第3章2話 王都にて
テルはカルニ地方周辺で昼頃から雨が降ると聞き、夜通しでカルニ王都間の街道で、馬車を走らせていた。
既に深夜と呼べる時間帯。ニアは昼間から遊び疲れて、毛布に包まりながらテルの肩で眠っていた。イヴは初め、不服そうにテルの足にちょっかいを出していたが、やがて飽きたようで、今ではニアの膝の上で丸くなっている。
テルとニアがシャダ村を出てから一週間が経っており、その間、道中を余すことなく楽しんでいた。
カインからの選別で貰った旅行ガイドのような薄い本に、ソニレ王国西部のコーレル地方カルニ地方王都周辺の観光地が事細かに書かれていた。
その本に挟まれた、ニアの行きたい場所は、ほとんど見て回った。自然の絶景から古い史跡までニアの興味は多岐にわたり、同行していたテルも色々と学びつつの観光だった。
「一か所大ハズレがあったけどなあ」
テルが小さな声でこぼすと、聞こえていたのかいないのか、イヴが耳をぴくぴくと動かした。
それは昨日に行った、“死の砂漠”という大仰な名前の観光地だ。
初めそれを聞いたテルは、そんな名前の場所に行くことが憚れていたが、目的地に近づくにつれて、テルたちのような観光客が増えていき、名前のままの恐ろしい場所ではないことがわかってきた。
そして、目的地についたテルとニアは茫然とした。
「死の砂漠」とちゃちな看板が立てられた先にあるのは、だだっ広い平原にぽつりと存在する小さな砂漠だったのだ。
この世界では、地上の七割は砂漠で、珍しいものではない。故に好き好んで砂漠を見に来るものはいない。この死の砂漠は、たしかに平原の上に、不自然にぽつりとあるという点では珍しいのかもしれない。
「……神話に登場する聖地、らしいよ」
「へ、へえ」
ニアも流石に肩透かしだったようで、言葉に溌溂としたものがない。
「それに二百年前くらいまでは、本当に訪れた人の体調が崩れて、立ち入り禁止になってたんだって」
神話を知らなければ、二百年前の歴史に思いを馳せることができないテルにとって、死の砂漠は、ちょっと大きな砂場だ。
砂で駆け回る子どもがいるが、あれほど喜べるのも、子どもくらいだろう。
「でも確かに、外域の砂漠で子どもは遊ぶことはできないな」
そう思うと、それほど悪い場所ではないのかもしれないが、はしゃぎまわれることと、服が砂まみれになることを天秤に掛けてしまうテルには、その恩恵を得ることはできなかった。
ガタンと馬車が跳ねた。僅かに寄せていた眠気の波が掻き消された。
「……ぅん」
「ニア?」
揺れで喉を鳴らしたニアに、小さく声をかける。すると、ニアは目を擦ってテルを見上げると、枕にしていたテルの肩を離れ、体を真っすぐにした。
「ずっと肩借りてたんだ。ごめん、重くなかった?」
「気にしないで、まだ夜だから寝てたほうがいいよ」
口惜しさを隠してテルがいうと、ニアは首を傾げた。
「テルは寝てないの」
「ちょっと眠れなくてね」
「……そっか」
ニアは視線を落として、膝にいるイヴを撫でる。テルは気を使わせないように、眠くないふりをした。
王都カナンには薔薇の都という別名がある。
それは、中央にある王城から半円状に作られた防壁が花弁のように幾重にも聳え、その様を上から見ると薔薇の花のように見えるためらしい。
王都に魔獣が攻め込んでいたのは大昔の話で、王都以外の都市が王都を囲むように作られてからは、王都に被害が被る機会がめっきり減った。それ故、防壁の全てが歴史的な遺産となっていた。
王都は、ソニレの中で魔獣と最も無縁の場所であるが、それ故に、人の犯罪が多い街なのだ。
テルたちの走る街道は、馬車や人の往来が多く、夜でも何度か明かりを垂らした馬車とすれ違った。しかし、それを付け狙う野盗の噂もよく聞くので、テルはそれを警戒して、寝ずの番をしていたのだ。
「私が起きてるから、テルは寝ていたら?」
テルはニアに気を遣わせないため、見張りをしているのを悟らせまいとしたが、ニアの提案でそれが失敗に終わったと知り、決まりが悪そうに頬を掻く。
「確かに少し眠たいけど、今は寝付けない気がする」
テルは、星空を見上げてそう返した。今日は月が明るく、星が少なかった。
「本当に?」
「ホントホント。眠くなったら、ニアを起こすよ」
そう言うと、ニアは少し頬を膨らませて不満そうに、毛布を口元まで被り直す。そして、「なら……」と籠った声を出した。
「私も起きてる」
「え、無理しなくても」
「無理じゃないよ。少しお話したい気分なだけ」
「……そっか」
テルが頬を緩ませて納得すると、二人はしばらくの間、星空を眺めながらお喋りをした。これからの予定の話に、これまでの思い出の話。やはり、“死の砂漠”の話題はまた出てきて、ニアは今思うと意外に悪くなかったかもしれないと、神妙な顔で言うので、テルは笑ってしまった。
やがて、時間が過ぎてゆき、ニアが再び寝息を立て始めたころ、すれ違う馬車の数が増え、東の空が紫色を帯びていることに気が付いた。
「朝だ。そろそろ王都かな」
テルは穏やかな丘の稜線を、目でなぞりながら呟いた。
――・――・――・――
「ミルクを一杯。あと、この水筒に水を」
テルはあまり綺麗とは言えないバーカウンターに、水筒と銅貨を四枚置いた。子どもが不相応な店に入っているためか、後ろのテーブルからひそひそと笑い声が聞こえた。他所者を歓迎しないのは、どこも同じだ。
夜通し街道を走り、日が昇ったころに王都に到着したテルは初めに偶然通りかかった酒屋に訪れた。食料も水も十分にあったが、王都に地理が全くわからないテルは、開いていた飲食店に入り、色々と尋ねようと思っていたのだ。
ニアは馬車の番で残ってもらっていたが、その判断は正しかったと、あまり雰囲気の良くない店内を見て思う。
「あいよ。にいちゃん、お上りさんかい?」
テルを見ても表情を変えなかった店主がそう言って、注文の品をカウンターに置く。ミルクと水しか注文しないテルを邪険にしない店主に、好感を抱きつつ「はい」と首を縦に振る。
「少し道を尋ねたいんですけど、ブラックガーデンという人の家がどこにあるのか知っていますか?」
テルは僅かに躊躇いながら、厳かで迫力のある名前を口にした。
ブラックガーデン。それは以前、テルが一人旅をしようとしたとき、リベリオにお使いを頼まれた相手だった。正しい住所に辿り着く自信がないテルは、『通りすがりの人に訊けば、教えてくれるさ』といい加減なアドバイスを貰っていた。当然、通りすがりが分かるはずがないと内心憤慨していたが、他に手段がないテルは、こうして渋々実践していたのだ。
「ブラックガーデンのお屋敷? わかった、今メモに書こう」
まさか本当に知っているとは。予想外の成果に反応が遅れるテル。ブラックガーデンという人物は相当な有名人らしい。
「あ、ありがとうございます」
「ブラックガーデンに用があるってことは、にいちゃん魔獣狩りかい?」
ブラックガーデンと魔獣狩りの二つの言葉が結びつく理由を知らないテルは、「まあ、そんなところです」と誤魔化すように答えると、店主がメモをテルに渡した。
「ご丁寧にどうも。あ、このサンドウィッチも頂けますか。持ち帰りで」
親切な店主に、水とミルクだけでは申し訳なく、新たに注文を追加する。
「ああ、まいど。……二つってことは、お連れさんが?」
「はい、外に馬車を停めて、今は見張りをして貰ってます」
「そうかいそうかい。でも気を付けなよ。外壁区は治安がよくないから。人が乗ってても馬車事盗まれるなんてことが——————」
店主が食べ物を手渡したとき、大きな馬の嘶きが店の中まで響いた。目を丸くしたテルと店主が互いの顔を見合わせる。
嫌な予感にテルは奥歯を噛む。
「ありがとう、お代はここに」
そう言って外に飛び出したテル。やはり、店の前に止めていた馬車がなくなっていて、血の気が引いていく。周囲を見回すと、離れたところに見覚えのある馬車がある。
「くそッ!」
治安があまり良くないとは聞いていたが、白昼堂々人攫いが起きるのはあまりにも想定外だった。しかし、今は甘い想定で行動していた自分が憎い。
テルは必死に追いかけるが、馬車に足の速さで敵う訳もなく、徐々に距離が離されていく。焦りがテルの呼吸を乱し、足の動きが鈍くなる。
驚異的な再生力を持つニアが、命を脅かされることはないだろう。しかし、ニアが自分を守るために、他人に危害を加える選択をするとは思えず、嫌な想像がさらにテルを焦らせる。
「ここで、異能を……!」
あまりにも人の目が多い。しかし、四の五の言っている暇はない。
テルが覚悟を決めようとしたそのとき、遠ざかっていた馬車が、ふわりと空中に浮き上がった。
「!?」
浮いた馬車は、そのまま空中で停止し、不自然な光景が生み出される。
テルは混乱する頭を振り払い、馬車に追いつこうと、足に力を込める。徐々に距離を近づけてわかった。馬と外れた馬車を、巨大な老人一人が持ち上げていたのだ。
「まったく、若造どもがッ。そんな速度で老人を脅かして、どういうつもりだ。ぶつかったのがワシじゃなかった、無事じゃ済まなかったぞッ!」
大きく豪快な声が馬車の中に向けられる。老人の視線の先には、ナイフを振るえる手で握る男と、御者席にしがみつく男、そして身を小さくしているニアがいる。
「む、ただ事じゃなさそうだな。馬車盗りかッ?」
「ニア!」
ぜえはあと肩で息をするテルが馬車に追いつく。名前を呼ばれたニアが、馬車の荷台から顔を出し、そのまま飛び降りる。肩にはイヴも乗っている。
「怪我はない、なにかされなかったか?」
必死なテルに気圧されたニアが困ったように頷くと、テルは足から力が抜けて膝をつく。
「良かったぁ」
「ごめん、ちゃんと見張りできなくて」
申し訳なさそうに、テルに近寄ったニア。イヴはテルをがしがしと攻撃しており、その油断を咎めている。
「ニアが謝るようなことじゃない……。それより」
老人は馬車を持ち上げたまま空いた片手で短い髭を撫でており、テルと目が合うと思い出したように馬車を地面に降ろした。中にいた馬車盗り二人は、腰が抜けているのか逃げ出そうとしない。
見上げたテルは息を飲んだ。改めて目の前にいる巨躯の老人の迫力は凄まじい。完全に染まり切った白い髪と髭は、きっちりと整えられている。その並外れた大きさを除けば、老紳士という言葉が最も似合っただろう。
「本当に、ありがとうございました」
「ハハッ、どうってことはないッ。だがまあ、観光は内壁のほうがいいだろう。断然治安がいいからなッ」
爽やかに白い歯を見せて笑う老人は、慣れた手つきで馬車盗り二人を縛り上げた。その声は大きく、近くで話をすれば耳鳴りを起こすかもしれない。
「何かお礼を」
「構わん構わん、老骨は人助けだけが趣味なのさッ」
頑なに礼を受け取らない老人は、「じきに衛兵が来るだろう」と、背を向けそのまま立ち去ろうとしている。
「な、ならせめて、名前だけでも」
テルが呼び止めるように口にすると、老人がこちらに向き直った。なぜかニヤニヤとして整った顎髭を撫でつけている。
「ふぅむ、名前か。いやはや、この年になっても自惚れとはなかなかに赤面ものだッ」
その言葉でテルは気づく。これほどの膂力を持つ人物が尋常な人であるはずがなく、テルの質問は失礼だったかもしれない。
テルが謝罪を口にしようとすると、老人が大きな手をテルの顔の前に突き出して、それを先んじて制止する。
「せっかくの機会、むしろ光栄だ。通りすがりの老人の、使い古した名で良ければ、名乗らせて貰おう」
大きな咳払いをし、シャツの襟を正した老人が真っすぐに目を向けた。
「我こそは『万世氷山』の名を授かった準特位騎士にして、ソニレ一の紳士。その名もアインライヴ・ブラックガーデンであるッ」
「ブラック、ガーデン……?!」
空気をびりびりと震わせて、自らの名を名乗ったブラックガーデンが白い歯を見せる。まさかの名前に、テルは呆けてその山のような姿に釘付けになっていた。
こうして、二人は尋ね人との想定外の出会いを果たしたのであった。




