第3章53話 異界と魔狼④
場面は巻き戻り、数十分前。
最初に十八番区に発生した母胎樹を討伐し、それが陽動であると予想したカインは、すぐに次の行動に移った。
エウゥは要請が入り、ブラックガーデンの援護に回らなくてはならず、行動を別にしなくてはならなかったため、カインは一人で騎士庁本部へと向かった。
「嘘だろ」
騎士庁本部から炎が高く上っているのが見えたときは、言葉を失ったと同時に自分の予想が外れていなかったことに絶望が込み上げた。ソニレ王国の防衛の要と言える風詠みが陥落すれば、魔獣軍に形勢が傾くことは必至だった。
全速力を超えて足を走らせたカインは、騎士庁本部まであと少しとなったところで、全身が総毛立つような魔獣の遠吠えを聞き、異界化に巻き込まれたのだった。
「なんて禍々しさだよ……!」
そうして、ギリギリのところでシャナレアを救い出したカインは、濃密な殺気をまき散らす巨狼を睨みつけていた。
シャナレアは神聖魔石のおかげで一命を取り留め、意識を失っている。背後にいるセレスはかなりの重傷で、戦いには参加できないことは明白だった。
たった今この戦場に足を踏み入れたカインは、相対する怪物の正体が特位魔獣ニアフェンリルであるということを知らない。しかし、その尋常ではない気配で、目の前の魔獣がこの戦争の首魁か、それに近しい存在であることを確信した。
下手をすれば三カ月前に遭遇した魔人よりも手強いかもしれない。
ニアフェンリルは、楽しみに水を差した邪魔者を鋭く睨みつける。が、しばらくして口元に弧を描いて笑った。一目見ただけで理解したのだ。自分の脅威となるには、他の女二人同様に、力不足であると。
長い舌を垂らしながら、ニアフェンリルはカインに飛び掛かった。
生半可に防御や反撃を考えれば、その圧倒的な威力をもろに浴びることになる。戦いは長くは続かないだろう。そんな巨狼の予想は、意外にも的中しなかった。
絶え間なく振り続ける破壊。カインはそれに対し、軽やかな身のこなしで危なげなく躱した。さらには、間隙を縫うような隙に、鋭く的確な反撃を繰り出している。
「何よ、アレ……」
這いつくばったままのセレスは、その戦いぶりに息を飲んだ。以前までのカインとは別物のような洗練された動きは、ニアフェンリルと対等に渡り合っているように見えた。
非実在化の防御を持ち合わせるニアフェンリルに攻撃が通用しているわけではない。しかし、相手が幾度となく靄の体に剣を当てたという事実が、焦りを生み出し、思考と動きをわずかに鈍らせる。
別人と見紛うほどの成長は、特位騎士カミュとの鍛錬の賜物だった。
人格破綻者などという罵声を向けられていたカミュ。実際カインも二人目の師に向けられるその言葉に、首を縦に振りがたい気持ちに襲われるが、剣士としては超一流だった。
「動きに無駄がありすぎる。体に覚えさせてやるよ」
鍛錬のさなかの言葉だ。
カミュはとても細い糸を繰る能力を持っており、それを用いて様々なことをこなしていた。
「筋肉の繊維は糸のようなものだ。僕が一度完璧に正しい動きを教えるから、それを死ぬ気で反復しろ」
カミュの操り糸はカインの体に入り込み操り人形のようになったカインは、超一流の欲する完璧な動きを、自らの動きを以って体感する。本来であれば幾年もの歳月を重ねて体得する知見をたった数時間で得て、その経験はカインを飛躍的に成長させたのだ。
涎をまき散らし、無敵を誇る故に許された隙だらけの渾身の一撃がカインに降りかかる。完全に避け切らなければ、余波で深いダメージを負ってしまうほどの攻撃。しかし、あろうことかカインはそれに対し受ける構えを取った。
流麗な動作は、思わず目が釘付けになるほどの美しさがあった。
カインの反撃をせず、攻撃を完璧に受け流した。ニアフェンリルは、そのまま勢い余らせ地面に激突し、初めて異界の中でダメージを受け、その動揺は傍観しているセレスにも伝わった。
状況が大きく好転したわけではない。しかし、カインがあの強敵に引けを取らない光景は、絶望で染まっていたセレスの胸に光が差し込んだようだった。
精神的な消耗が見られたニアフェンリルは、ぱたりと攻撃の手を止めた。よく見てみるとその背後に小さな狼三匹が石碑の裏から顔を覗かせている。一匹多いのは、カインの分の小狼も増えているのだろう。
考えてみれば当然だ。ニアフェンリルにとってこれは防衛戦であり、長期戦になれば確実に勝利できるのだ。
好戦的な構えを見せていたのは、あくまでニアフェンリルの嗜好にすぎない。
セレスは自分の左腕を見ると数字は「三」になっている。時間はあまり残されていない。
「カインッ、数字はいくつ?!」
セレスの声に眉をあげたカインは、すぐにぴんと来たようで、腕に目をやる。
「八だ」
「なるほど。まあ、そうなるわよね」
セレスたちより後に異界に入ったカインは、予想通りカウントダウンにまだ余裕があった。しかし、シャナレアはもう余裕がない。
「これは何なんだ?」
「それがゼロになったら死ぬらしいわよ」
「何故先に言わないんだ!」
「そんな余裕なかったじゃない!」
そんなくだらない言い合いをしていると、セレスの数字が「ニ」になり、思わず「ひぇ」と小さな悲鳴をこぼす。
「どうやったら出れる?」
「石碑の裏の小さい狼をやっつけるだけよ」
「簡単に言ってくれる!」
カインが叫ぶと同時に地面を蹴った。一直線に石碑の小狼を仕留めに向かうが、守護者であるニアフェンリルが立ち塞がった。攻守の立場が入れ替わった第二ラウンドが幕を開けた。何度も剣閃を放つが、防御に徹するニアフェンリルに対する有効打はなく、反撃を警戒すると、カインも慎重にならざるを得ない。
セレスは神聖魔石を使い、わずかに痛みを紛らわすと、折れた剣を杖にして立ちあがった。出血も止まっておらず、戦線復帰したところで足手まといにしかならないだろう。
片手を膝につき、息を落ち着かせるセレスが何とか顔を上げる。じりじりとタイムリミットが近づく中、焦燥だけが積み重なる。そんなとき、とある音がセレスの耳に飛び込んだ。
「──────────」
真剣な表情で黙り込むセレスは、しばらくすると苦痛を押し殺して、無理矢理に笑顔を浮かべた。
「ここが正念場よ、私」
大きく呼吸をすると、セレスはぐっと背筋を伸ばす。腕は痛むが、死ぬよりマシだし、この痛みを堪えたのだから、もうどんな痛みも怖くない。
カウントダウンが「一」になる。
勝利を掴むための唯一の手段。
この細い希望を通すために、セレスは力強く走り出した。