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第3章52話 異界と魔狼③

 急激に歪む視界は、異界からの脱出の合図だ。

 少しの気分の悪さを薄目にして耐えたセレスは、気づけば元々いた騎士庁本部の門のすぐそばで立っていた。隣には膝をつけているシャナレアがいる。明らかに顔色が悪く、一刻も早く治療しなくてはならないことは目に見えていた。


 いち早く、異界に連れ込まれない場所まで引かなくてはならない。そう思っていたが、出口の方向にはご丁寧に魔人と巨狼が逃げ道を塞いでいる。


 異界からの脱出が叶っても、そのあとに打つ手がないのではどうしようもない。


 セレスはそのまま手にある拳銃の残り四発を、クォーツに向けて一気に発砲する。

 あわよくば、見知らぬ兵器に後れを取ってくれないものかと考えていたが、案の定、クォーツに着弾するまえに、ニアフェンリルが銃弾全てを蹴散らした。


「その玩具(おもちゃ)はもう使わないのかな?」


 明らかな挑発だが、セレスには反抗的な笑みを浮かべる余裕もなく、奥歯を噛んで喉を鳴らす。秘策である拳銃も弾を出し尽くし、再装填する余裕などない。


 クォーツとニアフェンリルは距離を保ったまま、こちらの出方を伺っている。まだ何か隠していると思っているならありがたい話だが、長くは持たない。

 セレスは、懐に持っていた神聖属性の魔石を全て取り出すと、視線は敵二人に向けたままシャナレアの手に持たせる。 


「私が時間を稼ぐ。だからなんとか逃げ延びて」


「今の私たちじゃ異界から逃れられないし、君一人じゃできっこない。奴らの狙いは初めから私だ」


 端的なセレスの言葉に、シャナレアは苦しそうに首を振る。しかし、自分の中では既に決定事項であり、聞く耳を持たないセレスが魔石を無理矢理に起動すると、淡く白い光がシャナレアの困惑の声もろとも包み込む。


「五分なら何とか稼げる。異界化の遠吠えもさせない。私がどうなろうとも、あなたは生き残らなくてはいけない」


「どうして……」


 セレスの真剣な顔をまじまじと見るシャナレアが、声を振るわせた。

 言いたいことはわかる。既に事態の深刻さはシャナレア一人で状況が変わる段階にはない。だというのに責任も何もない若者が、自分のために命を投げ出そうしている。


 しかし、答えは口にするべくもない。

 セレスは騎士であり、シャナレアは守るべき市民である。それ以上も以下もない。


 立ち上がりシャナレアに背を向ける。クォーツは余裕ぶって、こちらの会話が終わるのをわざわざ待ってくれている。ニアフェンリルは暇で遊んでいるのか、しきりに顎を動かしては、砂利のようなものを口から吐き出した。


「行って!」


 セレスの叫ぶと、背後で微かな逡巡の気配を感じたが、そのあとで「ごめんなさい」という呟きと走り出す足音が聞こえた。

 あとは自分が持ちこたえれば、きっと逃げ切ってくれるはずだろう。


「君の健気さには胸を打たれたよ。だから特別に教えてあげよう。私は複数の魔獣を同時に使役できる。だけど、指定十冠魔は容量を圧迫するから、そうはいかないんだ」


「何が言いたいのよ」


「頑張ればシャナレアは逃げ切れるかもね」


 どうせできやしないだろうけど。魔人の目はその本心を隠すつもりがないようだ。


「上等よ」


 セレスが吐き捨てると、戦いの第二幕が幕を開けた。

 視線を鋭くするニアフェンリルには、遊びがない。セレスが動き出すと同時に、大きく息を吸い込み、遠吠えを鳴り響かせようと、天を仰ぐ。


「─────ッ!?」


 喉は大気を揺らし、獲物を再び異界へと送り込むはずだった。しかし、ニアフェンリルの口は開くことができず、目を大きく見張った。


「まだ隠し玉があったんだ」


 感心したようなクォーツは手を口元に添える。

 セレスは、遠吠えを空振ったニアフェンリルとの間合いを一気にゼロにすると、がら空きになった喉を目掛けて、横一文字に剣を振る。しかし、紙一重のところでニアフェンリルは体を反らして剣を避けた。ニアフェンリルの硬い皮膚に裂傷が生まれる。


 先ほどよりも、ずっと俊敏な動き。まるで今まで手加減していたかのような機動力の差。ニアフェンリルは、手心を加えられていたという事実が、魔獣の最上位の一角としての矜持に傷がつけられ、一際低く響く唸り声を、セレスに向けた。


 しかし、セレスの様子を見れば、それが代償のもとに成り立たせているものだと一目で理解できる。病人のような顔色で目は血走っている。誰の目から見ても、この状態が五分持つとは考え難い。


 ニアフェンリルは依然開かない口の代わりに、自らを侮った不埒者を粛正するため、漆黒の爪をセレスに向ける。

 しかし、満身創痍に見えるセレスが人差し指を、折り曲げると、ニアフェンリルは凄まじい力で、横に引っ張られて、地面に激突した。


 一切無駄のない達人的な魔力効率で、身体機能を飛躍的に向上させたセレスが、もう一度巨狼の喉を破壊しにかかる。巨体に(またが)り、真っ直ぐに振り下ろされた細剣。しかし、生物にはありえない角度で首を捩じり、剥き出しになった歯で剣を防ぐ。


 硬い音を立てて、細剣が真っ二つに砕けた。一瞬、目を見張ったセレスは、砕けて刃だけになった剣を直接手で握りしめ、両手の刃でさらにもう一度、剣を振り下ろす。今度は二か所同時で、刃で食い止めることもできない。


「かはッ」


 しかし、剣がニアフェンリルの肌を破るよりも先に、セレスの口から大量の血液が吐き出された。

 わずかな間、硬直したフェンリルだったが、すぐにセレスが限界に到達と気づき、放り出されたセレスの片腕を、大きな顎で咥えた。

 噛み千切られることはなかったが、万力のような圧力で腕の骨がみしみしと音を立てて砕けていく。


「……ああッ!」

 

 ニアフェンリルはそのまま玩具で遊ぶように、片腕とともにセレスを振り回すと、そのまま地面に叩きつけた。


 ボールのように弾んだセレスの体は、そのまま木に激突し、受け身を取ることもできない。


「大健闘だ。よくここまで頑張ったね」


 チカチカ明滅した視界と気怠い思考が、魔人の声に遅れて飛び込んでくる。短い間気絶していた。気づけばクォーツはすぐそばまで歩み寄っている。


「君たちは負けだ。でも君の頑張りは無駄にしない。シャナレアは殺すけど、セレスちゃんはご褒美に、王都壊滅の数少ない生存者にしてあげよう。他にはあと二人ほど生き残る予定だから、心配しないで。寂しくないよ」


 気でも狂ったようなクォーツの言葉が、おそらく本気で言っているであろうことがわかる。セレスは首を動かさずに、シャナレアが走っていった方向を見る。既にその姿はない。きっと逃げ切れたのだと、安堵しようとしたところで、またしても邪悪な嘲笑がセレスを踏みにじった。


「残念。どれだけ距離を離そうと、一度異界に入った者は逃げることは叶わない」


 しゃがみこんでセレスの顔を覗き込むクォーツ。

 次に遠吠えが響けば、シャナレアはまた異界に連れ戻される。クォーツは、その事実に瞳孔を震わせるセレスの顔を掴み上げると、絶望に侵される表情を堪能するかのように、顔を近づける。


「君がなんなのかも大方、見当がついたよ。よかったね、|亡霊に操られるのは今日で終わりだ《・・・・・・・・・・・・・・・・》」


 クォーツがセレスの耳元で囁くと、掴んでいた顔を離した。抵抗することもできず落ちるセレスに見向きもせず、魔人はそのまま距離をとると、ニアフェンリルを一撫でする。


「このコが生み出す異界は、このコの口の内なんだ。しばらくは、その中で待っていてもらうけど、君が食べられることはないから安心してほしい。ほら、口の中の魚の骨を避けて身だけを飲み込むがあるだろう。それと同じさ」


 クォーツの声が空虚に響く。


 隙を見て、首を掻き切ってやろうと思ったが、もはやセレスはまともに動ける体ではない。左腕の骨はぐちゃぐちゃになって、破れた肉と皮の間から骨が覗いている。


「さあ、仕上げだ。」


 クォーツの言葉でニアフェンリルが数歩前に出る。セレスの縛りから解放された巨狼を妨げる者はもうどこにもいない。


 遠吠えが響き渡ると、瞬きする間もなく視界に映る景色が変わった。

 背の高い石碑が円になって置かれた暗い空間。クォーツが、ニアフェンリルの口の中と語ったその異界に、セレスは三度送り込まれた。


「く、っそ……!」


 歯を食いしばり地面を殴りつけるセレスを、ニアフェンリルは見下ろす。


 セレスからそれほど距離の離れていない場所で、別の息遣いが聞こえた。激痛を堪え振り返ると、混乱した様子のシャナレアが恐怖を押し堪えたような険しい顔をこちらに向けている。


「シャナ、レアさん……」


 後悔と罪悪感で塗れた声は弱々しかった。自分の役割を果たすことができなかった悔しさで、視界が涙で滲む。どんな罵声を浴びせられても仕方がない。しかし、シャナレアはセレスに向けて穏やかに首を振った。


 誰だろうと、どうすることもできないことを受け入れた、諦めの瞳だ。

 ニアフェンリルは、逃げる気のない獲物に近寄るとシャナレアに前足を掲げた。薄く美しい体が魔獣の前足で踏みつけられると、少しずつに体重を乗せられているのか、シャナレアの苦痛の声が漏れ出て、だんだん大きくなっていく。

 徐々に苦しんで死ぬシャナレアを見せつけるように、ニアフェンリルが横目でセレスを一瞥した。主の命令でセレスを殺すことのできない代わりに、屈辱を植え付けるつもりだったのだろう。


「があ、ああ……あああ、あああああああ!」


 聞くに堪えない断末魔。みしみしと骨と肉が潰れていく音。やめろと叫ぶセレスの怒号。


 そんな中、不意にニアフェンリルの体が煙になったように半透明になった。

 直後、異界に突風が吹きすさび、舞い上がった埃に、セレスは目を塞ぐ。


 目を開けてみれば、巨狼の足元にセレスの姿はなかった。この世界から消滅してしまったのだと、嫌な想像がよぎったがそうではない。


 シャナレアは、ニアフェンリルから離れた場所で、ぐったりとさせた体を別の誰かに預けていた。

 いるはずのない新しい異界の訪問者にセレスは目を見張る。久方ぶりに再会した金髪と碧眼の少年は、静かな怒りを湛え、相対する巨悪を睨みつけている。


「カイン……ッ!」


 ニアフェンリルは奪われた獲物を取り換えさんと、大口を開いてカインに迫る。しかし、カインはその口に目掛けて幾つもの風の刃を展開し、非実在化したニアフェンリルはカインとシャナレアの体を素通りした。


「躾のなってない犬は嫌いだ」


 そう吐き捨てたカイン・スタイナーは、意識のないシャナレアをそっと地面に寝かせて、剣を抜いた。


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