第3章58話 赫星①
カインを中心に炎が広がっていく。生まれてから数えるほども使ったことのない火属性魔法だというのに、町一つ燃やし尽くしてしまいそう程の猛々しい炎が燃え上がる。
立ち上る火炎は竜と見紛うほどの高さで、夜だと言うことを忘れてしまうほどの眩さを放っている。
そんな火柱を見上げた魔人クォーツは、余裕も張り付いた笑みも崩さない。
「当初の目的は果たしたけれど、君の首をもっていけばいい手土産になるかもしれないね」
そう口にしながら、足元に広がったシャナレアの血の水溜まりを爪先でぴちゃぴちゃと音を立ててふざけるクォーツ。カインの放つ熱は、魔人と巨狼の元まで及んでおり、血溜まりが固まりつつあった。
ニアフェンリルは、しばらくもげた下顎に苦しんでいたが、最後には完全に引きちぎって、グロテスクな相貌になっていた。体の一部を奪われた怒りは、敵意を向けるカインに向けられており、クォーツが手で制してなければ、今にも飛び出しそうだった。
「……カイン」
心配そうな声をカインに向けたセレスは、眩い炎に目を細めていた。
「お前は逃げろ」
「あんたは」
「……」
一方的に告げられたセレスは、怒りに囚われた少年と、会話が成立しないことは明白だった。一言だけでも自分に言葉を向けてくれたのが最後の理性だったのかもしれない。
セレスは締め付けられる胸を抑えながら、カインに背を向けて、戦場から走り去る。
それを見送ったクォーツは「あーあ、私の玩具が」と口惜しそうに言った。
「君、カインくんだっけ。この女とどんな関係だったの?」
「……」
「恋人? それとも惚れていただけ? どちらにせよあまり気にするなよ、女なんてそこら中にいるじゃない」
「黙れ」
短く発したカインの周囲が、さらに熱量を上げた。
「『灼剣』」
カインの詠唱と同時に、クォーツはニアフェンリルを制していた手を下ろした。白い巨狼が爆発的に跳躍し、カインに突撃する。
揺らめく炎の中を駆け抜けたニアフェンリルの速さは、下顎を失っても衰えることはなかった。目下に火元である金髪の少年を捉えたニアフェンリルは、そのまま鋭い爪で軟弱な胴体を両断しようとした。が、冷たい予感が背筋を通り抜け、咄嗟に動きを止めた。
魔獣随一の速さを誇るニアフェンリルの動きを、碧眼がじっと捉えていたのだ。直後、真っ白な光が、ニアフェンリルの眼前を通過した。
それはカインが、カウンターのために振った剣だった。だが、炎を纏った剣と呼ぶにはあまりにも高温過ぎた。
鼻先が焼けたような感覚に、ニアフェンリルはぎょっとして後ろに飛びのく。想像以上の業火に、巨狼は敵の脅威を見誤っていたと確信する。
「『紅蓮風刃』ッ!」
カインが叫ぶと、広がっていた火炎から、熱風が起こり、幾筋もの刃となった。灼熱の刃は、目を丸くしている巨狼に放たれた。
『灼剣』の高温には及ばないが、直撃すればただでは済まないだろう。しかし、ニアフェンリルに直撃したカインの魔法は、跡形もなく霧散した。
「思ったよりやるねえ。妹だったら死んでいたかもだ」
「チッ」
ニアフェンリルの体毛の表面には、ぼやけたような靄がわずかに浮き上がり消えた。
それはニアフェンリルが異界下で防御に用いていた非実在化による防御の応用だった。非実在化の防御は、異界にいるときにしか使うことができず、下顎を失い異界を失ったニアフェンリルには、もう使えないはずだった。しかし、上顎分のわずかに残された異界を用いることで、瞬間的に無敵の防御を再現していたのだ。
当然、異界下の非実在化ほどの効果はなく、『灼剣』の直撃はおそらく耐えきれないだろう、という予想をクォーツはしていた。しかし、自分たちが敗北する可能性は低い。
周囲を取り巻く炎の範囲を広げ、超高温の刃を生成し、風魔法との複合技。どれも末恐ろしい攻撃だが、防御に回ったときはどうなるのか、凌げたとしても残存魔力はどれほどのものか。
「簡単に死なないでね」
クォーツは冷酷に口角をさらにを吊り上げると、ニアフェンリルが露出した喉を鳴らした。丸太のように太い前足に、魔力が宿る。
ニアフェンリルの真骨頂は、異界へと強制的に送り込んだうえでの持久戦だが、現実世界にいるニアフェンリルに何もできないというわけではない。
ニアフェンリルとカインの間には、ある程度の距離が保たれていた。お互いに何か行動を取れば、最低限の対処ができるほどの距離。しかし、ニアフェンリルはお構いなしに、黒く鋭い爪を全力で振り下ろす。
「……!?」
直後、空間が捩じれた。
ニアフェンリルの異能を銘打つならば、『異空間の展開・収納』だった。
『収納』。それは口の中という狭いはず空間を異界にしたてあげ、その異空間の寸借に、標的を取り込むことだ。実際に取り込まれたセレスたちは、二万分の一の大きさとなって、ニアフェンリルの口内へと引きずり込まれ、最後まで逃げ切れなかったシャナレアは、その口の中で元の大きさに戻り、噛み殺された。。
そして、『展開』はその二万分の一を、外部の世界に置き換えるものだ。ニアフェンリルが凶爪を振り下ろすその刹那、カインとニアフェンリルの間の距離は二万分の一の長さに縮められ、両者の距離はほぼなくなっていた。
ニアフェンリルの腕が、歪曲した空間を経由して振り下ろされた。カインの目から見れば、ニアフェンリルはずっと離れた場所にいるのに、その爪の先端だけが、突如として自分の間合いに入り込んでいるように見えているだろう。
咄嗟に反応したカインだったが、左肩に浅くない傷を負い、巨狼の黒い爪が赤い雫で飾られた。
炎の風刃を、空間のひずみに向かって放つ。しかし、既にニアフェンリルの展開した異界は消失しており、カインの放った攻撃は明後日の方向に消えていく。
「うざったいッ」
飛び交う不可視にして予測不能な斬撃。本来、初見殺しの不意打ちのような業だったが、研ぎ澄ました神経でそれを見切っている。まったく大したものだとクォーツは感心する。
しかし、情報と選択肢が増えれば、思考の処理は一気に難易度を増すことを、クォーツは知っていた。
「愉快な踊りだね。私たちも混ぜてよ」
その言葉で、安全な距離を保っていたニアフェンリルが大地を勢いよく踏んで、カインに接近する。当然、ニアフェンリルに構えるカインだったが、その周囲を囲むように空間が歪んだ。
カインの首筋に冷たい感覚が走る。背後からの嫌な予感を察知し、真横に飛び退くと、その場所に揺らいでいた炎が、背後から切り裂かれる。
躱せた安堵を、巨狼は決して与えない。畳みかけるように突進を繰り出し、その巨体でカインに迫る。不意打ちとその追撃をも、体を翻して避けたカインだったが、そこで捩じれた空間が展開され、今度は右斜め後ろから黒い爪が飛来する。
カインの白シャツがじわりと赤く滲んだ。
間断なく繰り返される一体の魔獣による挟撃は、カインの脇腹を深く抉り取った。
ぼたぼたと音を立てて落ちる血が、周囲の熱で急速に乾いて固まっていく。喉から込み上げた血を吐き捨てたカインは、苦しそうに顔を歪めている。
「早く諦めて、シャナレアの後を追えばいいのに」
そう口にして、思いついたような顔をしたクォーツは、足元に横たわるシャナレアの亡骸に手を伸ばした。
「汚い手でシャナレアに触るなァッ!」
カインの絶叫は、魔人に届くことはなかった。
クォーツは、シャナレアの死体から頭部を器用に取り外すと、カインに見せつけるようにして抱きかかえる、赤子を可愛がるようにその頭を撫でた。
その顔に浮かび上がる笑顔は、先ほどとさほど変化はない。だからこそ、その凶気が際立っている。
「ほら、君の頭も隣に並べてあげるよ」