それ他の人に言っちゃダメだよ?」
呆れた口ぶりのアンが諫めるが、ヴァルユートはいつもの冗句だと思って重く受け止めていない。やれやれと鼻を鳴らすアンは改めて部屋を見渡す。侍女の二人は室外に待機しており、二人以外には誰もいない。
「しかし、これだけ厳重に隠していれば、何十年も見つからなかったことが頷けるよ」
王城の他の部屋に比べるとやや小さめ部屋だが、窓からの眺望は素晴らしかった。だが、アンの口調にはどこか棘があり、雑談を挟む余地がないと判断し、本題を問うた。
「どうだ、何かわかるか」
「もうやってる」
他所を見ていたヴァルユートが、その声でアンに目をやる。
アンの前髪によって隠れていた右目が、不気味とも美しいともとれる極彩色の光を放っており、ヴァルユートは押し黙る。
『予見』の権能は未来を見通す力を持つが、それは権能の一側面に過ぎず、ヴァルユートはむしろ、その他の能力を高く買っていた。それこそが過去の確定だ。
出来事が起こった場所、あるいは縁の強い代物を用意することで、アンの右目は過去に何が起きたのかを断定することができた。
未来視は、ただ一つの未来を確定するものではなく、複数の未来を読み取り、推測するものだ。その不確定性は切り離すことができず、その真価は最善を選ぶことではなく、最悪を回避することにあった。
しかし、過去の確定は至って単純であるのに、場面によってはこの上なく甚大な効果を発揮する。
「おお、なるほどなるほど」
アンが何か収穫を得て、口元に笑みを作った。
右目の極彩色はいつの間にか収まっており、既に過去の確定が完了したのだとわかる。
「どうだ」
ヴァルユートが訊くとアンは細い指で何もない石造りの壁の方を指さした。ヴァルユートが指示されたように壁の際まで連れていくと、アンは壁をぺたぺたと触り始める。
「うーん、ここかな?」
しばらく、クモのように壁に張り付いていたアンは、継ぎ目のような小さなズレを見つけ、そこを強く押した。
ズンっ、と大きな音がなると、どこにも見えない機械の駆動音が鳴り始める。そして、僅かな振動と共に、目の前の石の壁が自らの正体を明かした。
「隠し、扉……?!」
思わず目を丸くしたヴァルユートに、たった今この扉の存在を知ったはずのアンはなぜか得意顔を向ける。
数日に一度は必ず通い詰めていたこの部屋にこんな代物があったことに、動揺を隠せないヴァルユートが頭を抱える。歴史の古い王城なので、まだまだ仕掛けが隠されていても不思議ではないのかもしれないが、これほどに隠蔽された通路があったとは誰が考え付くだろうか。
「ここから逃げ出した訳か」
「それと、脱走を手引きした人がいるね。偶然この部屋に行きついたみたいだよ」
そこまで言うと、アンは気まずそうに口を閉ざした。怪訝な目を向けると、すぐに観念した顔でため息を吐く。ここまできて言いにくいことがあるのだろうか。
「この部屋の主は、この隠し通路の存在をずっと知っていたみたいだね。どうも、少年はきっかけに過ぎないみたい」
「……」
その言葉が意味する真実を、ヴァルユートは測りかねていたが、結局時間をかけるだけ無駄だと判断し、思考を別の事柄に向けた。
「誘拐犯の行方は」
「うーん、確実なのは……二日後の三十伍番区?」
「珍しく曖昧だな」
「どうしてかノイズが多い。体調は悪くないんだけどなあ」
ヴァルユートは、アンの未来視を頼りに、不法侵入と誘拐の犯人の居場所を突き止めようと試みたが、まさしく彼の厭う不確実な答えが返される。表情には出さないが、もどかしさに苛立ちがないとは言えない。これで空振れば、事態はさらに悪化する。
「振れ幅が大きいということだろう。留意しておこう」
「それで、捜索に騎士団を動かすの?」
「いいや、連れ戻すだけなら一人で十分だ。……これは所詮、家族の話だ」
アンの問いにすぐさま首を振る。この事件は、どんなことがあっても外部に漏らすわけにはいかない。それは例え、どれだけ信用のある自分の部下であってもだ。
「そう悠長に構えてていいのかな?」
「……」
ヴァルユートの意固地にアンがやんわりと苦言を呈する。ヴァルユート自身、アンの指摘を理解しており、首を縦に振った。
「わかっている、ソニレ王国崩壊の予見が迫っているのだろう」
「よかった、忘れていないみたいで」
意地悪に舌を出したアンから目を逸らし、窓の外の王都を眺める。
ソニレ王国の崩壊。それは数カ月前にアンが予見した、いつ訪れるかわからない未来の出来事。知らされた一部の者は、それへの備えに忙殺されていた。その内の一人であるヴァルユートも、来たる災厄の重要さを重々承知している。
しかし、二つの案件の優先度は、紙一重の差しかない。
「レイシア……」
ヴァルユートは、死んだとされたはずの妹の名を呟くと、僅かに視線を落とし、すぐに部屋を出た。
――・――・――・――
「ああ、カナンの大地を踏むのは何年振りだろうか」
馬車から降りた青年は、すぅっ、と深く息を吸う。
自己陶酔に陥った演技臭い物言い、そして空を仰ぐような仕草はどこかわざとらしく、周囲から冷ややかな視線を集めると思われたが、意外にもその人物を気にする者は少ない。それどころか、不自然にも“いない”と断言できるほどであった。
青年の名は、ゼレット。十三魔人会議に所属する凶悪な魔人の一人である。
「うん、馬車から降りてすぐの景色はかなり変わった。しかたないよね、最後に来たのは七十年も前なのだから」
「何年振りだろうか」のくだりは雰囲気のための戯言であったことを隠しもしないゼレットは、紫色の髪をさらりと撫でる。
普段、十三魔人会議の魔人たちは、一定の場所に常に留まるものと常に移動し続けるもののどちらかに分かれ、ゼレットはその後者だった。数百年間もの長い時間を生きようと、この清濁併せ飲んだ荘厳な都市を知らない者だっているのかもしれない。
「おっと、ボクとしたことが長く感傷に浸ってしまった。エリートは颯爽と任務を果たすものだというのに……」
数週間前の十三魔人会議の集会で、議長より直々に命令を下されたゼレットは、その役目を果たすために王都カナンを訪れた。魔人が人を仰せつかる機会などほとんどなく、必然的にその責任の重さというのは、本人にも計り知れないものになる。もし失敗すれば、ただでは済まないかもしれない。
あの自称平和主義の殺戮者なら、一瞬で自分の命を奪い取るさまが想像に難くない。しかし、全く気にしないような顔で「ドンマイドンマイ、次は頑張るんだよ」と優しげな言葉をかける姿も想像がつく。つまり、彼の上司は実に難儀な相手なのだ。
「嫌な上司、そして困難な任務。だからこそ、エリートの真価が発揮されるというもの」
ゼレットはそう口にすると、この国のどの場所からも見える巨大な王城を見上げた。あのさきに、目的がある。
「さあ、待っているがいい、レイシア姫」
ゼレットの言葉に耳を傾ける者はいない。そもそも、十年以上前に死んだ王女の存在など、ほとんどの人が忘れ去っている。
人知れず城に囚われて生き続けるソニレの王女、その身柄を誘拐することが、血の魔人ダンテからの命令だった。
巨大国家の王族の誘拐など、魔人の関与する事件のなかでも前代未聞である。そしてそんな役割を任されたという事実に充足感を覚えたゼレットは、無意識に口角が上がっている。
「まずは手始めに……」
ゼレットが王城から視線を外すと、通りの奥、別の地区を眺めるようにした。王女誘拐という一大任務とは別に、彼には外せない用事があった。
「大仕事の前に腹ごしらえといこう。あの店、まだ残ってるといいんだけど」
残り短い平穏を愛でるその後ろ姿は、あまりにも人間社会に馴染んでいた。ゼレットはこの国で一番のお気に入りのお店を目指し、スキップのような軽い足取りで人ごみに溶けていった。
手筈通り、大図書館にある隠し通路で王城に潜入したとしても、その先の部屋に居るはずの姫君は、既に何者かに誘拐されているのだが、絶品料理を堪能するゼレットはまだそんな事実を知る由もなかった。




