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第1章5話 人狼

「……魔獣!?」


 テルの口から咄嗟にそんな単語が飛び出した。


 直後、人狼は長い腕でドアを叩きつける。ドアは盛大な破壊音とともに木っ端へと姿を変えた。その衝撃は床まで貫通し硬い石畳の玄関に大きな窪みが出来上がった。

 間一髪、後ろに飛びのき巻き込まれずに済んだテルは、リベリオの言葉を思い出していた。


 以前、魔獣という生物が、なぜ村や民家を襲わないのか尋ねたことがあった。


「『魔獣除け』っていうものがあるから、簡単には魔獣は人域には入ってこれないんだ」


 具体的に魔獣を近寄らせない便利道具というものではなく、魔獣をある方向へ誘導し、その先には魔獣狩りが待ち受けているというような罠に近い代物らしい。それが国のほぼ全域を覆っており、魔石の便利さや人々の労力が平和を守っているのだな、と色々な意味で感心していた。


 しかし、現在―――。


「全然話が違うじゃないか」 


 魔獣と向かい合いながら、今はいないリベリオに悪態をつく。魔獣は双眸をテルに向けると舌なめずりをしている。新しい玩具を前にした子供のようだ。


「ご、ごめ、んぐ……だだい」


 不気味は声を漏らす獣人に対し、怖気が走った。どうしてこれが人の声だと思えたのか不思議でならない。そもそも、いったいこの魔獣はなんなのか。魔獣除けはなぜ反応しなかったのか。様々な疑問が浮かぶ一方答えは一つも見つからない。


 ただ一つわかることは、この目の前に迫る危険から身を守らなくてはならないということだった。


 どうすればいいと自身に問う。


 今日にいたるまで魔獣という存在に関わる機会がなく、この世界に馴染もうと精一杯だった。故に、己を狩らんとする凶暴な怪物と渡り合う術もなければ、武器も持ち合わせていない。


 なぜこんな場所に魔獣が現れたのか、誰かの助けは期待できるのか、様々な考えが浮かんでは消えるなか、本能が逃げろと警鐘を鳴らしている。


 窓から飛び出して逃げよう。そんな考えが浮かぶが、即座に棄却する。


「上にはまだ、ニアがいる……!」


 もし、テルだけがうまく逃げられたとしても、その後人狼が二階に上がる可能性があるし、ニアがさっきの音で下に降りてきてもおかしくない。もし、標的がニアに移ったとしたら、テルにはあの暴力を止める手立てがない。ならば、テルに残されたニアを守る術は囮になることだけだ。


 歯を食いしばり、テルは人狼に駆け寄る。人狼は自らの玩具に志願する人間を歓迎するように目を見開く。

 しかし、テルはそんなつもりは欠片もない。人狼の腕が届きそうな距離に入ると、テルは人狼の眼に目掛けて黒砂を噴き出す。


 「ぎやっ」と痛みに悲鳴を上げ仰け反る人狼に思いっ切り体当たりをすると、その勢いのまま外の冷たい土の上に落ちて地面を転がった。勢い有り余ったテルもそのまま丘を転げ落ちた。


「つうっ……」


 すぐに立ち上がり、体勢を整えると、同じように起き上がった人狼と目が合った。テルのほうが長く丘を転がったため、見上げるような形になっている。


 やはり、体当たりでは大したダメージにはなっていないようで、にやけるような口元から涎を垂らし、今にも襲い掛からんとしていた。


 ヘイトは完全にこっちに向いているようだとテルは安堵したが、まだニアの安全が確保されたわけではない。すぐにテルがやられてしまえば、人狼はまた家に上がりニアを襲うかもしれない。


 勝利条件は単純、テルが生きたまま人のいる村に逃げ切ればいいのだ。村には魔獣狩りが滞在しているかもしれないし、いなくても大勢で太刀打ちすれば何とかなるかもしれない。


 頭を整理しながら、建物が明かりを灯す村に目をやる。距離は一キロ弱で途中雑木林がある。魔獣がいないため、身を隠すこともできるだろう。こちらに武器はなく、使える手段はすでに一度明かした目潰しの黒砂のみ。


「ハードなんてもんじゃないぞ」


 そう文句を吐き捨てて、覚悟を決める。よーいどんの合図なしに一匹と一人は同時に走り出した。


 体は人型。走ってもそれほどの速度は出まいと、たかを括っていたテルはすぐに自分の甘さを悔む。


 人狼は人の体に服を着たまま、獣らしい四つん這いになって走っており、そこそこあったテルとの距離をぐんぐんと縮めている。射程に捉えたのか、人狼は飛び上がると、右腕をテルに振り下ろす。


 テルは運よく巨大な凶腕を躱し、地面が深く抉れる。人狼は自分の速度と破壊力につんのめっており、テルがその隙にまた黒砂を浴びせる。人狼に獲物から目を逸らすという考えはないようで、砂の粒は眼球に直撃した。


 人狼の短い悲鳴にしてやったりと思うのも束の間、目の前で発せられた衝撃波のような雄叫びが、鼓膜を貫通し脳を揺らした。

 短い耳鳴りと眩暈に堪えつつ、また街に向かって走り始める。「いまので誰か気づいてくれよ」と祈りを吐き捨てるが、期待はできない。


 振り向くと、人狼はまだ追いかけてきてはいなかった。

 目が使い物にならなくなったのか、閉じた(まぶた)で大粒の涙を流しながら、怒りで歯を剝き出しにして、テルを見逃すまいと草原を駆け出す。目が見えなくなっても嗅覚で獲物を捉えているのだろう。


 テルは目の前に迫った雑木林に躊躇(ためら)いなく突入する。枝や葉が肌に小さな傷をつけるがそんなことで速度を落としてはいられない。


 大丈夫だ。この調子ならきっと逃げ切れる。泥を踏みしめながらテルは思う。

 二度の目潰しによって、撃退は出来ずとも人狼の視力を奪い、さらに遮蔽物の多い雑木林に入ることができた。これならば、人狼の攻撃の命中率も落ちるうえ、あわよくばここで撒いてしまえるかもしれない。


 人狼のほうを見ると、ちょうど四足走法で雑木林に差し掛かった。盲目というハンデを背負ってもその速度に衰えはなく、迷いなくこちらに直進している。

 魔獣の激しい息遣いが、すぐそばまで迫っているのがわかる。恐怖で胸が騒ぐが、その反面、くるのがわかっているなら避けられるはずだと自分を鼓舞する。


 首筋が痙攣するような感覚が走る。人狼の殺気だ。


 いまだ、と振り返り、回避の姿勢をとる。


 しかし、目の前に映るのは飛び掛かる人狼ではなく、木も石もぐちゃぐちゃに混ぜ合わせた土砂の塊だった。


 大きな衝撃でテルの体が、周りの木々とともに吹き飛ばされた。一瞬の浮遊感のあとにまた大きな衝撃が体を打ち付ける。今度は落下によるものだった。


「くっ、いってぇ……」


 苦痛に顔を歪める。起きるために足に力を入れた時に激痛が走った。おそらく骨が折れたのだろう、右足首が大きく腫れあがっている。


 思い出したのはリベリオに魔力込みの手刀を食らったときのような内側の底が揺れるような感覚だ。痛みも衝撃も比べるべくもないが、いまの土砂は魔法による攻撃なのだろう。


 少し後ろで、瓦礫が踏みつけられるような音が聞こえ、確実に人狼がこちらに近づいている。


 逃げなきゃやばい。


 先ほどまで平坦だった場所が土砂によって小さな傾斜ができていた。それを四つん這いになって登ろうとしたところを、強い衝撃が右半身を襲う。人狼の蹴りが直撃したのだ。鞠のように弾き飛ばされ、全身が地面に打ち付けられて、軋むような音がする。


 逃げろ逃げろ逃げろ。


 何度念じようとも、痛みに侵され体は思うように動かない。のしのしと瓦礫を踏みしめながら、人狼が迫り来ているのがわかる。


 なんとか木に背中を預けるようにしたとき、ふと視線を上げると人狼と目が合った。目潰しの効力はもう僅かにしか残っていないようで、赤く充血した眼は確実にテルに向けられている。


「時間稼ぎにもならないのかよ」


 自分の無能さに呆れるテルを見下ろすそれは、標的が無様に足掻いている様を愉しんでいるのか、醜悪な笑みを浮かべていた。

 人狼がまたゆっくりと歩みを進め始める。


 折れた足では走れない。目潰しでどうにかなる話でもない。助けもこんな辺鄙な場所では期待できない。 

 覆らない敗北の要素が一つ見つかるたびに、痛みと恐怖で沸騰しそうな脳が諦めを促されているような気がした。


 せめて武器があればまだ何とかなったかもしれない。あのときニアに声をかけて助けを呼びに行かせれば死なずに済んだかもしれない。いや、ニアに責任を擦り付けるのは格好悪すぎるな。あんな美少女を守って死ねるなら名誉ある死か。このあとこの化け物がニアを殺しに行かない保証はないが。もしそうならば、あまりに無駄死にじゃないか。くそ。畜生。せめて、武器があれば。


 死に瀕したものの懊悩(おうのう)はこうも惨めなのか。テルは自嘲すると、ついに人狼が目の前に至った。


 ここまで手こずらせたテルの尊厳を徹底的に侮辱するように、じっくりと敗北したその姿見回すと、もう興味はないとばかりに鼻で笑い、人狼は巨腕を振り上げた。


 テルが、歯を食いしばる。


 記憶がないから走馬灯さえ流れない。

 あるのは惨めな自分の身一つと、なにも成すことができなかった漠然とした物悲しさだけ。


 そんな悔いを慰めようと悔いを生み出すような、死が目前に迫ったとき特有の緩慢な時間の流れの中、テルに違和感が差し込んだ。


 右手に今までの痛みとは違う、疼くような熱があった。

 ざざぁ、と音がして、気づけば、その手の中に何かを握りしめている。それは、長く、鋭く、月の光を照らし返す、銀色をした剣で、


「はああああっ!!」


 叫び声をあげて、とどめを刺さんとする魔物の左胸、心臓のある場所に、手にしていた剣を深々と突き立てる。鈍い音と肉を貫く質感で人狼の動きが停止する。獣の臭気とともに人狼の呆気にとられた顔がまじまじと見え、そして気づいた。


 一瞬、惚けたような顔はみるみると激しい色に染まっている。


 人狼は丸太のような太い両腕で、胸に刺さった剣を握っているテルの腕をがっしりと掴む。一人では死ぬまいとする人狼は大口を開き、そのままテルに迫った。テルの頭に自分の首が易々と食いちぎられるイメージが脳裏をよぎる。


 剣を胸から引き抜こうにも、その腕は人狼に掴まれてびくともせず、どうすることもできない。


 それでも、まだ左手は動く。あれがたった一度だけの奇跡じゃないなら、もう一度。


 そう念じるがままに、左腕を振るう。

 人狼の大きな口の中、上顎から後頭部にかけて二本目の剣が貫いた。こんどこそ、魔物は完全に動きを止め、やがて力なく倒れた。


「はあ、はあ、はあ」


 呼吸が落ち着かない。脳で分泌された麻酔で思考が(まと)まらず、視界もどこかぼやけている。


 テルは木に寄り掛かったまま自分の掌に目をやると、黒い砂が答えるようにどこからともなく細やかに溢れ落ちた。


 不思議とも不気味ともいえる高揚感に浸りながら、「はは」と笑いを零した。


「これが、魔法か」


 体力の限界だっただろう。その呟きを最後に意識は暗闇に落ちていった。

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