第3章56話 とある少年の死①
◇ ◇ ◇
「何か面白い話してよ。そうだ、好きな子とかいないの?」
それは、ニアを連れ戻すため、三人でハッカ山脈の麓に向かっているときの夜の話だった。
三人は順番に火の番を務めていた。テルはぐっすり眠っていたが、日中、乗り物酔いでずっと寝ていたセレスは、目が覚めちゃったと言ってカインの番に付き合っていた。
そんな中で出た話題は、案の定くだらないものだった。
いつものカインだったら、ため息とともに手を振ってあしらっていただろう。しかし、そのときは、ニアを連れ去られたことで精神的に疲弊していたし、眠気で正常な判断ができていなかったためか、うっかりまともに受け合ってしまった。焚火の揺れが心地よかったこともあるかもしれない。
「……いるには、いる」
「へえ、だれだれ? あんたもニア? それとも私?」
「違う。言いたくない」
「ふぅん。その口振りからして、私も知っている人ね」
セレスはこういうとき嫌に鋭く、脇の甘いカインもぎょっとして否定し損ねてしまった。
「うーん、シャナレアさんとか?」
そのときのセレスは冗談を言うようだった。しかし、一発で正解を引き当てたセレスに、カインは酷く真っ直ぐな反応をしてしまった。当時のセレスが言うには、焚火に照らされていてもわかるくらい顔を真っ赤に染めていた、という。
「え、まじ!? 案外、年上好きなのね……。ていうか高嶺の花すぎ!」
「……はあ。ずっと昔に何度かあったことがあったんだ。そのときからずっと憧れの人だった。あの人がいなかったら、俺はもっと自暴自棄な生き方をしていたと思う」
「自暴自棄?」
「これ以上は勘弁してくれ。長いうえにつまらない話だ」
そういってそれ以上の追及を拒否したカインだったが、今思えば、つまらないだけでそれほど長い話にもならないような気がした。
ただ、自分がつまらない人間であることを、人に知られたくなかっただけ。
そんな自分自身、気づきたくないような感情を、焚火がちらちらと照らした。
◇ ◇ ◇
カイン・ファグムダートは御三家と呼ばれる大貴族の次男として生を受けた。
そんなカインの最も古い記憶は、家族と過ごす幸せな団欒であった。そして、二番目に古い記憶は、その家族が家ごと燃える様を茫然と見ていた絶望的な体験だった。
カインはソニレ王国の貴族の中でも、特に名声と財を持ったファグムダート家に生まれてきた。他の者と比べれば間違いなく良い暮らしをしてきたが、幼き日のカインが幸せであったのは、暖かな家族に囲まれ、よく愛情を注がれて育ったからだと、カインは確信していた。
しかし、カインが五歳のとき、火事のせいで彼の一家は兄と自分を残して、皆焼け死んでしまった。
それからというもの酷く塞ぎ込んでしまったカインは、父と繋がりのあった貴族に保護された。幼くして両親を亡くしたカインに、周りの大人はよく気にかけてくれた。当時はそれがありがたいものだと思っていたが、傷心したことで優しさを素直に受け取ることができなかった。
しかし、成長した今になって考えてみれば、あれはカインの相続した資産を貪ろうとしていたものたちの、せせこましいお節介であった。
そんななかで、シャナレアと知り合った。
シャナレアは、当時は少女と呼べる年頃だったというのにワンズ家の当主として、異質な雰囲気を放っていた。それまでカインの機嫌を取っていた貴族たちは、皆シャナレアの取り巻きだったようで、皆がシャナレアの様子を伺っていた。
幼いのに大人よりも大きな存在として君臨していたシャナレアが、そのときのカインには何か神聖な存在に見えた。
望んでもいないのに若くして大きな資産を得たシャナレアは、カインに同情していたのかもしれない。ベッドの上で丸まるカインを見たシャナレアは、他の大人を部屋から追い出すと、ベッドのふちに座った。
「自分で選ばせてあげる。この先、君はどうなりたいのか。周りの大人はああしろこうしろと指示してくるだろうけど、この先のことはカイン君の意思で決めなさい」
何故か、子ども扱いしなかったように思えた態度は厳しいものであったが、善意に満ちていたことはわかった。
そのときは何も答えなかったはずだった。だが、シャナレアは毎日のようにカインのもとを訪れた。警戒心なんてあってないようなものだった幼少期だ。一週間もすれば、彼女を最も信頼のおける人物のように思っていた。
「決まった?自分が何をしたいか」
「わからない。まだ母上も父上も生きているような気がしてしまって……」
「……」
「元の生活に戻りたい。でももう何も持っていない」
「……ねえ」
シャナレアはどこか静かで真剣な表情で、カインの顔を覗き込んだ。
「どうしてそんなに怖い顔をしているの?」
「え?」
「『自分が何をしたいかわからない』だなんて、本当は思ってないんじゃない?」
心臓がびくりと大きく飛び跳ねた。
そうかもしれないと思った。様々な感情が渦巻いて、何が好きで何が嫌いかもわからなくなりかけていたなか、はっきりと明瞭だった感情があった。それは両親が死んだという悲しみと、二度と会えない喪失感だったが、実はもう一つあった。
それは怒りだった。燃え滾るような制御の効かない怒り。全てを奪ったあの人への激情。
「君はもう、やりたいことがはっきりしているんじゃないの?」
「あ、ああ、ぁ……」
どうしてか、カインはそのときのことをずっと考えないようにしていた。その結論に至れば、一直線の道しか残らないことが、胸の深いところで理解できていたからかもしれない。
開けてはいけない箱を空けてしまった気がして、カインは手で顔を覆った。
満月の晩。燃える炎をずっと眺めていた。そして隣には、兄がいた。
その炎こそ、それまで過ごしたファグムダートの屋敷と両親や従者の命を奪った忌々しい火災だった。
どこか達成感と疲労感で満たされたような表情の兄は、自分の手を取って、笑いかけた。父と母が死んだというのに、笑っていた。
『お前が無事で安心したよ』
優しかった兄は、兄のままで、……兄のままなのに明確にどこかが違っていた。
『大丈夫、心配することはない』
何を考えているかわからなかった。真っ直ぐに向けられた透明な瑠璃色の眼差しが穏やかにカインにじっと向けられていた。
『あの両親も家も従者も、僕がみんな焼き殺した』
意味がわからなかった。理解できなかった。何もわからなかった。
憎い。
箱の中には、その感情だけがぎっしりと敷き詰められていた。
憎い。憎い。
あの日のカインは全てを失った。
家族も家も皆燃えて灰になった。
残った優しかった兄は、親殺しの鬼畜になり果てていた。
憎い憎い。憎い憎い憎い憎い。
止まらなくなった感情を押さえつけて、カインは息を荒くする。シャナレアは、背中をさすって何かを言っているがカインには聞こえていない。
「なんで……。なんで兄さんは全部燃やしたの。どうして、にこにこしながら父上と母上を殺したことをぼくに言ったの。どうして、どうして、どうして……!」
─────『自分が何をしたいかわからない』だなんて、本当は思ってないんじゃない?
頭の中でシャナレアが言った先ほどの言葉が響いた。
隣にいるシャナレアは取り乱すカインを落ち着かせようとしていたが、やはりそんな声は届かない。
─────君はもう、やりたいことがはっきりしているんだろう?
ああ、そうだ。そのとおりだ。
さっきまで悲しみと喪失感と無気力で混沌としていた思考が今では晴れ渡っている。蓋をしていた気持ちは箱から溢れ出して、もう蓋は閉まらない。
「……てやる」
「……カイン君?」
小さな呟きが、涙とともにこぼれた。シャナレアは聞き取れていたが、それを受け止め難いばかりに、聞き返してしまった。
「殺してやる。憎い。死ぬほど憎い。全てを奪ったあいつが。殺してやる、殺してやる、殺してやる」
シャナレアは絶句していた。何度か瞬かせる。細かく震えて涙を流すカインにかける言葉がすぐには見つからない様子だった。
「……復讐がしたいの?」
シャナレアが恐る恐る口にした『復讐』という言葉。過去に物語の中でしか触れたことのない非現実的な言葉が、今では自分に寄り添っていた。
「うん。ぼくは兄に復讐する」
『復讐』という言葉が、自分の胸の欠損した部分にぴたりと当て嵌まるようで、とても不思議な感覚がした。