第3章68話 雷帝
迅雷が過ぎ去ったあと、一番区では肩を上下して荒く呼吸をするヴァルユートは、額の汗を拭った。
「はぁ……、はぁ……」
全身全霊の一撃を放ち、地面に片膝を着くヴァルユートの前には、一切の障害がない夜の王都が広がっていた。
回紀流星の直撃を浴びたクォーツは、弾丸と衝撃波により、全身が木っ端微塵となり、次に襲った雷電と熱によって、塵芥さえ残らずに消滅したのだ。
「はぁ……、はぁ……。……ふぅ」
達成感はある。しかし、喜びはない。『契約』の魔人を、打ち倒したというのに、その実感が湧いてこない。
巨悪を倒したが、その被害はあまりにも大きく、勝鬨を上げることさえできない。そのかわり、ヴァルユートは大きく安堵の息を吐く。獣国の汚名を雪いだという一族の悲願が為されたのだ。
ヴァルユートが鉛のように重い体をゆっくりと起こすと、背後からのしかかられたように重みを感じた。
驚愕と困惑で頭が真っ白になるヴァルユートの耳元で、潜めた声が聞こえた。
「重ねて称賛を送ろう。凄いじゃないか、ヴァルユート君」
背後からヴァルユートに抱き着き、艶っぽく囁いたのは、一糸纏わぬ姿のクォーツだった。子供のような貧相な体を押し付けられているのに、感じるのは底無しの寒気だけ。そんな凍りついたようなヴァルユートは、辛うじて口を開く。
「どうして……、お前は────」
「────ああ、そうだね。私は避けることも防ぐことも叶わず、塵一つ残らず焼き尽くされた。だから、こんなあられもない姿で復活したんだ」
そう言って、クォーツはヴァルユートに頬擦りをし、そのまま流れる冷や汗を舐めとった。全ての力を使いつくしたヴァルユートは、もはや小さな体躯を振り払う気力も残っておらず、その悪寒を堪え、声を絞り出す。
「なぜだ!? 俺は焼き尽くしたはずだ。お前は、何故ここにいるッ!」
ヴァルユートの怒声が荒野に響く。クォーツは「これから死ぬだけなのに、そんなに知りたいの? 我儘な坊やだ、仕方ないなぁ」と甘ったるい声でヴァルユートを撫でまわしたのちに、こう言った。
「君の背中に、髪の毛を一本付けておいたんだ」
ヴァルユートは絶句した。
思い浮かんだのは、王城が母胎樹シャラに飲み込まれた直後、ご機嫌な様子でヴァルユートの周りを歩き回っていた、つい先ほどの光景だ。
「私の『契約』の異能だよ。髪の毛の一本、皮膚の一欠けら、血の一滴、それだけで私は蘇ることができる。言ってなかったけど、私は今日まで王都で生活していたんだ。私が生活していた部屋には、きっと私が蘇るための要素がいくらでも落ちている」
「…………」
「きっと、家から王城に来るまでの道にも、いくつか落ちているだろうね。だから、私からのアドバイスを送るなら、さっきの技で王都を塵にしてしまうといい。私を滅殺するなら、それくらいの勢いと覚悟が必要だよ」
「………………」
そんなことができるわけがない。咄嗟に浮かんだ言葉は、あっという間に自分の心を支配した。自分には『契約』の魔人を倒すことはできない。懸命に足掻いて、死ぬ気で頑張った果てに得た結論は、いとも容易くヴァルユートの心を負った。
「どうする? もうやめる? 全部投げ出して家族のもとに行きたいなら、そうおねだりしてごらん?」
悪辣のバケモノを前に、ヴァルユートの自らに向けられた侮辱に、言い返すこともできない。
誇りを弄ばれ、尊厳を悉く凌辱されている。その全ては、自らが判断を誤ったことから端を発した。
「さあ、首を垂れて懇願してごらんよ。君のことは剝製にして私の部屋に飾ってあげよう」
殺してくれと宿敵に縋るなど、それがもっとも安楽な選択肢だったとしても、国を背負うヴァルユートは決してそんなことはしない。
「それとも、内側と外側から押し寄せる魔獣に蹂躙されたいかい?」
だが、やがてこの国は失われるだろうことが確定しつつある。既に外壁区を突破し始めた魔獣と、母胎樹シャラから生み出される尋常じゃない数の魔獣。それほどの物量に挟み撃ちに合えば、王都とて一晩と持つまい。
「……ぁあ」
「なんだい、もっと大きな声で言ってみなさい?」
やめろ、口を開くな。
信念や理性を司る自分の声が、胸の中から聞こえた。しかし、随分と小さくなってしまっている。
俺はもうダメになってしまった。
人生で最も情けない無様を晒しているヴァルユートが、投降するために声を絞った。
「……ぉれは、もう」
しかし、それを大きな雷鳴が、その声を全てかき消した。それは、母胎樹シャラに落ちた雷だった。痛み苦しむ母胎樹が、低い唸り声が地響きを生み出す。その落雷が偶然ではないことは、明白だった。
「よくもまあ、恥ずかしげもなく面を晒せるものだ」
享楽に耽っていた魔人は、興を削がれたように立ち上がって視線を上げた。
そこに立っていたのは、今にも折れそうな細い手足の皺だらけの老人だった。だが、その姿を見て、貧弱な年寄りと侮るものは誰もいない。
「父上……」
国王エルヴァーニ・L・ソニレは、傾国の瀬戸際でも翳りのない威容を携えて、魔人を睥睨していた。